おいどんブログ

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此の春は 花うぐひすも 捨てにけり わがなす業ぞ 国民のこと

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短歌原文

此の春は 花うぐひすも 捨てにけり わがなす業ぞ 国民のこと

このはるは はなうぐひすも すてにけり わがなすことぞ くにたみのこと

孝明天皇

 

現代語訳

この春は、春もうぐいすも捨てた。私がすることはただ国民の為にすることだけだ。

 

多難な時代の天皇陛下

前回に続き、幕末という激動の時代に重圧を背負われた孝明天皇の短歌(※御製)です。

※御製→天皇や皇族の短歌のこと

 

孝明天皇については下記をご覧ください。 

oidon5.hatenablog.com

 

孝明天皇の時代がどれだけ激動であったか、下記略歴より一目瞭然です。

 

孝明天皇略歴

1846年(弘化三年)16歳でご即位

1853年(嘉永六年)22歳の時にペリーが浦賀に来航

1854年嘉永七年)日米和親条約締結

1858年・59年(安政五・六年)安政の大獄日米修好通商条約締結

1860年文久元年)29歳の時に、妹和宮徳川家茂正室にする ※公武合体の推進

1863年文久三年)下関戦争←長州VS外国 薩英戦争←薩摩VS英

1864年(元治元年)禁門の変 ←御所で薩摩・会津等と長州が戦う

1866年(慶応二年)36歳でお亡くなりになる

公武合体→公(朝廷)と武(江戸幕府)が協力しあう体制         

 

孝明天皇がお亡くなりになられた1866年(慶応二年)は、

徳川第14代将軍 徳川家茂が亡くなり、薩長同盟が密かに結ばれた年です。

そして翌年の1867年(慶応三年)には大政奉還があり、それから戊辰戦争明治新政府誕生と繋がっていきます。国が対立することをよしとしなかった孝明天皇は、公武合体(貴族と武家で協力して政治をすること)を推進しておりました。そのため、倒幕を目論む勢力によって毒殺されたという説もあります。

 

 多難な時代の共有

この御製に目が留まったのは、今のコロナ騒ぎのためです。

テコでも動かないと思われた世の中が一変してしまう。ということは歴史上何度もあります。例えば、戦争もそうです。我々は経験したことがないため、実感として理解できないのですが、戦争前と戦争中で国民の生活に境目があるわけではないのです。

家族でご飯を食べ、学校へ行き、仕事をして、近所の人とおしゃべりをする。

そのような日常を送る中「今日から戦争がはじまった」とニュースで知り、

あれよあれよと生活も変わっていく。そして気が付くと周りから死者も出始め、

戦争の真っただ中に自分たちがいつのまにかいる。というのが、国民から見た戦争のリアルだと思います。

 

同じように、幕末の時代も江戸幕府がなくなるなんて誰もが夢にも思っていませんでした。目の前にある生活が大きく変わるなんて、ペリーが来ようが、長州が幕府と戦争をしようが思っていませんでした。ただ、刻一刻と情勢が変わる中、ただ毎日を一生懸命に生きていただけです。

 

そして、今、当たり前に享受していた経済活動や移動の自由があれよあれよと制限されています。後世から見ると、コロナ前・中・後という時間軸で理解できるのかもしれませんが、今の我々は時代のど真ん中に生きています。発生源は何なのか。今ベストな対策は何か。そして将来はどうなるのか。何もわからないまま「あれよあれよ」とコロナの影響のど真ん中にいるというところが実感ではないでしょうか。そして今の情勢の中、ただ今日を一生懸命生きるしかないのです。

  

「此の春は 花うぐひすも 捨てにけり わがなす業ぞ 国民のこと」

ちょうど今の我々であれば、この御製の思いを少しは共有できると思います。

この春は、お花見も諦め、GWは外に出たい気持ちも抑え。

自分はもし健康であっても、国全体で感染拡大を広げる為、自粛・・・。

 

「わがなす業ぞ 国民のこと」と大それたことは言えませんが、

そうか!孝明天皇も春の楽しみを捨てる覚悟でお臨みになられたのか。

それを知るだけでも、少しは自分の我慢につながるような気がします。

 

心に短歌を!

今を乗り切りましょう!

 

参考文献

『名歌でたどる日本の心』小柳陽太郎 他(編・著) 草思社