おいどんブログ

和歌・短歌を紹介します!

親思ふ こころにまさる親心 けふの音づれ 何ときくらむ

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短歌原文

親思ふ こころにまさる親心 けふの音づれ 何ときくらむ

おやおもふ こころにまさる おやごころ けふのおとづれ なんときくらむ

吉田松陰 江戸獄中より故郷に送った手紙「永訣の書」より

 

けふ(きょう):今日

音づれ:手紙での知らせ

らむ:今ごろは~しているだろう(現在推量)

現代語訳

自分が親を思う気持ちよりも勝っている親の子を思う気持ち。

今日の自分の知らせを親はどう受け止めてているだろうか・・・。

(知らせ→自分が処刑されるとい知らせ)

 

吉田松陰について

吉田松陰は幕末の思想家。後に活躍する初代内閣総理大臣 伊藤博文高杉晋作久坂玄瑞などを育てた教育者として有名ですね。松陰は30歳という若さで、安政の大獄により処刑されてしまいます。この短歌はその処刑の1週間前に家族にあてた別れの手紙の中の短歌となります。

 

松陰については過去の記事を参照ください

 

↓同じく獄中の短歌

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↓黒船に乗り込む話

 

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↓弟子久坂玄瑞との熱すぎる!往復書簡

 

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死を前に思う親心

家族に向けて書かれた処刑前の手紙「永訣の書」。この短歌の前に次のような言葉が書かれています。

(原文)「平生(へいぜい)の学問浅薄(せんぱく)にして至誠天地を感格(かんかく)すること出来申さず、非常の変に立ち至り申し候。嘸々(さぞさぞ)御愁傷も遊ばざるべく拝察仕(つかまつ)り候。」

(訳)「普段の学問が浅かったので、私の誠の気持ちでは天地を動かすことができず、処刑されることになりました。さぞお嘆きになられるだろうとお察しします。」

松陰が死を前にしていかに冷静に、自分の先を見据えていたか。そして死を捉えていたかが分かります。以前のブログで『留魂録』(仲間にあてた死を前にした手紙)について紹介しましたが、松陰の精神がいかに高いところにあったかが伝わります。もし自分だったら・・・死を前に決してこのような心持ちにはなれないでしょう。

 

死を前にして生まれてからの人生を何度も回想したでしょう。そこで浮かぶ両親の愛情。自分が今まで注いでもらってきた愛情を思い浮かべながら、この短歌を記したと思います。ちなみに松陰の家は家族仲が良く、松陰自身も親想いの青年でした。

この歌で松陰は「親思ふ」と自分の気持ちを最初に率直に述べました。しかし「こころにまさる親心」と自分の思いをはるかにこえる親の愛情に視点を変えます。そしてその親の愛情は「けふの音づれ 何ときくらむ」と続けます。自分は両親を本当に大切に思う。いやそんな自分より親はもっと私を愛してくれている。ああ、その両親はこの死の知らせをどう感じるだろうか・・・。最後には親の気持ちに立って、自分の死をどう感じるか考えるこの短歌は松陰の優しさを感じさせてくれます。

 

自分の死を前にしても残された人のことを思う。これは人間誰にも備わっている「優しさ」の発現ですね。

 

外出できず、辛い日々だからこそ、周りの人の愛情を感じられるいい機会かもしれません。

 

心に短歌を!

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

 

真砂なす 数なき星の 其の中に 吾に向かひて 光る星あり

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短歌原文

真砂なす 数なき星の 其の中に 吾に向かひて 光る星あり

まさごなす かずなきほしの そのなかに われにむかひて ひかるほしあり

正岡子規 『竹の里歌』連歌十首のうちの一首

 

真砂(まさご):細かい砂

なす(成す):状態。作る

数なき:数なし→数えきれない程多い

 

現代語訳

細かい砂をまき散らしたような数えきれない程の星の中に、私に向かって光る星があるなあ。

 

星は我々と同じ感情をあらわしている

今回も正岡子規の短歌です。正岡子規については前回ブログを参照ください。

 

oidon5.hatenablog.com

 

 

この短歌は明治33年(1900年)7月に詠まれた10種の連歌の1首目となります。病の中、部屋から夜空を眺めた時に詠んだ短歌です。この短歌については、芥川龍之介が『侏儒の言葉』という作品に引用していますので、その文章を紹介します。

 



 太陽の下に新しきことなしとは古人の道破した言葉である。しかし新しいことのないのは独り太陽の下ばかりではない。
 天文学者の説によれば、ヘラクレス星群を発した光は我我の地球へ達するのに三万六千年を要するそうである。が、ヘラクレス星群といえども、永久に輝いていることは出来ない。何時か一度は冷灰のように、美しい光を失ってしまう。のみならず死は何処へ行っても常に生をはらんでいる。光を失ったヘラクレス星群も無辺の天をさまよう内に、都合の好い機会を得さえすれば、一団の星雲と変化するであろう。そうすれば又新しい星は続々と其処に生まれるのである。
 宇宙の大に比べれば、太陽も一点の燐火りんかに過ぎない。いわんや我我の地球をやである。しかし遠い宇宙の極、銀河のほとりに起っていることも、実はこの泥団の上に起っていることと変りはない。生死は運動の方則のもとに、絶えず循環しているのである。そう云うことを考えると、天上に散在する無数の星にも多少の同情を禁じ得ない。いや、明滅する星の光は我我と同じ感情を表わしているようにも思われるのである。この点でも詩人は何ものよりも先に高々と真理をうたい上げた。

真砂まさごなす数なき星のその中にわれに向ひて光る星あり

 しかし星も我我のように流転をけみすると云うことは――かく退屈でないことはあるまい。

 https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/158_15132.html 青空文庫 

 

芥川龍之介はこの子規の短歌に対して遠い宇宙の極、銀河のほとりに起っていることも、実はこの泥団の上に起っていることと変りはない。」明滅する星の光は我我と同じ感情を表わしているようにも思われる」という真理を詠んだものと感じたのでした。星と自分は別の存在であり、星はただ自ら光り、我々はただ我々なりに生きている。しかし実はあの遠い存在である星も、今ここに生きる自分と同じ流転の中で存在している(生きている)のであります。人間は感情を持ち、自然は感情もない無機質なもの。という発想ではこの子規の短歌は単純な擬人化の歌になったしまいます。そうではなく、子規は初夏の星から、自分に向けた意思を感じたのでした。みなさんも同じようなことをふと感じた瞬間はないでしょうか?「波が語り掛けてくるようだ」「山が見守ってくれている」「木々や花々が力をくれるようだ」「大きく息を吸い込み目を閉じて自然と一体になる」このような瞬間を子規は短歌に詠んだのではないかと思います。そして、子規はその星により具体的なものを感じるのでした・・・。それは連作の続きで分かります。

 

星の連作

ここで今回の短歌が含まれる十種連作を紹介します。

 

真砂なす数なき星の其の中に吾に向かひて光る星あり

たらちねの母がなりたる母星の子を思ふ光吾を照せり たらちねの=「母」にかかる枕詞

玉水の零(しずく)絶えたる檐(のき)の端に星かゞやきて長雨はれぬ

久方の雲の柱につる絲(糸)の結び目解けて星落ち来る 久方の=「天」関係にかかる枕詞

空はかる臺(うてな)の上に登り立つ我をめくりて星かゞやけり ※臺=高い所

天地(あめつち)に月人男照り透り星の少女のかくれて見えず

久方の星の光の清き夜にそことも知らず鷺(さぎ)鳴きわたる

草つゝみ病の床に寐(寝)かへればガラス戸の外に星一つ見ゆ

久方の空をはなれて光りつゝ飛び行く星のゆくへ知らすも

ぬば玉の牛飼星と白ゆふの機織姫とけふこひわたる ※ぬばたまの→「黒いもの」にかかる枕詞

 

どれもとてもいい短歌ですね。星空を眺めながら子規が色々と想像している姿が目に浮かびます。連作のいいところは、思いつくままにどんどん短歌にしていくこと。なので、子規がどういうことを感じたかが手に取るように伝わります。さて、この中の二首目「たらちねの母がなりたる母星の子を思ふ光吾を照せり」が今回紹介した一首目の短歌とつながりますね。連続してあらためて詠んでみましょう。

真砂なす数なき星の其の中に吾に向かひて光る星あり

たらちねの母がなりたる母星の子を思ふ光吾を照せり

たくさんある星の中の一つが自分に向かって光っている・・・あれは・・・母が星になって我が子を想い光っているのだ。という心の動きですね。子規は最初無数の星から一つの星がどうも気になりました。あの星はどうも自分に向けて光っているようだと。そしてその星に母を感じました。母が星になり、自分を照らしているのだと。ちなみに、子規の母、正岡八重は子規が亡くなる時に看取っているので、この時まだ生きていました。つまり子規は看病してくれる母の愛が自分に向かって輝く星とだぶって見えたのです。ただ一心に自分の方を向いてくれている星の光は母の愛そのものだったのです。

 

この翌々年に子規は亡くなりました。人間は追い詰められた時に人生の尊さに気が付くものです。人の優しさに気が付くものです。だからこそ、死と向き合った子規の数年は、人間の真理を我々に思い出させてくれるのです。

 

心に短歌を!

