おいどんブログ

和歌・短歌を紹介します!

後れても後れてもまた君たちに誓ひしことを我忘れめや

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短歌原文

後れても後れてもまた君たちに誓ひしことを我忘れめや

おくれてもおくれてもまたきみたちにちかひしことをわれわすれめや

 

高杉晋作  桜山招魂場での招魂祭にて

現代語訳

死におくれても。死におくれても。死んでいったみんなに誓ったことを私は忘れることはない

文法

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短歌を味わおう

高杉晋作という人物

この短歌は高杉晋作が詠んだものです。
高杉晋作と言えば、明治維新の立役者。
長州藩士であり、松下村塾門下生です。
武士以外で組織された奇兵隊の創設者として有名ですね。
一つ晋作らしい功山寺決起」のエピソードを紹介します。

時は元治元年(1865年)明治維新の2年前のことでした。
幕府は言うことを聞かない長州藩に対して兵を送りました。その数35藩から約15万人!第一次長州征伐と呼ばれるものです。
幕府に恭順しようという空気が長州藩内に蔓延する中、
「俺は幕府と戦う!ついてくる奴は今晩功山寺に来い!」
と晋作はたった一人立ち上がりました。
雪の降り積もる功山寺・・・
集結した人数はわずか84名(その中には伊藤博文もいました)。
晋作はこの仲間と共に、長州内に匿われていた公卿のもとにいきます。
そこで残した言葉が「これよりは、長州男児の腕前 お目にかけ申すべく!」
晋作は言葉通り、長州藩内の幕府恭順派と戦い、ついに藩内を幕府と戦う意思で統一させました。

これにより長州藩と幕府は戦うことになります(第二次長州征伐)。
この戦いで長州藩は次々と勝利をおさめ、
幕府の権威は大きく失墜することとなり、
明治維新が大きく近づいたと言われております。

 

しかし、この頃、晋作の体は既に病におかされていました。

 

功山寺決起から2年後の慶応3年(1867年)4月。27歳の若さで晋作はこの世を去ります。

大政奉還の半年前のことでした。

 

後に伊藤博文高杉晋作の顕彰碑に下記の文章をきごうしました。
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し 。衆目駭然として敢えて正視するものなし、これ我が東行高杉君に非ずや。」  

(動けば雷のようで。声を発すれば風雨のようだ。周囲はぼうぜんとして正視できる者はない。これぞ我らが高杉晋作である!)

酒と三味線を愛し、やる時はやる高杉晋作
男なら憧れる人物です。

 

こんなイケイケの晋作も、
実は、人生で何をすればよいか探し求め、落ち込んだ時期もあったのです。
故郷に帰り、お役所仕事に励んだり。
剣で生きる!と武者修行に出たが、あまり強くない自分に気付いたり。
これからは船の時代だと船に乗り込むがすぐに船酔いし「向いていない」と早々に下船したり。
江戸留学時は自分の命の使い方に迷い、酒浸りになり、「高杉に近付かない方がよい」と言われた時期もありました。
そのような中で志が固まっていき、皆が知る偉人になったのです!

死んでいった者達を想ふ

今回の短歌は桜山招魂場での招魂祭にて、高杉が詠ったものです。
この桜山招魂場とは攘夷戦争で命を落とした者を祀るため、晋作の発議により1865年、下関にて落成した神社です。
後に長州藩士も祀られるのですが、実は日本最初の招魂社なのです。
有名な招魂社と言えば「東京招魂社」後の「靖国神社」です!

 

今の我々では実感をもって理解できないのが、
志士達の死生観です。 
一緒に語り合った仲間達が次々と死んでいく時代。
自分の命の使い方。死への考え方は我々とは雲泥の差があったと思います。

 

今回の歌も晋作の人生観が詰まっています。
20代で既に死に遅れていると言う晋作の頭には、たくさんの仲間の姿が思い浮かんでいたことでしょう。
同窓として松下村塾で学んだ仲間も。
奇兵隊として一緒に戦った仲間も。
「国のため」と誓いあったその想いを全て背負って、晋作は生きていたのです。
それは自分の命を削るほどのものだったからこそ、晋作は若くして病に侵されたのではと思います。

 

想いのバトンを生きている者が繋いでいくことで今の日本がある。
そういうことを感じる今回の短歌でした。

 

心に短歌を!

最後まで読んで頂き、ありがとうございます!!!

 

参考文献『名歌でたどる日本の心』小柳陽太郎 他 編・著 草思社