おいどんブログ

和歌・短歌を紹介します!

かくすればかくなるものと知りながら已むに已まれぬ大和魂 2/2

 

「かくすればかくなるものと知りながら已むに已まれぬ大和魂吉田松陰

 

 今回は、前回紹介したこの和歌を松陰がよむに至った経緯についてもう一度細かく追っていこうと思います。

 

松陰が黒船に乗り込むまでの動向や想い。

乗り込んだ後のやりとり。

なぜ失敗したのか。

これらを後に松陰の書いた『幽囚録』『回顧録』という本をもとに追っていきます。

この和歌が更に胸に迫ってくると思いますよ!

 

※ちなみに全て松陰目線で書いております。

 

黒船に乗船するまで

志の発端

 嘉永六年(1853年)浦賀にペリーが来航。師匠である佐久間象山は、幕府がオランダに軍艦建造を注文したことを喜び「すぐれた人材を選び、海外に出して一緒に色々学ばすのはどうか?」と密かに幕府に意見書を提出した。しかし、人材を送ることは断交されなかった。これを知った私はこの時に「海外渡航」の志を固めた。

佐久間象山 - Wikipedia

 

江戸を発つ

安政元年(1855年)3月3日

 友人と花見に行き、楽しむ中でその気持ちがふと悲しみに変わった。

胸に秘めた計画が実現して、海外に行くことになり、そこで一生を終えればもうこの江戸の桜をみることはないだろう。という感慨と外国船が近くの沖に碇泊しているというのに女、子供は国家の大患も知らないように花に浮かれている。この有様への慨嘆が心中を去来した。

 

3月4日

 以前から自分の狂暴な行動を心配してくれていた兄を訪れ「鎌倉で静かにしようと思う」と嘘をつく。アメリカと戦うなら戦う。戦わないなら海外に出て学ぶ。そう決めている自分の言動を人は狂暴と思うのは当然であろう。兄の厚意ある忠告にだから背くのだ。

 

3月5日

 友人たち(坪井・宮部・永鳥・松田・佐々・白井・来原・赤川)と酒楼に登り、自分の海外渡航計画を打ち明け意見を求めた。※この友人達については下部に補足。

 永鳥だけが最初から理解を示してくれたが、他は皆反対だった。しかし、徐々に同調してくれた。ただ宮部だけは「危険な計画だ」と断固反対であった。

 

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来原と宮部が議論をはじめた

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永鳥が口を開いた

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 こうして宮部も自分に思いとどまる気がないことを知り、賛同した。その後、佐々が涙を流しながら自分に聞いた。

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私は涙ながらに訴えた。

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 一同大きくうなずく。そして別れた。

 

 宿に戻り荷物を整理する。持ち物はたった一つの包みだけ。中身は本のみである。

 

 また友人たちがやってきてくれた。佐々は涙の跡を残したまま自分の着物を抜いでかけてくれ、そのまま立ち去った。宮部は自分の刀と私の刀を交換して持たせてくれ、また一首よんだ

 

皇神(すめらみこ)の真(まこと)のみちを畏みて思ひつつ行け思ひつつ行け

 

 皆と途中まで歩き、そして別れていった。最後に残ったのは自分と自分の門人の渋木(金子重之助 松陰より1歳年下)。そして二人で保土谷(ほどがや)に投宿した。

 

〈友人たち〉

↓松陰の言葉通りに自分達の役目を果たしているんです。

※坪井竹槌 長州藩士 維新後国事に奔走。

宮部鼎蔵 肥後藩士 新選組が突入した池田屋事件で討死

※永鳥三平 肥後藩士 八月十八日の政変で投獄。獄中で病死

※松田重介 肥後藩士 池田屋事件で捕縛されるが脱走。見廻りの会津藩士に殺される

※佐々淳次郎 肥後藩士 後に明治天皇の養育係に。「一番こわかったのは淳次郎、そして一番ためになったのは淳次郎」と言われたという。

※白井小助 長州藩士 松陰が捕縛された時に金品送付などの役をする。後に戊辰戦争にも参加し、郷里で私塾を営んだ。

※来原良蔵 長州藩士 伊藤博文松下村塾に入れた人物。長州藩論の一変により自害

※赤川淡水(佐久間佐兵衛)長州藩士 藩内の俗論党のために処刑される。

       