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

足たたば 北インジアの ヒマラヤの エヴェレストなる 雪くはましを

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短歌原文

足たたば 北インジアの ヒマラヤの エヴェレストなる雪くはましを

あしたたば きたインジアの ヒマラヤの エヴェレストなる ゆきくはましを

 

正岡子規

 

まし:もし~だったら~だろう(反実仮想)

を:~のになあ(詠嘆)

 

現代語訳

もし立つことができれば、北インドのヒマラヤにあるエベレストという山の雪を食っただろうなあ。

 

短歌を再定義した 正岡子規

正岡子規といえば、教科書に必ず出てくる有名な人物です。明治時代の俳人歌人として知られています。

柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺

いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春行かんとす

などはどこかで聞いたことがあるのではないでしょうか。子規は自ら俳句や短歌を詠みましたが、その文学論でも日本に大きな功績を残したことで有名です。特に俳句・短歌の革新に心血を注ぎました。

短歌で言えば「技法やルールに縛られるのではなく、想いをありのままに詠め!古今集などのような貴族の歌ではなく、万葉集にかえれ!」と訴えました。子規の『歌よみに与ふる書』を読めば、そのことが直接的な言葉で表現されています。

 

「貫之(紀貫之)は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に有之候。」

「それでも強ひて『古今集』をほめて言はば、つまらぬ歌ながら万葉以外に一風を成したる処は取得にて、如何なる者にても始めての者は珍しく覚え申候。ただこれを真似るをのみ芸とする後世の奴こそ気の知れぬ奴に候なれ。」

 

一部抜粋してもなかなか直接的です・・・。

短歌の価値を再定義した熱い漢、正岡子規 といえるかもしれません。

短歌とは、韻を踏んだり、1つの単語に2つの意味を持たせたり、技法をこらす貴族のお遊びではなく、自らの心の声をありのままに五七五七七にあらわすものである。という価値に気が付かせてくれたのが子規でした。

 

↓短歌とは何かについては、以前のブログで紹介しています。

oidon5.hatenablog.com

 

oidon5.hatenablog.com

 

病気と闘った 正岡子規

さきほど紹介した『歌よみに与ふる書』の抜粋文章のように、強烈な言葉を残した子規ですが、子規が後世に大きな功績を残したのには、その短く太い人生が関係していると思います。子規は晩年脊髄カリエスという病気で、ほとんど寝たきりのまま34歳で亡くなっています。子規が生をそのまま表現することを主張したことは、子規の人生そのものの表現であり、だからこそ、その言葉に力が宿っていると思います。子規の『病床六尺』は死ぬ2日前まで書かれた随筆集で、以下の言葉から始まります。

 

「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。わずかに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団ふとんの外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。はなはだしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤まひざい、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽をむさぼ果敢はかなさ、それでも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限つて居れど、それさへ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つ事、しゃくにさはる事、たまには何となく嬉しくてために病苦を忘るるやうな事がないでもない。年が年中、しかも六年の間世間も知らずに寐て居た病人の感じは先づこんなものですと前置きして・・・」

https://www.aozora.gr.jp/cards/000305/files/43537_41508.html 青空文庫より

 

苦しい病気であることが伝わる一方、どこか力を感じませんか?

これが子規の魅力です。

今回の子規の歌はこのような病気の中で、坂井久良伎(川柳作家)が箱根から写真を送ってきたことで、詠まれた連作(想い浮かぶものを連続で短歌にしていく手法)の一首です。

 

足たたば 北インジアの ヒマラヤの エヴェレストなる雪くはましを

 

子規の創造はエベレストまで飛んでいき、そしてその雪を食らいます。子規が主張しているように、自らの作品もありのまま表現されています。まっすぐに心に伝わりますよね。せっかくなので、連作九種すべて紹介します。

 

 足なへのいゆてふ伊予の湯に飛びても行かな鷺(さぎ)にあらませば

 足たたば箱根の七湯七夜寝て水海(みづうみ)の月に舟うけましを

 足たたば不尽(ふじ)の高嶺のいただきをいかづちなして踏み鳴らさましを

 足たたば二荒(ふたら)のおくの水海にひとり隠れて月を見ましを

 足たたば北インジアのヒマラヤのエヴェレストなる雪くはましを

 足たたば蝦夷の栗原くぬ木原アイノが友と熊殺さましを

 足たたば新高山の山もとにいほり結びてバナナ植ゑましを

 足たたば大和山城うちめぐり須磨の浦わに昼寝せましを

 足たたば黄河の水をかち渉り崋山の蓮の花剪らましを

 明治三十一年 連作九首

 

子規の想像が暴れまわっています!

 

家で闘う

病で数年間寝たきりであった子規でもこれだけの功績と、これだけ縦横無尽に心を開放できるのです。今の状況は鬱屈とさせますが、子規を見習い、身はお家でも心は世界を駆け巡りましょう!

そしてこの機会に短歌を詠んでみませんか?

 

心に短歌を!

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

 

 

東風吹かば にほひ起こせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ(春を忘るな)

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短歌原文

東風吹かば にほひ起こせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ(春を忘るな)

 

こちふかば にほひおこせよ うめのはな あるじなしとて はるなわすれそ(はるなわするな)

 

 菅原道真

 

東風(こち):東から吹く春の風

あるじ:主

な~そ:禁止 ~するな

 

現代語訳

東から風が吹いたら、匂いを届けておくれよ、私の梅の花よ。主人がいないからって春を忘れるでないぞ。

 

左遷のさみしさ

今回の歌人菅原道真名前は皆さんご存じではないでしょうか?

「〇〇天満宮」「天神さま」「天神さん」はこの道真公を祀った神社です。

「学問の神様」として有名ですね。

実在の人間ですが、死後に神様になった人物です。

「学問の」神様なだけあり、非常に優秀で、右大臣(非常に高い地位。朝廷内No2、3位の地位)までのぼりつめました。あの遣唐使の廃止を建議したのも道真のようです!

ただ、その優秀さを妬んだ左大臣 藤原時平一派の策略により、謀反の疑いをかけられ、中央政権から大宰府(現在の福岡県)の長官に左遷させられてしまうのでした。

この短歌は、左遷前に自宅の庭に植えられた梅の木に向かって、
問いかけるように詠んだ歌となります。

 

東風は、東から西に吹く風。なので、京都から大宰府の方向に吹く風です。

「風が吹いたら、この匂いを大宰府までちゃんと届けてくれよ」

と道真は梅に託すのでした。そして付け加えます。

「主人がいないとしても・・・春を忘れるでないぞ・・・」

中央で栄華を極めた生活は終わり、これから自分は落ちぶれていくのか。。。

出発前の道真は、京都での生活。仕事での苦労、達成したこと。

あらゆることを思い出しながら、家の庭に立ち、この歌を詠んだことでしょう。

 

本社副社長から西日本支社長にという感じの左遷でしょうか。

上を向き続けて地位をあげてきた人間は、そこから下に降りられないものなのかもしれません。「まあ、その地位なりの楽しみを」なんていうタイプではなかったのだろう。

と想像してしまいます。実績を挙げてきたという自負と、無罪での左遷という憤りが、

道真を苦しめたのでした。 

 

結局、大宰府に着いてから、再度京都に戻ることは叶わず、
不満と苦悩の中、亡くなってしまいます。

 

それから・・・不思議なことが京都に起こるようになりました・・・。

 

まず、道真を貶めた時平が急死しました。

続いて、時の天皇であった醍醐天皇の皇太子が亡くなり、

挙句の果てには宮中に落雷があり、死者やけが人が出たそうです。

「これは無罪の罪で大宰府に左遷させられた道真公の祟りである」

と人々は噂をするようになり、道真を神として祀り鎮めることになりました。

こうして道真は死後、神様となったのでした。

 

 

自然に語りかける

道真はなぜ梅の花に問いかけたのか?

