何事もならぬといふはなきものを ならぬといふはなさぬなりけり
和歌原文
なにごとも ならぬといふは なきものを ならぬといふは なさぬなりけり
何事もならぬといふはなきものを ならぬといふは なさぬなりけり
吉田松陰 嘉永四年八月十七日「江戸留学中、父叔父宛てに書いた手紙より」
現代語訳
どんなこともできないことはないのに、「できない」というのはやらないからである。
鑑賞のポイント
①行動家 吉田松陰の片鱗をみせる和歌
この和歌が登場するのは嘉永四年(1851年)八月「父と叔父に宛てた手紙」の中です。同年の三月に松陰は藩主に従って江戸に初めての留学をしました。この時に前回の和歌ブログでも登場した佐久間象山や宮部鼎三らと出逢います。自分の人脈・学問の幅が一気に広がる松陰22歳の時でした。そのような江戸での日々の出来事を郷里の父や叔父に手紙で伝える中にこの和歌はありました。それは『武士訓』という武士の日常の心構えを書いた本を読んで松陰の心に残った1つの和歌でした。
最初は「松陰のよんだ歌」と思い調べてみたのですが、該当の手紙には「昨夜武士訓を読む 其内歌多き中に一首・・・」という文章に続けて今回の歌があるので『武士訓』の引用と思われます。(『武士訓』を読み、今回の和歌を見つけましたらあらためて報告します!)
とはいえ 行動家 吉田松陰 ができあがる過程にはこのような言葉との出逢いが無数にあったのでありました。この歌を紹介した同年の12月に松陰は有名な 東北脱藩旅行 を断行します。友達と交わした東北旅行の約束を果たす為に藩の許可を待たずに脱藩してしまう行動です。これも行動力なのかはさておき・・・。
②久坂玄瑞との手紙にみる「行動」の意味
話は変わりますが 久坂玄瑞(くさかげんずい) という人物をご存知でしょうか? 松下村塾のエースとして高杉晋作と共に挙げられる人物です。松陰からも信頼が厚く松陰の妹と結婚したのが、この久坂玄瑞です。後に長州藩の尊王攘夷派の中心として活躍しますが、禁門の変に参加し自害してしまいます。詳しくはこちら↓
この玄瑞が松下村塾に入る前に松陰と手紙のやりとりをしています。この手紙がすごく激しい!そして「行動」について考えさせられます!そこで、二人の手紙のやり取りから「行動」について考えたいと思います。(ちなみにこの頃の松陰は密航の失敗から入れられていた獄より出獄し家にいた時でした。)
松陰です
久坂です
今の時代はどうなっているんですか!日本らしさ、武士らしさは緩み、西洋にやられっぱなしではないですか。元寇の頃に元の使者を斬ったように、今も西洋の者を斬るべきだ!
議論が軽薄で、思慮が浅い。誠の心が沸き起こって書かれた言葉でない。世間の慷慨を装って実は利益や名声を求めるのと同じだ。僕はこのような文章を嫌うし、この種の人物も憎む。なぜこう考えるか説明するので、よく考えよ! ①北条時宗(元寇の時の鎌倉幕府の執権)を例に挙げることがずれている。 ②使者を斬る時期は既に逸している。これが思慮が浅い部分だ。 ③ことを論ずるには、まさに自己の立っている地点、置かれている身より考えて論を進めるべきだ。君は医者だ。それなら医者の立場から考えよ。利害を心から断ち、死生を念頭に置かず、国、主君、父のことのみ思うべきだ。家を身を忘れ、家族を友人を郷党の人々を巻き込み、上は主君に認められ、下は人民に信頼される。こうしてから事は行われるべきだ。誰でもできることだ。こういうことを考えず一人おごり高ぶって天下に対しての計画を発言することは意味がないことだ。これが議論が軽薄と言った部分だ。あなたの役割はなんだ?弓馬か?刀槍か?舟か?鉄砲か?それとも大将なのか?使者なのか?自分の周りにあなたの為に死ねる人は何人いるんだ?あなたの為に力を貸そうという人は何人いる?資金を出してくれる人は何人いる?すごい人というのは議論ではなく、成したことがすごいのだ。あれこれ言う前にまずは誠を積み重ね蓄えることに専念しなさい。
