おいどんブログ

和歌・短歌を紹介します!

父ならぬ父を父とも頼みつつありけるものをあはれ吾が子や

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短歌原文

父ならむ 父を父とも 頼みつつ ありけるものを あはれ吾が子や

 

                     伴林光平(ともばやし みつひら)

現代語訳

父らしいことを何もしてやれなかったこの私を、父と頼んでいた我が子の

なんてあわれなことよ。

 

伴林光平とはどんな人? ①「天誅組の変(大和義挙)」

今回の短歌を詠んだ伴林光平(ともばやし みつひら)は幕末の志士でした。
があまり知られていない人物かと思います。そこで、まずはこの人物が登場する天誅組の変(大和義挙)」について説明したいと思います。

そもそも「天誅」は聞いたことがありますよね。天が悪いやつらを誅する(罰する)。という意味ですが、幕末の京都で「てんちゅー!」って志士達が幕府側の人や開国を論じる人達を襲う時に使った言葉です。「日本を悪くする奴等は天にかわってお仕置きしちゃうぞ」ってセーラームーンみたいな言葉です。ということは天誅組の変(大和義挙)」と名前から分かるように勤王攘夷の志士達が起こしたことです。ちなみに「大和義挙」とも呼ばれるように大和の国(今の奈良県)が舞台となります。

時は文久三年(1863年)。日本は尊王攘夷熱まっただ中でした。(朝廷にもっと政治の実権を!外国を追い払え!)朝廷が幕府に攘夷を迫り、長州が「攘夷を決行するぞ!」と下関で外国船を砲撃したり。そのような中、孝明天皇が現在の奈良県橿原市にある神武天皇陵に参拝することになりました(大和御幸)。とはいってもただの参拝ではなく「親征」つまり天皇自らが軍を率いて攘夷を決行するという意味を持たせ、攘夷を渋る幕府を追い詰めようという大きな意味がありました。この意図を汲んだ天誅組という吉村寅太郎(土佐の勤王志士)らを中心としたグループは「これは我らが先に大和(奈良県)に入り、露払いをしよう!」と同じく勤王の思いの強い公卿である中山忠光を誘い、大和に入りました。彼らはここは天皇の土地だと幕府の出先機関である代官を襲い、そこの長官を血祭に挙げます。

ところがここで大事件が起きます。京都で八月十八日の政変」といわれるクーデターが起こったのでした。勤皇系の公卿に取り入って政治を動かしていた長州を、会津と薩摩が組んで締め出しました。つまり過激な勤王攘夷派(朝廷中心の政治をしよう。そして外国を追い払おう派)から公武合体派(朝廷と幕府で協力していこう派)に実権が移ったのです。これにより大和御幸は中止になります。そうなると、先に大和に入り気勢をあげていた天誅組は「暴徒」ということになり、討伐される側となりました。天誅組は各地で敗戦し、しまいには朝廷から逆賊とされ、多くの犠牲を出しながら瓦解してしまいました。

天誅組の変(大和義挙)」自体は失敗に終わりましたが、以降の歴史を知っている後世の我々から見れば、江戸時代から明治時代に移り変わる日本のうねりの一番先を駆け抜けたような動きでした。「あれっ、そういえば幕府ありきで考えていたけど、倒して変えちゃうっていうのもありかも。」そう人々が思うきっかけとなったのでした。だって、1867年つまり4年後には「大政奉還」なんです。こういう衝突があちこちでたくさん起こりながら、少しずつ時代は変化していくのですね。それぞれが次の動きに結びついているので、無駄なものは1つもないのです。

 

伴林光平とはどんな人? ②ところで伴林光平は?

さて、伴林光平の説明にやっと入ります。この人物は大阪生まれで国学(日本についてのこと)を学び、大阪の八尾市にあるお寺の住職をしていました。しかし、ある日お寺を突然飛び出し、勤王志士として活動するようになります。そして「天誅組の変」のことをきき、大和に向かい参加することになりました。しかし、天誅組は敗走、瓦解。伴林は捕らえられ、斬首されました。享年52歳。住職を辞め、家族を捨てて、国のことを思い行動する程、国のことを思う気持ちが厚く、国学についての教養深い人物でした。有名な歴史上の人物だけでなく、こういう人物がたくさんいたから明治維新は成ったということを忘れてはいけないですね。

 

 

今回の短歌が詠まれたいきさつ

伴林は先妻に先立たれてから、後妻の間に二人の子供がいたと言われています。しかし、この後妻、天誅組の変の際に子供を置いて家を出てしまったのでした。この家に伴林は敗走中に立ち寄ります。しかしそこには誰もいない。子供もどこにいってしまったのか。もぬけの殻の家で、伴林は今回の短歌を詠んだのでした。

自分は「国のため」子供を置いて天誅組の変に参加した。ああ、子供たちよ。こんな父で本当にすまない。君たちには何も父らしいことをしてやれなかった。伴林の気持ちがあふれ出ている短歌です。

今の時代「国のため」家庭を捨てる。なんて理解されないかもしれません。しかし、自分の周りの幸せをあえてかなぐり捨てて、更に大きな大義の為に身を投じてきた人たちの上に、今の我々がいることも忘れてはいけないと思います。もちろん妻も子もたまったもんじゃなかったでしょう。結果は失敗だった天誅組の変に参加したことは、無駄なことだったと言えるかもしれません。しかし私はいつも思うことがあります。普段自分の子供に当たり前のように会えること。明日も来週も会えること。これほど幸せで贅沢なことはないと。歴史を見れば、防人だったり、先の戦争で戦地に赴いた人たち。大災害の時に救助や人々の避難に向かった人たち。そして今回の伴林もそうです。みな「お父さん」という一面ももっていて、明日も来週も我が子と食卓を囲みたいのに、もっと大きなものを守るために、その日常に背を向けて家を出なければいけなかった。そういう小さな多くの犠牲の上に地域や国というものは支えられてきた。ということです。そうして誰かが村や国を守ってきたことで、当たり前のように平和に食卓を囲める今の自分達があると思います。

男はいざという時に自分の家の玄関に背を向けなければならない時がある。

その「いざという時」に自分がそうできるか正直今はイメージできないですが、過去の人たちから紡がれてきたDNAがその時に自分に働きかけるのかもしれません。

 

今回の短歌はそういうことを考えさせてくれる短歌です。

 

 

心に短歌を!最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

 

参考文献『短歌のすすめ』 夜久正雄・山田輝彦 著