 

忙しくしている時は気が付かない自分の周りの自然。

ふと立ち止まった瞬間に私たちは目の前の自然の存在に気が付きます。 

街路樹の下を歩きながら、ふと見上げた緑色の葉っぱに対し、

「パワーをください」と心でお願いをしたり、

朝のまぶしい太陽にそっと手を合わせたり、

夕焼けに今日の出来事を心の中で伝えたり、

月を眺めながら「自分は人生どうしたいんだろう」と語りかけたり・・・。

 

自然は自分以外のものでありながら、

自分の心とつながった不思議な存在です。

 

同じ時間を生きてきた庭の梅が目に留まった。

それは道真が自分の心を見つめた瞬間だったのかもしれません。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

心に短歌を!

 

 

此の春は 花うぐひすも 捨てにけり わがなす業ぞ 国民のこと

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短歌原文

此の春は 花うぐひすも 捨てにけり わがなす業ぞ 国民のこと

このはるは はなうぐひすも すてにけり わがなすことぞ くにたみのこと

孝明天皇

 

現代語訳

この春は、春もうぐいすも捨てた。私がすることはただ国民の為にすることだけだ。

 

多難な時代の天皇陛下

前回に続き、幕末という激動の時代に重圧を背負われた孝明天皇の短歌(※御製)です。

※御製→天皇や皇族の短歌のこと

 

孝明天皇については下記をご覧ください。 

oidon5.hatenablog.com

 

孝明天皇の時代がどれだけ激動であったか、下記略歴より一目瞭然です。

 

孝明天皇略歴

1846年(弘化三年)16歳でご即位

1853年(嘉永六年)22歳の時にペリーが浦賀に来航

1854年嘉永七年)日米和親条約締結

1858年・59年(安政五・六年)安政の大獄日米修好通商条約締結

1860年文久元年)29歳の時に、妹和宮徳川家茂正室にする ※公武合体の推進

1863年文久三年)下関戦争←長州VS外国 薩英戦争←薩摩VS英

1864年(元治元年)禁門の変 ←御所で薩摩・会津等と長州が戦う

1866年(慶応二年)36歳でお亡くなりになる

公武合体→公(朝廷)と武(江戸幕府)が協力しあう体制         

 

孝明天皇がお亡くなりになられた1866年(慶応二年)は、

徳川第14代将軍 徳川家茂が亡くなり、薩長同盟が密かに結ばれた年です。

そして翌年の1867年(慶応三年)には大政奉還があり、それから戊辰戦争明治新政府誕生と繋がっていきます。国が対立することをよしとしなかった孝明天皇は、公武合体(貴族と武家で協力して政治をすること)を推進しておりました。そのため、倒幕を目論む勢力によって毒殺されたという説もあります。

 

 多難な時代の共有

この御製に目が留まったのは、今のコロナ騒ぎのためです。

テコでも動かないと思われた世の中が一変してしまう。ということは歴史上何度もあります。例えば、戦争もそうです。我々は経験したことがないため、実感として理解できないのですが、戦争前と戦争中で国民の生活に境目があるわけではないのです。

家族でご飯を食べ、学校へ行き、仕事をして、近所の人とおしゃべりをする。

そのような日常を送る中「今日から戦争がはじまった」とニュースで知り、

あれよあれよと生活も変わっていく。そして気が付くと周りから死者も出始め、

戦争の真っただ中に自分たちがいつのまにかいる。というのが、国民から見た戦争のリアルだと思います。

 

同じように、幕末の時代も江戸幕府がなくなるなんて誰もが夢にも思っていませんでした。目の前にある生活が大きく変わるなんて、ペリーが来ようが、長州が幕府と戦争をしようが思っていませんでした。ただ、刻一刻と情勢が変わる中、ただ毎日を一生懸命に生きていただけです。

 

そして、今、当たり前に享受していた経済活動や移動の自由があれよあれよと制限されています。後世から見ると、コロナ前・中・後という時間軸で理解できるのかもしれませんが、今の我々は時代のど真ん中に生きています。発生源は何なのか。今ベストな対策は何か。そして将来はどうなるのか。何もわからないまま「あれよあれよ」とコロナの影響のど真ん中にいるというところが実感ではないでしょうか。そして今の情勢の中、ただ今日を一生懸命生きるしかないのです。

  

「此の春は 花うぐひすも 捨てにけり わがなす業ぞ 国民のこと」

ちょうど今の我々であれば、この御製の思いを少しは共有できると思います。

この春は、お花見も諦め、GWは外に出たい気持ちも抑え。

自分はもし健康であっても、国全体で感染拡大を広げる為、自粛・・・。

 

「わがなす業ぞ 国民のこと」と大それたことは言えませんが、

そうか!孝明天皇も春の楽しみを捨てる覚悟でお臨みになられたのか。

それを知るだけでも、少しは自分の我慢につながるような気がします。

 

心に短歌を!

今を乗り切りましょう!

 

参考文献

『名歌でたどる日本の心』小柳陽太郎 他(編・著) 草思社

 

天がした 人といふ人 こころあはせ よろづのことに おもふどちなれ

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短歌原文

天がした 人といふ人 こころあはせ よろづのことに おもふどちなれ

 

あめがした ひとといふひと こころあはせ よろづのことに おもふどちなれ

                        孝明天皇

短歌の現代語訳

この時代に生きる人々みんな、心を一つに合わせた仲間であってほしい

 

天がした→天下、世の中
よろづのこと→「万」、すべてのこと、たくさんのこと
どち→「同志」、仲間
なれ→断定の助動詞「なり」の已然形

 

孝明天皇の苦悩

日本には国難と呼ばれる時代がいくつかあります。
隋の建国、元寇、黒船、そして先の敗戦。

その時々に強力なリーダーが現れ、国難を乗り越え、日本はここまで続いてきました。

今回の短歌は「黒船」の到来、幕府崩壊、明治維新という国難の時代に、

天皇陛下として日本を導いてこられた孝明天皇です。

 

アメリカが浦賀に現れたことをきっかけに、

日本は「開国」か「攘夷」かで意見が分かれました。

そして、天皇を動かして世の中を変えようとする様々な動きの、

まさに渦の中心に孝明天皇はいらっしゃったのでした。

渦の中心で何を思っていたのか・・・。

孝明天皇は、ただただ日本国全体の幸せを願っていたことが、この歌から分かります。

 

一般的に孝明天皇は、保守的で開国に反対をしていたといわれます。

また、松平容保会津藩藩主で京都所司代を務めた。最後まで新政府と戦った、幕府側の筆頭に挙げられる人物)への信頼が厚く、松平容保孝明天皇からいただいた書簡を終生竹筒に入れて首から下げていたと言われております。

幕府側 VS 天皇側(薩摩や長州などの新政府軍)

というような単純構造ではなく、

幕府側 VS 尊王攘夷

というような構造もこの時代を理解するには全くあてにならない。

尊王や開国・攘夷というものは、幕府側も倒幕側も関係のないものでした。

欧米列強の触手が日本に伸びてきている今、日本をどのような体制で、どういう方向にもっていくか。誰もが国を思い、その手段の違いで争っていたのです。

もちろん孝明天皇も、未曽有の日本の危機に対して、自分なりの意見がありました。

ただ、もう一段高い位置から、国民みんなが力を合わせることを祈っていたのでした。

諸事にあたる政治家と、大きく包み込むような祈りを捧げる天皇陛下

この2つの車輪がうまく回り日本は多くの国難を乗り越えてきました。

 

今、新たなウィルスという脅威が日本を今襲っています。

こういう時だからこそ、他人を批判する前に、

 

天がした 人といふ人 こころあはせ よろづのことに おもふどちなれ

 

でありたいですね。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

心に短歌を!!!

