おいどんブログ

和歌・短歌を紹介します!

遊ぶべき 時もわすれて 夜昼と 勤めつくせば 楽しかるらん

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短歌原文

遊ぶべき 時もわすれて 夜昼と 勤めつくせば 楽しかるらん

 

あそぶべき ときもわすれて よるひると つとめつくせば たのしかるらん

 

二宮尊徳 『道歌集』

 

現代語訳

遊ぶ時間も忘れて、一日中仕事をすれば楽しいことだろう。

 

代表的日本人1/5の二宮尊徳

 みなさんは二宮尊徳という人物を知っていますか?薪を背負い本を読んでいる、昔はどこの学校にもあった銅像の人物。と言えば、ほとんどの方が知っているのではないでしょうか。二宮金次郎も同人物です。しかし、どういうことをした人物か知っていますか?と聞くと、たちまち答えられなくなるのではないでしょうか。そこで今回の短歌では二宮尊徳を紹介していきます。

 内村鑑三という明治時代の方が本に『代表的日本人』というものがあります。この本は日清戦争が始まった1894年に書かれたものです。日本は、江戸時代から明治になり、急激に西洋のものを取り入れていきました。しかし、その一方で日本的な良いものが失われていっているのではないか。そう感じました内村鑑三は日本人の美徳を5人の人物を通して本の中で伝えまました。さあ、5人は誰でしょう・・・。

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『代表的日本人』岩波文庫 内村鑑三

f:id:oidon5:20201003133312p:plain西郷隆盛f:id:oidon5:20201003133350p:plain上杉鷹山f:id:oidon5:20201003133431p:plain中江藤樹

f:id:oidon5:20201003133505p:plain日蓮

 

そして・・・

 

f:id:oidon5:20201003133535p:plain二宮尊徳


内村鑑三の選んだ5人のうちの1人が二宮尊徳なので。あの校庭に立っている、あどけない二宮金次郎少年はどこにいってしまったのか・・・。髭をたくわえ立派な大人になったことがこの絵からもうかがい知れます。

 

二宮尊徳略歴

二宮尊徳の人生をまずは年表でみてみましょう!

 

1787年 1歳 小田原藩の農家の家に生まれる。

1800年 14歳 父が没する

1802年 16歳 母が没する 伯父の家に引き取られる

農民が勉強などするな!本を読む油がもったいない!など言われながら、自分で菜種(油の原料)を育てたり、捨ててある苗から米を作り、自立していく。

1806年 20歳 生家の家に家を建てる

1811年 25歳 小田原藩家老 服部家の若党となる。尊徳の優秀さが目立ってくる。

1818年 32歳 服部家の財政整理を任される。

1822年 36歳 小田原藩に登用され桜町の復興を命ぜられる

桜町に移り住み、村の復興に取り組む。やる気のない農民たち。不満分子たちの中で、孤軍奮闘。さらに上司がこの農民たちと組んだりして、とてもしんどい日々。

1829年 43歳 突然村からいなくなる。成田山で断食。

1831年 45歳 桜町復興第一期事業終了

見事復興を成し遂げた尊徳の名声は周囲に広がり、他の村の復興なども任せられる。

1842年 56歳 幕府に登用される。

1853年 67歳 日光復興事業を命ぜられる。 ←ペリー来航の年!

1856年 70歳 死去

                      報徳博物館 二宮尊徳略年表より

 

 江戸時代の中~後期に二宮尊徳は生きました。もともと父親の体が弱く、少年の頃から大人に混じって働いていました。(この頃、働きながら勉強をしていた姿が銅像の姿です)また年表にあるように16歳までに両親を亡くし、非常に過酷な少年時代を過ごします。伯父の家で生活を始めるもよそ者の尊徳はさぞつらかったと思います。その現状を打破する為に、尊徳は捨てられた苗を育てるところから畑を少しずつ大きくしていきます。(積小為大という真理を会得する)また同時にお金を他人に貸すことで、徐々にお金を蓄え、20歳には自分の家を建てるまでになり、村一番の地主になっていきます。それから、尊徳は小田原藩家老の服部家で子供の教育などをお手伝いするようになります。この中でも尊徳の優秀さは日に日に周囲が知ることとなり、なんと武士の家の家計を農民である尊徳が任せられ、実際家計を立て直してしまいます。