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江戸周辺地図

失敗また失敗

 

3月6日

「投夷書」(アメリカ人に渡す為の手紙)を作った。

 偶然に師匠の佐久間象山の従僕に出会う。漁師を口説いて外国船に近づく方法がないか尋ねるとちょうど師匠も同じことを考えているとのこと。これ幸いと象山のところにいく。

 

3月7日

 漁師を口説き、酒を飲ませ、外国船に近づくことを了承させる。いよいよ夜になりお金を渡して、いざ外国船にという段になって漁師は尻込みし始め、結局行けなかった。

 

3月9日

 アメリカ人が横浜に上陸したと聞き、急遽かけつける。しかし着いた時には去った後だった。

「もうこの上は危険を避けていては成功しない。今夜は舟を盗んででも直接あのアメリカ船に漕ぎつけましょう!幸い今日は天気もいいし、波もおだやかです」と渋木は言った。そして昼のうちに舟を探しておいて夜その場所に向かった。

 しかし、夜になると舟はなく、波は山のよう。更に村の犬が群がってきてさかんに吠える。「なるほど泥棒もむずかしい」と思わず苦笑いをした。そして宿に戻った。宿にいた者から「またしくじったか」と言われた為、私は

しくじればしくじるほど志はいよいよ固まるばかりだ。これは天の試練だろうから、少しもへこたれない」と言った。

 

3月13日

 アメリカ艦が出帆。下田へ向かった為、自分も下田へ向かう。

 

3月18日

下田着

 

3月21日

ペリーの艦隊が入港。夕方から夜にかけて偵察。

 

3月26日

 今夜決行しよう!と夕方から渋木と海岸をぶらつき状況偵察。夜中2時になり、下田で小舟を盗み川を下って海へ向かう。途中番船がいることに気づき、二人の胸の動悸が早まるが見つからず、そのまま海に出る。

 しかし、波が高くうまく進まず失敗。舟を乗り捨て岸にのぼり、次の機会を待つ。

 

3月27日

 上陸中の1人のアメリカ人と出会う。そこで「投夷書」を渡す。今夜決行だ!

 

いよいよ黒船に乗船

 夕方渋木と海岸を見まわると漁舟2隻が浮かんでいる。それを確認した後、宿に戻り風呂に入り御飯を済ませ、再び海岸に戻る。20時過ぎまで海岸で横になる。漁船を見に行くと砂の上なので、潮が満ちるのを待って寝る。

 夜中2時。舟を見に行くと海に浮かんでいる。「よし今が決行の時」と舟にのると「櫓ぐいがない!」

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櫓杭(ろぐい)

 やむなく櫂をふんどしで縛り舟の両側にくくりつけ漕ぎだす。ふんどしは擦り切れ、帯でしばり舟を漕ぐ。そしてミシシッピー号にたどりつく。舟を横付けすると艦上では怪しんで明かりを降ろしてきた。

「我々はアメリカに行きたい。君がこのことを長官に請うてくれればありがたい。」

 と漢字で書きそれを手にもって艦に上がった。書を渡すと「ポーハタン号へ行け」と手真似でしていた。「連れて行ってくれ」と伝えるが「自分の舟で行け」とのことで、しぶしぶ元の舟でポーハタン号に向かった。

 舟はポーハタン号に辿りつくが、波が寄せる度にポーハタン号に舟が激突する。その音に気付いてアメリカ人は上から見ていたが、やがて腹を立てて木の棒をもって梯子を降りてきて、舟を突き出そうとした。突き出されてはたまらないと私はとっさに艦の梯子に飛び乗り「そのともづなを早く!」と渋木に叫んだ。しかし舟はまた突き出されようとし、渋木はともづなを捨て艦にとびのった。そして舟は押し出されてしまった。舟には刀や色々なものが残されていた・・・

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 梯子を上がるとアメリカ人は見物に来たと勘違いしたのか羅針盤などを指し示した。私は筆を指さし「それを貸してくれ」と手真似をするも全く伝わらない。そこに日本語の分かるウィリヤムスという者が出てきた。

 

アメリカに行きたい」松陰(漢字で書く)

