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ほととぎす 鳴きつる方を 眺むれば ただ有明の 月ぞ残れる

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短歌原文

ほととぎす 鳴きつる方を 眺むれば ただ有明の 月ぞ残れる

 

ほととぎす なきつるかたを ながむれば ただありあけの つきぞのこれる

 

後徳大寺左大臣   小倉百人一首

 

有明の月→朝、夜明け時に残る月。

 

短歌の意味

朝、夜明け時に、ほととぎすが鳴いた方を見たら、ただ月だけが残っているなあ。

 

後徳大寺左大臣ってどんな人?

  今回の歌は百人一首でお馴染みの歌です。「あっ聞いたことある!」と思った方も多いはずです。夏の歌として有名ですが、そもそもこの歌を詠んだ人物の名前が気になりませんか?ということで、まずは後徳大寺左大臣さんについてご紹介します。

  平安時代末期~鎌倉初期の公家であり歌人実際は「藤原実定」という名前の方です。昔は役職や住んでいる場所などで呼ばれることが多々ありました。おじいちゃんが「徳大寺左大臣」という呼び名で有名で、実定も左大臣になったため「徳大寺左大臣」と呼ばれたようです。

「徳大寺家」→藤原氏北家閑院流。三条家・西園寺家と家格は同じ。

左大臣」→朝廷の役職でNo2だが、その上の「太政大臣」は名誉職に近い為、実質のNo1の役職。

ということで、めちゃくちゃ位の高い人物です。

 時代が平安時代末期~鎌倉時代初期ということから鎌倉幕府との関係が気になるところですが、そもそも徳大寺家と平家がライバルであったとも言われていたこともあるのか、源頼朝から信頼が高かったようです。それは、藤原実定が亡くなった時の頼朝の状況からも分かります。「幕下殊に溜息し給う。関東由緒あり。日来重んぜらるる所也」『吾妻鏡と頼朝は実定の死を聞いて、深くため息をついたそうです。

 権力の中枢にいながら、歌人としても有名でとても優秀な人物でした。特に歌は、平家との権力争いに敗れ、閑職に甘んじていた時に多く作られたようです。(ちなみに今回の歌は右大臣の時。47歳頃に詠んだ歌です。)

 

夏と言えば、やっぱり「ほととぎす」!

 さて後徳大寺左大臣さんについて知ったところで、歌を味わっていきましょう。

「ほととぎす」は初夏に飛来するため、夏を教えてくれる鳥です。有明の月」は朝の夜明け時に残る月「あっ、空が明るくなってきたのに月がまだある。」ってやつです。平安時代の貴族の間で、初夏、ほととぎすの第一声を聞くために一晩明かして聴くということがあったようです。今でいう元旦のご来光を見るとか、〇〇流星群を見るために夜を徹する。とかそのような感覚でしょうか。四季の移り変わり。それ自体がエンターテイメントなんです。

 後徳大寺左大臣さんは、ほととぎすの第一声を聴こうと夜通し待っていた。そこに・・・↓↓↓

https://www.youtube.com/watch?v=JyEYApCY-dM

YouTube「鳴き声ノート(ホトトギス)13ページ」参照)

「あっ、今ほととぎすが鳴いた!」すぐさま、その声が聞こえた方を眺めると、そこにはほととぎすがおらず、ただうっすらと明るい空に月が残っていた。

 

 いや~いいですね~。薄ら明るく、空気の透き通った朝。誰もが寝静まり静寂があたりを包み込む中、空に響き渡るほととぎすの声。視線を上に向けるとそこにはほととぎすの姿はなく、ただ月がうっすらまだ残っている。 「ただ」有明の月「ぞ」残れる とほととぎす待ちで夜通し待ったものの、その姿を捉えられなかった残念!という想いと、またこれはこれで趣ある風景。という両方の気持ちを私は感じます。

 

 四季の移り変わりをエンタメ化することは、人間が幸せに生きる一つのヒントだと思います。YouTubeもテレビもない時代。自分達の身の回りにある自然の小さな変化を楽しんだ先人の方々から、今の我々も学ぶことがたくさんあります。デジタルからのコンテンツもよいですが、たまには、自然に目を向けてみませんか?

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

心に短歌を!