 

 

 

 

 

 

ふるさとに 今夜ばかりの いのちとも 知らでや人の われをまつらむ

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短歌原文

 

ふるさとに 今夜(こよひ)ばかりの いのちとも 知らでや人の われをまつらむ

 

                                菊池武時

現代語訳

ふるさとでは、私の命が今宵までとは知らないで、私の帰りを待っているであろう。

 

短歌を味わう

この短歌は、菊池武時(きくちたけとき)という肥後(今の熊本県)の豪族が詠んだものです。時は鎌倉時代。幕府と対立していた後醍醐天皇が日本全体に「自分の為に蜂起せよ!」と宣言を出しました(元弘の乱)。その際、九州で呼応したのが菊池武時でした。菊池は九州探題(九州にあった鎌倉幕府出先機関)を攻めるがうまくいかず、自分の子供をふるさとに帰し(袖ヶ浦の別れ)、単身九州探題に斬りこみ命を落としました。享年42歳。この短歌はその時に、武時が残した辞世の句となります。

 

この短歌を受け取ったふるさとの妻は

 

ふるさとも こよひばかりのいのちぞと 知りてや人の われをまつらむ

「ふるさとでも、あなたの命が今宵までと知りました。あなたも私を待っているでしょう」

と詠み自刃したと伝えられております。

 「辞世の句」という文化

 私達は当たり前のように「辞世の句」というものを知っていますが、よく考えるとすごい文化ではないでしょうか。(「文化」と呼ぶべきものか分からないですが・・・)多くのご先祖様たちが、自らの死が目前に迫る際に一つの歌を遺しているんです。それも五七五七七という定型に託して。これが、長文だったり、一言だったり、詩だったりとマチマチだったらまださもありなんですが、古代~現代まで、ずーーーーっと同じ定型で遺しているということが・・・すごくないですか?人生で死ぬのは一回限り。その瞬間、人は何を考えるのであろうか。自分でいくら想像しても、分かるはずがないことであります。それでも、この遺してもらっている辞世の句をいくつか詠んでいくと、人生が透けてみえてくるような気がします。

 今回の歌も辞世の句であります。死の間際、彼の目に浮かんだ情景。それは「ふるさと」とそこで待つ人々の姿でありました。戦をしていたのですから、殺し殺される情景がずっと続いていたことでしょう。いよいよ自分の人生が終わると決心し、心を整え、筆を持ち、目を閉じて、渾身の一文に思いを巡らすと、目の前に浮かんできたのは、この戦に行く前のあのふるさとの日常。そう、よく言い古された言葉かもしれませんが、私達の幸せは気づいていないだけで目の前にあるものだと思います。そして、彼が考えたのは自分のことではなく、自分を待つ家族のこと。目の前に死が迫る中、他人のことを考える。これが人間を覆っているたくさんの殻をめくっていった時に顕れてくる、素の人間なのではないだろうかと思います。

 また、彼の妻もすごい。夫の死を知り、自らも命を絶った。これは純愛と呼ぶべきなのか何か、私にはわかりません。死後の世界までお供します。なのか、将来を悲観してなのか。夫が華々しく散ったのであれば、私も潔くこの世を去ろうという男気みたいなものなのか・・・。

 

夫婦とは他人であるけれども、一つの道を手を取り一緒に歩む人生のパートナーであり、二人にしか分からない道の見通しがあるのかもしれません。

 

時世の句は「死」や「人生」を我々に考えさせてくれる、とても大切な言葉ですね。
先人の人生を想像することが、きっと我々の人生を豊かにしてくれます。

 

心に短歌を!

最後までよんでいただき、ありがとうございます!

ときはいま あめがしたしる さつきかな

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連歌原文

 

ときはいま あめがしたしる さつきかな

 

               明智光秀 愛宕百韻(愛宕山連歌会)にて

 

現代語訳

 

今は雨がずっと降っている五月だなあ。

 

 

本能寺の変」の決意を詠った歌!?

 

NHK大河ドラマ麒麟がくる』で今話題の明智光秀
といえば、本能寺の変は切っても切れないですね。この歌はその
本能寺の変の決意を事前に歌にしていた!?と言われる有名なものです。

この歌が詠まれたのは本能寺の変天正10年6月2日)の前に、京都の愛宕山で行われた連歌天正10年5月24 ※28日という説もあり))でした。どこが決意なのかみてみましょう!

 

【通常の意味で漢字をあててみる】

は今 が下領る(治る) 五月かな

 

【裏の意図で漢字をあててみる】

土岐は今 が下領る(治る) 五月かな

土岐は今 下知る 五月かな ともよめます)

 

 

※土岐・・・明智光秀の一族

※天が下・・・天下、この世界のこと

※領る・治る・・・領有する。治める。

※下知・・・世の中に号令をかける。命令する。

 

裏の意図の漢字で見ると・・・

 

土岐氏が天下をおさめる五月だ!

 

とも読み取れるのです。その為、この歌は「本能寺の変の決意を事前に歌にしていた!?」と言われるのです。

 

そもそも「連歌」って?「愛宕百韻」って?「旧暦五月」っていつ?

連歌」とは複数人が上の句、下の句をそれぞれ詠んでいき一つの作品にしたものです。そして「百韻」とは百句の歌を一つの作品としたものです。「愛宕」は、京都嵐山より北に上がったところにある山です。標高924m。山頂には愛宕神社があり、全国の愛宕神社の総本山です。愛宕百韻」はその愛宕山で光秀がひらいた連歌会です。メンバーは連歌師や僧侶達でした。そしてこの愛宕百韻が行われたのが、天正10年(1582年)5月24日(28日)。「旧暦五月」今の新暦ですと6月下旬です。まさに梅雨ですね。

今回の光秀の歌は連歌の発句(スタートとなる句)でした。山中に集まったメンバーが、雨の音を聴きながら連歌会をしている姿が目に浮かぶようです。
※当日雨だったかは不明ですが・・・。

 

本当に「本能寺の変の決意を示したものか!?」

「土岐は今 天が下領る(治る) 五月かな」と読み取れば、信長への謀反を胸に詠んでいるように受け取れるのですが、いくつかそうではなかったという説もあります。

 

  • 「しる」→「なる」 だった説  

「しる」は「領る・治る」と考えると、謀反の気持ちが読み取れる重要な単語です。しかし、実は光秀が詠んだのは「なる」だったという説もあります。「なる」ですと治める!という意図がなくなるため、謀反の決意を示した歌とは呼べなくなります。

ちなみに、豊臣秀吉明智光秀を滅ぼした後、この連歌会の参加者に対して厳しい追及があったと言われております。役人がこの歌の書かれた紙を見せて追及したところ、連歌師の里村紹巴は「誰かが改竄している!歌会では“なる”と光秀さんは詠んでましたよ!」と主張し、難を逃れたと言われております。この改竄説は未だ解決しておりません。「し」か?「な」か? この2つの言葉がこの歌の意味の重要な鍵を握っています。

 

この歌を謀反の決意と考えると「五月かな」と言っているが、本能寺の変は実際六月におこっています。なので違うだろ。という説。

「五月」を「五月雨」(旧暦五月頃の梅雨)と考えれば、6月2日におこった本能寺の変も十分範疇に入るのでは?最初は5月!と思っていたが、いいタイミングが6月になっただけ。など、こちらも色々考え方次第ですね。

 

連歌ってことは、それ以外の歌は?

光秀の後に続いた歌の中にも光秀の意図を汲んでいるのではないかと疑われる歌がいくつかあるといわれております。いくつか有名な歌をピックアップします。

連歌のルールもついでに)

 

1   ときは今あめが下しる五月かな 光秀

2   水上まさる庭の夏(松)山      行祐

3   花落つる池の流れ(流れの末)をせきとめて 紹巴

100 国々は猶のどかなるころ    光慶

 

※( )という説もあり。

 

1→「発句」あいさつの句。皆に向かってあいさつするようなイメージ。季語を入れる。お客さんが詠む。

2→「脇句」あいさつを受けて、応えるイメージ。同じ季節を入れる。体言止めにする。招待者が詠む。

3→「第三」発句から脇句の流れを一転させて連歌の流れをつくる。「て」で終える。

100→「挙句」 最後の句。「挙句の果て」の語源。

 

三句より

「花落つる」は、信長の首!?天下!?

「せきとめる」は、信長の政治を止める!?

100句より

信長の天下が終わることで国々がのどかになる!?

 

色々読み取れますね。ただ真相は誰にもわかりません。

 

まとめ

以上、この歌にまつわる説を色々と見てきました。「光秀の謀反の決意」の意図があったかもしれないし、そんなものはなかったところに秀吉が無理矢理こじつけて改竄し、宣伝に使われたのかもしれない。未だ真相は分かっていないですが、NHK大河ドラマはどのように描くのでしょうか?この歌の場面の放映はまだ先なので楽しみです!