 尊徳の活躍が藩主の目にとまり、桜町という村の復興を命ぜられます。(武士の資格を与えられる)ただ、もともと一農民が一地方の財政立て直しをするのです。彼は村人のモチベーションアップ施策を考えたり、率先垂範を心掛け、朝一番に村をまわり、夜遅く寝る毎日を過ごします。それでも一向に村人は言うことを聞いてくれませんでした。ちなみに尊徳は身長180㎝と当時ではめちゃくちゃでかく、それも超厳しかったようです。「うまく適当にやっていたのに、うるせえなあ」と村の悪分子たちは思ったことでしょう。さらに悪いことに尊徳には上司がいたのですが、彼は村の悪分子と組み、ことごとく尊徳の邪魔をします。だんだんストレスが溜まってきた尊徳はある日ブチ切れで突然村から姿を消しました。村人たちは尊徳がいないことに気が付き、そして尊徳がいなくなって始めて彼の偉大さに気が付き、呼び戻そうと所在を探し回ります。方々を探し回るとどうやら尊徳は成田山にいるということが分かりました。村人たちは複数人で成田山を訪れ尊徳に謝罪します。一方成田山で尊徳はなんと断食をして自分を見つめなおしていました。「あいつら全然俺の言うことを聞かん!いや待てよそもそも俺の言い方だったりもよくなかったかも」と尊徳自身も更に大きな器の人間に育っていました。

 それから桜町、そのほかの村々の財政立て直しを依頼され、解決していきます。現代でいうところの超スーパー経営コンサルタントです。その名声はどんどん大きくなり、なんと幕府から依頼されて日光の復興などにも従事するようになります。時は幕末。財政が混乱しきった江戸末期の中で、村々の復興を自らの体と頭をフルに使って実践をもって解決していた人物が二宮尊徳なのです。ペリー来航から政治も大きく動き、皆さん、西郷隆盛吉田松陰坂本竜馬などのような志士たちに目がいきがちですが、二宮尊徳のような人物がいたことも是非覚えておきたいですね。

 

現代に残る二宮尊徳

 二宮尊徳はすごい人物である。ということは略歴でお伝えしましたが、実際彼の功績は現代にも色々と残っております。そのいくつかをご紹介します。

「わたしは志摩の尊徳になりたい」と言ったのは真珠のミキモトを一代でつくりあげた御木本幸吉トヨタの創業者である豊田佐吉報徳思想(尊徳の教え)に大きく感化されていたと言われる。尊徳の死後、その思想を継承した「報徳社」という組織が各地に作られました。豊田佐吉の父がこの報徳思想を強く信じていたと言われ、子の佐吉に大きな影響を与えたと言われています。1946年発行の最後の1円札の肖像は二宮尊徳です。日本中にある「信用金庫」の初代は二宮尊徳の弟子がつくりました。報徳学園は尊徳の思想を伝えたいということで設立された学校です。二宮尊徳の思想は大きな影響を日本に与えたんですね。

そして短歌を味わう

 さて尊徳について相当詳しくなったところで本日の短歌に戻りましょう。ちなみに尊徳の短歌は「道歌」と言わております。「道歌」とは道徳的・教訓的な内容の混じる短歌のことです。尊徳が「道歌」をたくさん作ったことも、また尊徳の実践家らしさを感じさせてくれるように思います。今回の短歌(道歌)もとても実践的ですね。遊ぶことも忘れてず~~っと仕事をすることは楽しいだろうよ。と言っているのです。完全に仕事人間の歌ですね。いや、仕事が人生哲学に昇華されている人の歌です。仕事=労働ではないですね。「遊ぶべき時もわすれて夜昼と務めつくす」ことが彼の人生そのものです。

 

この歌は連作されているようでいくつか似た歌があります。

 

勤むべき ことも思はず うたひまひ(歌い舞い)遊びすすめば 不忠なるらむ

遊ぶべき 時も忘れて 苦しみて 勤めすすめば 至忠なるらむ

勤むべき ことを彼これ しりぞけて 遊びすごせば 不孝なるらん

遊ぶべき 時も忘れて 入り出つ 勤めつくせば 至孝なるらん

勤むべき 業も思はず 食ひのみ 遊びすごせば くるしかるらん

遊ぶべき 時もわすれて 夜昼と 勤めつくせば 樂しかるらむ

 

これらの歌から尊徳の人物像が浮かんでくるようです・・・。自分の仕事のことも見直します。つい尊徳に頭を下げている自分が目に浮かぶ短歌でした。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

心に短歌を!