「どこの国の字だ?」ウィリヤムス

「日本の字だ」松陰

「ああ漢字か」「名を書け」ウィリヤムス

昼間に上陸したアメリカ人に渡した「投夷書」の偽名を書くとウィリヤムスは一度部屋に戻り、その時の書を持ってきた。

「このことは長官と私だけが知っている。けれども横浜でアメリカの長官と林大学頭とは条約を取り決めた。だからこの条約を破って君の願いを聞く訳にはいかない。もう少し待てば遠からず両国の行き来は一国内のように道が開けるだろう。その時に是非来てほしい。それに我々はすぐ帰国するわけでなく3か月ここにいる」ウィリヤムス

「3か月とは今月から?来月から?」松陰

「来月からだ」ウィリヤムス

「僕らが夜に乗じてきたのは国禁を犯してのことだ。今帰れば必ず罰せられる。もう戻るわけにはいかない」松陰

「夜が明けないうちに帰れば日本の者は誰も気づかないだろうから早く戻ったほうがいい。下田の役人の黒川は承知しているのか?もし黒川が許可すれば長官も君らの同行を認めようが、黒川が許さぬとあらば長官もつれていけないのだ」ウィリヤムス

「では我々はこの艦中に留まっているから長官から黒川に掛け合ってほしい」松陰

「それはできない」ウィリヤムス

 

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我々は事の誤算に気づくとともに乗り捨てた舟が気になり、とうとう帰る決心をした。

 

舟を探してくれる。ということだったが、アメリカの小舟はまっすぐ海岸に乗りつけ自分達を上陸させてしまった。舟を探すあてもなく困っている間に夜が明けた。「こうなったらどうしようもない。捕らえられるのも見苦しい」と自首を決意する。

 

それにしてもウィリヤムスは間違えずに早口で日本語を話したが、こちらの言うことはいまいち理解できてないようだったが、あれはわざとだったのであろうか・・・。

 

後悔

 ちゃんと持ち物をもって艦にあがれていたら、心残りなく艦に留まり朝を迎え、昼は帰れないことを理由にもう1日留まり、その間に打ち解けて計画は成功したのに。

 失敗の原因は「櫓くいがなかった」ことささいなことが失敗につながるのだ。そしてこの結果は恥ではなく、天命を得られなかっただけだ。

 

~牢獄の中で~

 世界の情勢をよく観察し、対策を考え、あれこれ対処しなければならないのだが、机上の空論に走り、口先だけで論議する者たちはもちろんこのことにあずかることはできない。僕は身分が低いが皇国の民である。理のあることろ。勢いの赴くところを知る以上、一身一家を顧み、黙って座視していることはできない。僕が下田で米艦へ密航を企てたこともやむにやまれぬことだったのだ。

 今この計画に失敗した。現在の立場はあたかも空理空論を弄ぶ者と同じようなものでこの上なく恥ずかしいと思う。かつて自分は歴史書を読み、その中の人物に心を寄せ思わず泣いてしまったことがある。後世、私の一文を読む人が、胸をときめかせ、あるいはいたみ悲しむこと、かならずや僕が歴史書で抱いた気持ちと同じでないとは、誰が言えるだろうか。

 

最後に

かくすればかくなるものと知りながら已むに已まれぬ大和魂

 

 この歌がよまれるまでの松陰の行動・想いを感じられましたか? 友人たちとの別れは本当に熱く美しいものがあります。そして、海岸を行き来して何度も失敗。ようやく乗船できたが拒否され、そして自首することになりました。

 

「黒船が日本にやってきた」という事象をもって

自分事と捉え→具体的な行動に落とし込み→実際行動に移す

今の自分に置き換えてできますか?

そう考えるだけでも松陰という人物のすごさを感じられます。

 ちなみに、松陰が獄中で読んでいた本があります。それが赤穂義士伝』

この歌がよまれたのが赤穂義士菩提寺の前を通る時だったことはこの本からつながっているのかもしれません。

 

五七五七七の文字には心がのっています。

松陰が実際に考え、行動したことを字面だけでも追体験することで、当時の松陰の心に少しでも近づけられればと思います。すると、より和歌が胸に迫ってきますね!

 

今回参考にしたのは『日本の名著31 吉田松陰中央公論社です。

全て現代語訳で吉田松陰の名著の数々が収録されています。

 

 

 

心に和歌を!

最後までお読みいただき、ありがとうございます! 

 

 

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