日本語は音に漢字が紐づくからこのような説がでてくるんですね。例えば「アメ」は天か雨か。で意味は違う。英語なら「Heaven」か「Rain」。音から全くの別物です。なので歌にも1つの音に2つの意味を持たせたり、隠語や比喩など深い表現ができるんですね~。

 

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございます!

心に短歌を!

父ならぬ父を父とも頼みつつありけるものをあはれ吾が子や

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短歌原文

父ならむ 父を父とも 頼みつつ ありけるものを あはれ吾が子や

 

                     伴林光平(ともばやし みつひら)

現代語訳

父らしいことを何もしてやれなかったこの私を、父と頼んでいた我が子の

なんてあわれなことよ。

 

伴林光平とはどんな人? ①「天誅組の変(大和義挙)」

今回の短歌を詠んだ伴林光平(ともばやし みつひら)は幕末の志士でした。
があまり知られていない人物かと思います。そこで、まずはこの人物が登場する天誅組の変(大和義挙)」について説明したいと思います。

そもそも「天誅」は聞いたことがありますよね。天が悪いやつらを誅する(罰する)。という意味ですが、幕末の京都で「てんちゅー!」って志士達が幕府側の人や開国を論じる人達を襲う時に使った言葉です。「日本を悪くする奴等は天にかわってお仕置きしちゃうぞ」ってセーラームーンみたいな言葉です。ということは天誅組の変(大和義挙)」と名前から分かるように勤王攘夷の志士達が起こしたことです。ちなみに「大和義挙」とも呼ばれるように大和の国(今の奈良県)が舞台となります。

時は文久三年(1863年)。日本は尊王攘夷熱まっただ中でした。(朝廷にもっと政治の実権を!外国を追い払え!)朝廷が幕府に攘夷を迫り、長州が「攘夷を決行するぞ!」と下関で外国船を砲撃したり。そのような中、孝明天皇が現在の奈良県橿原市にある神武天皇陵に参拝することになりました(大和御幸)。とはいってもただの参拝ではなく「親征」つまり天皇自らが軍を率いて攘夷を決行するという意味を持たせ、攘夷を渋る幕府を追い詰めようという大きな意味がありました。この意図を汲んだ天誅組という吉村寅太郎(土佐の勤王志士)らを中心としたグループは「これは我らが先に大和(奈良県)に入り、露払いをしよう!」と同じく勤王の思いの強い公卿である中山忠光を誘い、大和に入りました。彼らはここは天皇の土地だと幕府の出先機関である代官を襲い、そこの長官を血祭に挙げます。

ところがここで大事件が起きます。京都で八月十八日の政変」といわれるクーデターが起こったのでした。勤皇系の公卿に取り入って政治を動かしていた長州を、会津と薩摩が組んで締め出しました。つまり過激な勤王攘夷派(朝廷中心の政治をしよう。そして外国を追い払おう派)から公武合体派(朝廷と幕府で協力していこう派)に実権が移ったのです。これにより大和御幸は中止になります。そうなると、先に大和に入り気勢をあげていた天誅組は「暴徒」ということになり、討伐される側となりました。天誅組は各地で敗戦し、しまいには朝廷から逆賊とされ、多くの犠牲を出しながら瓦解してしまいました。

天誅組の変(大和義挙)」自体は失敗に終わりましたが、以降の歴史を知っている後世の我々から見れば、江戸時代から明治時代に移り変わる日本のうねりの一番先を駆け抜けたような動きでした。「あれっ、そういえば幕府ありきで考えていたけど、倒して変えちゃうっていうのもありかも。」そう人々が思うきっかけとなったのでした。だって、1867年つまり4年後には「大政奉還」なんです。こういう衝突があちこちでたくさん起こりながら、少しずつ時代は変化していくのですね。それぞれが次の動きに結びついているので、無駄なものは1つもないのです。

 

伴林光平とはどんな人? ②ところで伴林光平は?

さて、伴林光平の説明にやっと入ります。この人物は大阪生まれで国学(日本についてのこと)を学び、大阪の八尾市にあるお寺の住職をしていました。しかし、ある日お寺を突然飛び出し、勤王志士として活動するようになります。そして「天誅組の変」のことをきき、大和に向かい参加することになりました。しかし、天誅組は敗走、瓦解。伴林は捕らえられ、斬首されました。享年52歳。住職を辞め、家族を捨てて、国のことを思い行動する程、国のことを思う気持ちが厚く、国学についての教養深い人物でした。有名な歴史上の人物だけでなく、こういう人物がたくさんいたから明治維新は成ったということを忘れてはいけないですね。

 

 

今回の短歌が詠まれたいきさつ

伴林は先妻に先立たれてから、後妻の間に二人の子供がいたと言われています。しかし、この後妻、天誅組の変の際に子供を置いて家を出てしまったのでした。この家に伴林は敗走中に立ち寄ります。しかしそこには誰もいない。子供もどこにいってしまったのか。もぬけの殻の家で、伴林は今回の短歌を詠んだのでした。

自分は「国のため」子供を置いて天誅組の変に参加した。ああ、子供たちよ。こんな父で本当にすまない。君たちには何も父らしいことをしてやれなかった。伴林の気持ちがあふれ出ている短歌です。

今の時代「国のため」家庭を捨てる。なんて理解されないかもしれません。しかし、自分の周りの幸せをあえてかなぐり捨てて、更に大きな大義の為に身を投じてきた人たちの上に、今の我々がいることも忘れてはいけないと思います。もちろん妻も子もたまったもんじゃなかったでしょう。結果は失敗だった天誅組の変に参加したことは、無駄なことだったと言えるかもしれません。しかし私はいつも思うことがあります。普段自分の子供に当たり前のように会えること。明日も来週も会えること。これほど幸せで贅沢なことはないと。歴史を見れば、防人だったり、先の戦争で戦地に赴いた人たち。大災害の時に救助や人々の避難に向かった人たち。そして今回の伴林もそうです。みな「お父さん」という一面ももっていて、明日も来週も我が子と食卓を囲みたいのに、もっと大きなものを守るために、その日常に背を向けて家を出なければいけなかった。そういう小さな多くの犠牲の上に地域や国というものは支えられてきた。ということです。そうして誰かが村や国を守ってきたことで、当たり前のように平和に食卓を囲める今の自分達があると思います。

男はいざという時に自分の家の玄関に背を向けなければならない時がある。

その「いざという時」に自分がそうできるか正直今はイメージできないですが、過去の人たちから紡がれてきたDNAがその時に自分に働きかけるのかもしれません。

 

今回の短歌はそういうことを考えさせてくれる短歌です。

 

 

心に短歌を!最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

 

参考文献『短歌のすすめ』 夜久正雄・山田輝彦 著

 

 

 

 

 

 

 

 

ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聞きにゆく

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短歌原文

ふるさとの訛(なまり)なつかし

停車場の人ごみの中に

そを聞きにゆく

 

石川啄木

 

現代語訳

ふるさとの訛りがなつかしいなあ。
電車の停車場の人ごみの中に、そのなつかしい訛りを聞きに行く。

 

啄木さんインタビュー

明治43年(1910年)石川啄木 24歳。

前回は啄木さんからインタビューを打ち切られ、気まずい空気にならないことを意識して、第2回インタビューにのぞみました。

 

↓第1回インタビューはこちら

oidon5.hatenablog.com

 

 

こんばんは

こんばんは

先日はお時間を頂き、ありがとうございました。啄木さんのインタビューはとても好評でした!!!

ありがとうございます。今日はなにについてのインタビューですか?

(アイスブレイク失敗・・・)そうですね。今日は、啄木さんの故郷についてお聞きしたいなと思いまして。私も東京に出てきてあくせく働いていると、ふと故郷を思い出すことがあるんですよね。だから、啄木さんのこの歌はとても好きなんです。

ありがとうございます。「停車場」は東京と故郷を繋いでいる玄関のような存在ですよね。私の東京での挑戦はここから始まりました。東京に着いた時の緊張と高揚感は今でも忘れられません。

知らない土地。それも東京となると身が引き締まりますよね。

そうです。ただ人は新しい土地にも徐々に順応していきます。私もすっかりここでの生活に慣れました。ただ、たまに故郷を思い出す時があります。その時に「停車場」が僕と故郷を繋いでくれる。もっと言うと、停車場に行けば、あの懐かしい訛りがあちらこちらから聞こえてくる。それを聞くと、故郷に触れている実感が湧くのです。

ああ、分かる気がします。私はたまに自分の故郷のバスを見かけたら、故郷を思い出します!修学旅行か観光旅行かで来ているバスなんでしょうね。あっ、このバス懐かしい!故郷は今どうかなあって

バスですか。それはおもしろいですね。

(あっ、ちょっと空気が柔らかくなった)啄木さんにとって故郷はどういう場所ですか?