先生の手紙を読み憤激しました。一言言わせてください。今の日本に欠けているのは勇気であり決断ではないか。日本人の魂を奮い立たせる為に使者を斬るべきと言ったのです。先生は医者は医者の立場で物を言えと言われますが、一医者が天下を論じることがいかに分を越えたことかは先生の言葉がなくても十分理解しているつもりです。じっとしていられぬからこう申し上げたのです。先生ならばきっと分かって頂ける。そう思ってお手紙をさし上げたのに、このような手紙を受け取ったのは非常に残念です。先生がおっしゃることにはどうしても納得できなません。これが先生の本心であれば、先生を紹介くださった※宮部さんが先生を誉めたこと。自分が先生を豪傑と思ったことは全て誤りだったと言わねばなりません。 ※宮部鼎三のこと
君は僕の批判は自分が地位を越えて天下を論じたことと思い込んでいるが、僕が君に望みをもっているのはまさにこの「越えられる」ということである。そのことを理解せず、あえて越えようとせず、いたずらに坐して空論をするだけ。これが大いに残念だ。君は雄弁に語っているが一事として自らの実践から出たものではなく全て空論だ。僕は君から空論の病を取り去り、自ら実践する場に戻したいと思っている。一身より興して家に達し、一国より天下に達する。一身より子に伝え、孫に伝え、曾孫、玄孫に伝え、遠い子孫に伝える。広まらない、達しないところがないようにせねばならない。遠くまで達するかは行為の厚い薄いを示し、広く伝わるかは志の深い浅いを示す。心を天地の間に立て、一命を人民の間に立て、古の偉人のあとを継ぎ、万世に開くのです。
先生は私を口先だけだと言う。私はそれを否定しようとは思わない。もしかしたらそうかもしれない。しかしそれでも言わないではおられないのだから言うのです。
君の説明を聞いて僕が間違っていたことがやっと分かりました。どうか決心し、今から計画し外国の使節を斬ることを任務としなさい。僕は以前使節をこらしめようと考えたが、才能も策略もなく何もできませんでした。その後は密航を試みましたが失敗しました。君が僕に賛成しないのは、自分の才略をもって成功させられると自信をもっているからでしょう。本当に僕は及びません。もし君が実行すれば天下万世にその名声は広まり、後世に名を残すでしょう。しかし・・・もし口だけで実行しないのであれば僕はもっと君の空虚で口だけなことを責めるでしょう。まだ反論しますか?どうですか?
いかがでしょうか?この手紙のやりとり。当時松陰27歳。玄瑞17歳。松陰は17歳の青年に全力でぶつかっていきます。そして玄瑞も全力でぶつかっていきます。この魂のぶつかり合いには圧倒されるしかありません。後に久坂は松下村塾に入塾し、松陰の元で直に学び、志士として活躍していきます。明治維新とはこういう人物達の想いと行動の積み重ねで達成されたものということを強く感じる手紙のやりとりです。
最後に
松陰と玄瑞の手紙の中で「行動」について大切なことを学ぶことができます。それは「自己の立っている地点、置かれている身から考え行動せよ」「まず自分自身のみでできることから行動。そこから家族、地域、国と広がっていくものだ」ということです。「国はもっとこういう施策をすべきだ」「会社のここがだめだ」「家族がこうであれば」という言葉を口にした時は自分の心の中の松陰がこう言います。「それにむかって自分ができる範囲で何をしているの?」と。
何事も「成らぬと」いふはなきものを「ならぬ」と言ふは為さぬなりけり
小さなことでも、些細なことでも。1mmでも前に歩む行動をすると自分自身と約束をしてみませんか?高すぎる目標を立てる必要もありません。1mmでいいのです。言葉にしたことを実現するためにできる1mmの行動を。
心に和歌を!
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
↓今回の参考文献1
↓今回の参考文献2
『日本への回帰 第七集』国民文化研究会
吉田松陰の他の和歌はこちら↓