山があり、川があり・・・。いい思い出ばかりです。あなたは?

(はっ、初めて質問をしてもらえた!)はい!私の故郷は、桜島が見えて、わっぜよかところじゃ。あっ・・・。

(笑)つい、方言が出てしまいましたね。故郷の言葉を大切に、東京で頑張りましょう。

そうですね。頑張りましょう!

・・・

・・・

(締めろってことだな)では、今日は貴重なお話ありがとうございました。

ありがとうございました

 

前回のブログでも紹介したように、この2年後、明治45年(1912年)啄木は26歳の若さで結核にてこの世を去ります。死ぬ間際の啄木の脳裏には故郷が浮かんでいたのだろうか。

 

自分が大人になり思うことは
「人間は大人になっても大きく変わらない」ということである。
小さな時の自分と今の自分はあまり変わっていない。
昔は大人になれば大きく自分は変わっているのだろうと考えていたが、どうもそういうものではないようだ。これが私の実感である。
このように皆さんも自分の歴史をたまに振り返り、今の自分と比較してみることはないでしょうか。
そして、自分の歴史を振り返ると、浮かんでくるものは「故郷の風景」である。春夏秋冬。登下校。夕焼け。両親との日々。友達と駆けた日々。これらの風景が目を閉じれば
たくさんの風景が広がるはずである。

啄木も目を閉じると故郷の渋民村、盛岡、岩手が浮かんできたのでしょう。
それも極貧の東京生活と対極にあるような自然豊かな故郷が。
帰れない故郷。でも故郷に触れたい。その思いが啄木を停車場に立ち寄らせ、そして故郷の訛りを聞いた時に啄木は故郷に触れた感動があったのだと思う。

 

さて、この歌の構成にも最後に触れてみたい。
以前「短歌をつくろう」ブログで伝えたように、短歌は一首一文がよいとされる。
今回の短歌は二文構成である。
①「ふるさとの訛なつかし」
②「停車場の人ごみの中にそを聞きにゆく」
つまり「ふるさとの訛なつかし」ここで切れている。そのため二句切れである。
また「人ごみのなかに」は8文字なので字余り
そして、なんといっても短歌は改行せず一行ですっと最後まで詠めることがよいとされる中、この歌は三行で表現している
望郷の思いと過去に縛られずアップデートしようとする思いが交差する歌である。

 

この歌を詠みながら、目に浮かぶ自分の故郷の風景を味わいましょう!

 

心に短歌を!最後まで読んでで頂き、ありがとうございます!

 

 

↓「短歌をつくろう」ブログはこちら

 

oidon5.hatenablog.com

 

 

oidon5.hatenablog.com

 

 

 

 

 

 

 

はたらけど はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし) 楽にならざりぢっと手を見る

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短歌原文

はたらけど

はたらけどなほ わがくらし

らくにならざり ぢつとてをみる

 

はたらけど

はたらけど猶 我が生活

楽にならざりぢつと手を見る

 

石川啄木  『一握の砂』

 

現代語訳

働いても働いても私の暮らしは一向にに楽にならない。じっと手を見る。。。

 

啄木さんインタビュー

石川啄木 略歴】

明治19年1886年岩手県盛岡にうまれる。父はお寺の住職。

16歳 盛岡中学退学、東京で編集者の職を得ようとするも失敗→翌年帰郷。

(同じ学校の先輩には生涯支援をしてくれた親友 金田一京助がいた)

18歳 父が住職を懲戒される。

19歳 節子と結婚。

20歳 故郷渋谷村の代用教員となる。

21歳 教員を辞め、北海道函館の代用教員→新聞社の校正係→小樽日報社に入社するが辞める、単身釧路に行く。

22歳 釧路新聞の編集長格として働くが、小説家を目指し上京。

23歳 朝日新聞社 校正係となる。家族が上京。

24歳 『一握の砂』刊行

26歳 死去

 

 

明治43年(1910年)石川啄木 24歳。

今回の短歌を詠んだ啄木さんに都内の自宅にてインタビュー。

 

こんにちは。本日は宜しくお願いします。

宜しくお願いします。

啄木さんにお会いできて幸栄です!

そうですか。ありがとうございます。

さっそくですが、今回の短歌は生活感が出ているというか。 すごい私も共感できます。 働けど働けど私もお金がないんですよ。

お金を稼ぐということは難しいことですね。

啄木さんは今、何の仕事をされているんですか?

今は『東京朝日新聞』の校正係(文章の誤字や表現の間違いを見つける仕事)や、 新聞歌壇の選者、最近では「二葉亭四迷全集」の校正をしたりしております。 あと歌集の準備もしています。

『一握の砂』ですね!今回の短歌が収録されてますね! 教科書にも出てくるすごい有名な歌集ですよ!

そうですか。。。

(なんかうれしそうじゃない・・・) ところで、お若いのに、一家の大黒柱と伺ってます。 自分なんか同じ年の時には家族を養うなんて全くできませんでしたよ!

(啄木 当時24歳)

妻や娘。そして父母を養わなくてはいけないのです。私もできていません。 でも本当は・・・

本当は?

やはり一人がいいですね。一人で集中し・・・

集中し・・・?

生活の為に働くのではなく、小説を書いていたいんです。 私は小説で有名になりたいのです。

なるほど・・・

小説で有名にならなければ・・・ 私にとって歌は悲しい玩具なんです。

悲しい玩具・・・『悲しき玩具』ですね!

(無視)歌は私の心情をぶつけるもの。

それが後世の人々の心を打つのですよ! 想いが伝わるんです。

そうですか。人生分からないものですね。 今日はもう終わりにしましょう。

あっ、はい。ありがとうございました。

ありがとうございました。

 

文章にて生計を立てることを夢見て生きた啄木さん。
しかし、父の住職懲戒や自身の放蕩、仕事が定まらないことにより、常にお金に困る人生でありました。文章への自信とそれが思うように世に認められない挫折。そこに迫る生活の困窮は、啄木さんを苦悩させ、社会主義への傾倒や放蕩生活につながったと思われます。

また、自分の苦悩を吐き出す場として短歌がありました。
啄木さんは「玩具」や「小生の遊戯」と短歌を位置づけていたが、ありのままの想いをぶつけた短歌が後世に評価されるに至ることは本人にとっては皮肉なことなのかもしれません。

文章を書いても書いても生活が楽にならない。自分の手を見つめる啄木さん。
そこには理想と現実の中で苦しむ姿があります。
後世の私達からみると自業自得だと思う部分もありますが、
少なからず誰しもが啄木さんに共感できる部分があるのではないでしょうか。


自分の理想の人生と現実。そのギャップに真正面から向き合うほど、気持ちが重くなるものですよね。しかし、それでも毎日目の前のことを少しでも改善していきながら生きていくしかないです。その一日一日の積み重ねがいつか現実が理想を越えている場所に自分を立たせてくれるはずである。そう信じて、今日も一日を過ごしいていきましょう!

啄木さんの短歌は、自分の胸の奥にあるものを引き出してくれるようです。

インタビュアー おいどん

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

心に短歌を!

後れても後れてもまた君たちに誓ひしことを我忘れめや

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短歌原文

後れても後れてもまた君たちに誓ひしことを我忘れめや

おくれてもおくれてもまたきみたちにちかひしことをわれわすれめや

 

高杉晋作  桜山招魂場での招魂祭にて

現代語訳

死におくれても。死におくれても。死んでいったみんなに誓ったことを私は忘れることはない

文法

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短歌を味わおう

高杉晋作という人物

この短歌は高杉晋作が詠んだものです。
高杉晋作と言えば、明治維新の立役者。
長州藩士であり、松下村塾門下生です。
武士以外で組織された奇兵隊の創設者として有名ですね。
一つ晋作らしい功山寺決起」のエピソードを紹介します。

時は元治元年(1865年)明治維新の2年前のことでした。
幕府は言うことを聞かない長州藩に対して兵を送りました。その数35藩から約15万人!第一次長州征伐と呼ばれるものです。
幕府に恭順しようという空気が長州藩内に蔓延する中、
「俺は幕府と戦う!ついてくる奴は今晩功山寺に来い!」
と晋作はたった一人立ち上がりました。
雪の降り積もる功山寺・・・
集結した人数はわずか84名(その中には伊藤博文もいました)。
晋作はこの仲間と共に、長州内に匿われていた公卿のもとにいきます。
そこで残した言葉が「これよりは、長州男児の腕前 お目にかけ申すべく!」
晋作は言葉通り、長州藩内の幕府恭順派と戦い、ついに藩内を幕府と戦う意思で統一させました。

これにより長州藩と幕府は戦うことになります(第二次長州征伐)。
この戦いで長州藩は次々と勝利をおさめ、
幕府の権威は大きく失墜することとなり、
明治維新が大きく近づいたと言われております。

 

しかし、この頃、晋作の体は既に病におかされていました。

 

功山寺決起から2年後の慶応3年(1867年)4月。27歳の若さで晋作はこの世を去ります。

大政奉還の半年前のことでした。

 

後に伊藤博文高杉晋作の顕彰碑に下記の文章をきごうしました。
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し 。衆目駭然として敢えて正視するものなし、これ我が東行高杉君に非ずや。」  

(動けば雷のようで。声を発すれば風雨のようだ。周囲はぼうぜんとして正視できる者はない。これぞ我らが高杉晋作である!)

酒と三味線を愛し、やる時はやる高杉晋作
男なら憧れる人物です。

 

こんなイケイケの晋作も、
実は、人生で何をすればよいか探し求め、落ち込んだ時期もあったのです。
故郷に帰り、お役所仕事に励んだり。
剣で生きる!と武者修行に出たが、あまり強くない自分に気付いたり。
これからは船の時代だと船に乗り込むがすぐに船酔いし「向いていない」と早々に下船したり。
江戸留学時は自分の命の使い方に迷い、酒浸りになり、「高杉に近付かない方がよい」と言われた時期もありました。
そのような中で志が固まっていき、皆が知る偉人になったのです!

死んでいった者達を想ふ

今回の短歌は桜山招魂場での招魂祭にて、高杉が詠ったものです。
この桜山招魂場とは攘夷戦争で命を落とした者を祀るため、晋作の発議により1865年、下関にて落成した神社です。
後に長州藩士も祀られるのですが、実は日本最初の招魂社なのです。
有名な招魂社と言えば「東京招魂社」後の「靖国神社」です!

 

今の我々では実感をもって理解できないのが、
志士達の死生観です。 
一緒に語り合った仲間達が次々と死んでいく時代。
自分の命の使い方。死への考え方は我々とは雲泥の差があったと思います。

 

今回の歌も晋作の人生観が詰まっています。
20代で既に死に遅れていると言う晋作の頭には、たくさんの仲間の姿が思い浮かんでいたことでしょう。
同窓として松下村塾で学んだ仲間も。
奇兵隊として一緒に戦った仲間も。
「国のため」と誓いあったその想いを全て背負って、晋作は生きていたのです。
それは自分の命を削るほどのものだったからこそ、晋作は若くして病に侵されたのではと思います。

 

想いのバトンを生きている者が繋いでいくことで今の日本がある。
そういうことを感じる今回の短歌でした。

 

心に短歌を!

最後まで読んで頂き、ありがとうございます!!!

 

参考文献『名歌でたどる日本の心』小柳陽太郎 他 編・著 草思社

田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 不盡(ふじ)の高嶺に 雪はふりける

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和歌原文

田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 不盡の高嶺に 雪はふりける

たごのうらゆ うちいでてみれば ましろにぞ ふじのたかねに ゆきはふりける

 

万葉集』 巻三 三一八  山部赤人

現代語訳

田子の浦静岡県の海岸)を通って、広々としたところから見ると、
真っ白!富士山の高嶺に雪が降り積もっているなあ。

 

文法

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鑑賞しよう!

田子の浦から見る富士はどんな富士山?

富士山に雪が積もる姿は誰もが感動するもの。その圧倒的存在感は、昔も今も変わりません。今回紹介した短歌は『万葉集』に掲載されている富士山の短歌です。約1300年前から富士山は人々を魅了していたのですね!

となると、この短歌はどこから見た富士山なんだろうと日本人なら知りたくなります。
ヒントは「田子の浦」!

 

地図で見るとここになります↓

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ではGoogleEarthでバーチャルに田子の浦に行ってみましょう!↓

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                                                                             GoogleMap streetviewより

もうちょっと天気がよかったら・・・

山部赤人万葉歌碑というものが「ふじのくに田子の浦みなと公園内」にあるようです。↓

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                        富士市HPより

田子の浦辺りから見る富士山はとてもきれいに見えますね。
山部赤人が見た富士山を同じ場所から見てから、短歌を味わうと、時空を超えた交流をしているようです。

※ちなみに当時の田子の浦と今の場所は違うという説もあります。

 

百人一首に選ばれた歌

この短歌はみなさん聞いたことのある短歌ではないでしょうか。
それはこの歌が百人一首に選ばれているからです。
百人一首の歌はこちらです↓

田子の浦にうち出でてみれば白妙(しろたへ)の富士の高嶺に雪はふりつつ

万葉集の歌と微妙に違いますね。
その理由は「ゆ」(~を通りすぎ)などの言葉が
百人一首の成立した鎌倉時代初期には使われなくなり、改変されたからなんです。
歌意は同じですが、万葉集バージョンをさらっと口ずさめば、あなたへの見る目も変わるかもしれませんよ!?

さてこの短歌は万葉集では別の歌とセットになっており、
反歌」と呼ばれるものです。

反歌・・・長歌の後に添えられている短歌

つまりこの短歌の前には長歌があります。
次にこの長歌を紹介します。

 

セットとなる長歌

山部宿禰(すくね)赤人、不盡山(ふじさん)を望める歌一首幷(ならび)に短歌

天地(あめつち)の 分れし時ゆ 神(かむ)さびて 高く貴き 駿河なる
布士(ふじ)の高嶺を 天の原 ふり放(さ)け見れば 渡る日の 影も隠れひ
照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける
語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 不盡(ふじ)の高嶺は

反歌

田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 不盡の高嶺に 雪はふりける 

 

富士山を色々な言葉で称賛してから、今回の短歌なんですね。
これを口ずさめば、更に更に!あなたへの見る目が変わる!?
というか、皆の口は開いたままになるでしょう!

 

山部赤人(やまべのあかひと)という人物

奈良時代の下級役人で、経歴が全く分からない人物です。
ただ万葉集には多くの歌が掲載されており、
1つ前のブログで紹介した柿本人麻呂と並び「歌聖」と呼ばれております。
同時代にはこのブログに登場した山上憶良大伴旅人などがおります。

 

最後に・・・
上り新幹線A席(三人掛けの窓側)に座り外を眺めていると、「田子の浦」という看板が現れます。この看板を見る度に今回の短歌を思い出すので、一度まとめよう!と思い立ったのが今回のブログの発端です。
今度あの看板を見る時は、より具体的に色々と想いを馳せられそうです。

 

心に短歌を!

最後まで読んで頂き、ありがとうございます!

雷神(なるかみ)の 少し響(とよ)みて さし曇り 雨もふらぬか 君を留めむ / 雷神(なるかみ)の 少し響(とよ)みて ふらずとも 吾は留らむ 妹し留めば 

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言の葉の庭」公式HPより

和歌原文

雷神の 少し響みて さし曇り 雨もふらぬか 君を留めむ

雷神の 少し響みて ふらずとも 吾は留らむ 妹し留めば

 

なるかみの すこしとよみて さしくもり あめもふらぬか きみをとどめむ

なるかみの すこしとよみて ふらずとも われはとまらむ いもしとどめば 

 

万葉集』 巻十一 柿本人麻呂

 

現代語訳

雷が少し響いて、空が曇り、雨も降らないだろうか。あなたをここに留めたいから。

 

雷が少し響いて、雨が降らなくても、私は留まろう。あなたが望むのであれば。

 

文法

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短歌 × 映像

新海誠監督「言の葉の庭」で詠まれる短歌

君の名は。」「天気の子」で有名な新海誠監督の作品の中に、言の葉の庭という作品があります。おもしろいのは、その中でなんと短歌が詠まれるのです。だからタイトルが「言の葉の庭」なんです。

 

ここで簡単にあらすじを(さわりだけ)

男子高校生のタカオは雨が降ると学校をさぼり、ある公園に行くことを習慣としていた。梅雨入りしたある雨の日、タカオがいつものようにその公園に行くと、缶ビールを飲む、若いスーツ姿のOL風の女性が一人座っていた。
彼女の名前はユキノ。
この日初めて会う二人。少し会話を交わした後、ユキノはタカオに一首の短歌を残してその場を立ち去る。

雷神の 少し響みて さし曇り 雨もふらぬか 君を留めむ

 

それから雨が降る日は、必ず公園で出会うようになったタカオとユキノ。
タカオは黙々ノートに絵を描き、
ユキノはいつも平日の朝からビールを飲んでいた・・・。
そんな二人は徐々に言葉を交わすようになる。
打ち解けていく中、タカオは自分の夢を打ち明ける。
一方ユキノは自分のことを打ち明けられぬまま梅雨があけ、
二人が会う機会はなくなってしまう・・・。


夏休み明けのある日、タカオはユキノを偶然見かけることとなる・・・。
そして短歌を残したユキノの意図とは一体・・・。

さあ、是非映像を見てください! 

 

↓予告映像はこちら 

https://www.kotonohanoniwa.jp/

本当に映像がきれいで、雨や緑にみとれてしまいました。
そう、短歌と映像がよくマッチする!
「短歌」を今の映像技術や音楽などと重ねると、
違う世界観ができあがるんだなあと一人感動して鑑賞しました。

あっ、音楽もこれまたいいんです!

自然に託す「恋」の気持ち

さて、ここでは気になる短歌の内容を説明します!
この短歌は、現代でも十分に伝わる男女の恋の歌
最初の短歌が女性。後の短歌が男性(柿本人麻呂)が詠んだものとなります。

 

まず女性から。

「雷神(なるかみ)の 少し響みて さし曇り 雨もふらぬか」
とたくさんの言葉を使って、畳みかけるように自然にお願いをしています。
「雷が少し鳴って、曇って、そして雨なんか降ってくれないかなあ・・・」と。
なぜ、そんなに雨をお願いするのか・・・それは・・・
「君を留めむ」
そう「今日はここにいて」と愛する男性ともっと一緒にいたいからなのです。
「今日はここにいて」と直接的に伝えるのではなく、「雷なったり、曇ったり、雨なんて降らないか」って遠回しに天気にお願いする、女性のいじらしさが伝わりますね。

では男性側はどう答えたか。
「雷神の 少し響みて ふらずとも」
と同じ描写を繰り返していますけども、末尾が少し違います。
「雷が少し鳴って、雨が降らなくても・・・
降らなくても・・・ということは・・・
「吾は留らむ」
そう「俺はここにいるよ」って。
更に畳みかけるように・・・
「妹し留めば」と更にあなたをきりっと見つめる(見つめたはず)
「君がここにいてくれと思ってくれるのであれば」と。

つまり 「天気なんか関係ない。君の為なら俺はここにいる」
柿本人麻呂は応えたのです。とても素敵な恋の歌のやりとりですね。
こんなやりとりしたことありますか!?
恋人がいる方は雨が降った日の帰り際に、是非この短歌を使ってみてください!

 

言の葉の庭」とこの短歌の意味を合わせてみると、
ユキノさん。よく男子高校生にこの短歌をぶつけたな。と思います。

 

自然に自分の気持ちを託す表現は、短歌によく出てきますが、
今の私達には難しいですよね。
自然に自分の気持ちを託す。ということは、
自然を感じられる感性+自分の気持ちを言葉にする感性
があってはじめてできることです。
両方を磨いて、このような短歌を詠める大人になりたいですね。


心に短歌を!

 

最後までお読み頂き、ありがとうございます。

 

 

 

露と落ち露と消えにしわが身かななにはのことも夢のまた夢

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和歌原文

 露と落ち 露と消えにし わが身かな なには(浪速)のことも 夢のまた夢

 

つゆとおち つゆときえにし わがみかな なにはのことも ゆめのまたゆめ

 

豊臣 秀吉

現代語訳

露のように生まれ、露のように死んでいく、私の人生であったなあ。色々なこと(大阪で過ごしたこと)もまるで夢の中のことのようだ

文法

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鑑賞のポイント

太閤さん

日本の偉人で「さん」を付けて呼ばれる人物を挙げるとしたら、
みなさんは誰を思い浮かべるでしょうか?
「西郷さん」「太閤さん」
私はこれくらいしか思い浮かばなかった。
〇〇さんは尊敬されながらも愛嬌ある人物にしかつかない呼称なのである。
尊敬と愛嬌を持ち合わせることは難しいのだろう。

 

今回の短歌は「太閤さん」つまり豊臣秀吉の辞世の句と呼ばれる短歌である。
低い身分から織田信長に仕え、その中で出世を重ね、
信長亡き後は天下を握ることとなった。
日本の歴史上類を見ない成り上がりの人物である。
一方「サルと呼ばれていた」「人たらしで天下をとった」
とどこか愛嬌を感じさせる人物評が現代まで伝わっている。
多くの苦難を愛嬌を振りまきながら乗り越えていく秀吉には、
スマートさはないかもしれないが、それが人間らしく、
我々一般人にも受け入れやすいのかもしれない。

さて、その秀吉が、誰もが避けられない死を前に何を思ったのであろうか。
その心をのぞくことができるという意味でも、
この短歌は非常に興味深いものである。

 

今に生きる

「露のように生を受け、露のように死んでいく我が人生」
と秀吉は自分の人生をあらわしている。
みなさんもこの感覚は分かると思う。
今の年齢になった時の自分はもっと大人のはずだったと思わないだろうか。
もっとたくさんの経験をして、全く違う考え方をしていて・・・。
なんて想像していたが、実際は生まれた時から大きく変わらない自分がいる。
生まれてから今までがそうであるならば、
自分が死を迎える時もそうであろう。
これだけ毎日多くの時間を生きているけれども、
過ぎ去った過去は一瞬であり、
断片的な思い出を心に抱えているだけの自分がいる。

秀吉ほどの人生となると、さぞ抱えきれない思い出があるだろう。
と想像するのだが、大して変わらないのかもしれない。
「いろいろなことも夢の中の出来事のようだ」
と秀吉が言うように、過ぎ去った人生は振り返ってみても
現実感を持って思い出すことはできず、
夢の中の出来事のようなものものなのかもしれない。

そう考えると、「今に生きる」これが生きるということなんだなあ
と感じさせられる。

所詮は一粒の露のような儚い人生と思うと、
くだらないことに悩まず、目一杯生きてやろう!
なんてことを私は考えてしまった。

憂いはいつまでも続く

天下人となった秀吉は、それまで苦労したかいもあり、
幸せに暮らし、命を全うした。
ということであれば絵本の物語のようであるが、
現実の人生はそうはいかない。
天下を意のままに動かせる秀吉であっても、憂いがあった。
それは・・・
後継者 秀頼 のことであった。
57歳の時に秀吉は待望の世継ぎとなる男子を授かるととなる。秀頼である。
高齢での子供ということもあり、非常にかわいがった。
しかしこの幸せは憂いと表裏一体であった。
「自分が死んだ後、今臣下の体で仕えている者たちはどう動くだろうか」
この憂いが秀吉の晩年についてまわる。
秀吉は何度も諸大名を集め、秀頼への忠誠を誓う血判記請文を求めた。
たかが1枚の紙きれなのかもしれないが、
この紙きれに頼るしか、死に行くものにできることはないのである。


「かへすがへす秀頼事頼み申候」
と諸大名に遺言し、慶長三年(1598年)八月十八日、京都伏見城薨去した。
62歳であった。

 

その後は、よく知られているように徳川家康が豊臣家を滅ぼした。
秀吉の想いは果たされることなく、日本は江戸時代と呼ばれる、
徳川家を中心とした政治体制に入る。その江戸時代も約260年後に終わりを迎える。

 

人生も、歴史も露のようであり、夢のようであるなあ。

そんなことを考えさせられる秀吉の歌でした。

 

心に短歌を!

ここまで読んで頂き、ありがとうございます!