おいどんブログ

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何事も かはりはてたる 世の中を 知らでや雪の 白く降るらむ

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短歌原文

何事も かはりはてたる 世の中を 知らでや雪の 白く降るらむ

なにごとも かはりはてたる よのなかを しらでやゆきの しろくふるらむ

太閤記佐々成政

 

や:疑問の意味

らむ:推量の助動詞 

や+らむ:

現代語訳

全部変わってしまった世の中を知らないのだろうか・・・雪は(去年と変わらずに)白く降っているなあ。

 

時代背景「小牧・長久手の戦い

 時は天正十二年(1584)3月。本能寺の変による織田信長の亡き後、羽柴(豊臣)秀吉が勢力拡大を続けていました。その勢いに待ったをかけたのが、信長の盟友であった徳川家康でした。織田信長の次男である信勝と秀吉の対立が深まる中、信勝は家康と組み、羽柴秀吉VS織田信勝徳川家康 連合軍の戦い小牧・長久手の戦い)が起こりました。「織田家を奪った秀吉を討伐せよ!」という大義名分のもと、北陸の佐々成正←今回の歌を詠んだ人物、四国の長曾我部元親、関東の北条氏政紀州(今の和歌山)の根来衆雑賀衆らも各地で反秀吉包囲網に加わりました。

 しかし、多くの武将は秀吉側につき、結果、小牧・長久手の戦いでの兵数を比較すると、信勝・家康連合軍 1万5千~3万。一方の秀吉軍が7万~10万だったと言われております。(諸説あり。包囲網の兵数は含まず。)

 この小牧・長久手の戦いで先に動きを見せたのは秀吉側でした。池田恒興森長可といった信長譜代の家臣が別動隊となり、空白地となっていた家康の本拠地三河を襲って挟み撃ちにしようとしました。しかし、家康はその動きを察知し、別動隊に猛攻を加え、恒興、長可両名とも討ち取ってしまいます。これにより、両軍は膠着状態となりました。

 「さすがに信長の盟友として数々の戦に参戦してきた家康は手ごわい。それならば政治で勝つぞ」ということで、秀吉は織田信勝を狙い打ちし、なんと秀吉と信勝の間で和睦を成立させてしまいます。これで「織田家を奪った秀吉を討伐せよ」という反秀吉側の大義名分は失われてしまいました。家康をはじめとする反秀吉側は「え~~~っ」ということに。家康もこりゃだめだと、秀吉と和睦を結ぶことになり、約9カ月間の小牧・長久手の戦いは終わりました。

 しかし!この状況に納得がいっていない人物がいました・・・。そう!それが佐々成政です。それでは、この歌が生まれるまでに更に迫っていきましょう。

 

「真冬に北アルプスを越えた武将」佐々成政

 佐々成政は、信勝、家康の相次ぐ秀吉との和睦に孤立してしまいました。当時の佐々成政の状況を下の図をご覧ください。

 

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《画像引用元》「ちろわんこの雑記帳」ブログ

http://chirowanko.blog.fc2.com/blog-entry-1560.html?sp

 西には前田利家、東には上杉景勝。と挟まれ、にっちもさっちもいかない状況。しかし、成政は秀吉に下ることをしません。なんと「再起を促すために、家康を説得しにいく!」と家康勢力下の信濃(長野県)を通って家康のいる浜松城静岡県)を目指しました。季節は真冬の旧暦12月(現在の1月上旬)。さらに下の図の白囲み部分は標高2000m級の山々が連なる北アルプス!このハードすぎる行程を踏破すべく、冬の山に詳しい者を先導に、数十人の配下の者達を引き連れて自ら浜松城を目指すのでした。

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google mapより

途中で凍傷になる者、滑落する者などを出しながらも「矢玉繁き所に立つよりは遥かに易き道なるぞ(矢や鉄砲の玉が飛び交う所に立つよりは、ずっと簡単な道だ!)」と成政は同行の者達を励ましながら進みました。

 そしてとうとう、このハードすぎる行程を踏破!約30日かけてようやく家康に会うことができ、再起を促すも・・・断られてしまいます・・・。家康としても色々と検討した結果に出した和睦だったため、成政には悪いが飲める話ではなかったのです。肩を落として富山城に帰ってきた佐々成政は、ぽつりと今回の歌を詠んだのでした。

 この冬の山越えは「さらさ越え」と呼ばれる有名な佐々成政の逸話です。それにしても、現代のように防寒具もない中、冬の北アルプスを越えるとは、本当に凄いことです。江戸時代にも「本当に冬にこの難所を越えることはできるのか?」と何度か調査がなされたようです。そして成政の歩んだルートなどには諸説あるようです。(家康の所に来たことは資料にちゃんと残っているようですが)

 「さらさ越え」をしたにも関わらず家康に再起を断られた成政は、最後まで秀吉に抵抗するも、富山城を10万の兵に囲まれ、遂に秀吉に下ることになりました。意外にも命は助けられ、以降はお伽衆(お話相手)として秀吉の近くに仕える日々を過ごしていました。それからチャンスが巡ってきて、秀吉の九州攻めで功績を残し、肥後(現在の熊本県)を与えられることになります。一国の城主に返り咲いた成政でしたが、国内で一揆が発生し、うまくおさめることができませんでした。それにより秀吉の怒りを買い、最期は切腹させられてしまいました。

 

人間の世と自然

 この歌は「人間の世のはかなさ」と「自然の悠久さ」を対比しております。人間の世とは「何事もかはりはてたる」諸行無常な世界。少し前まで良かったものも、すぐに奈落の底に落ちてします。一方そんな人間の世など「知らでや」「雪の白く降るらむ」なのです。自然は人間の活動に影響されずに、淡々とその活動を続けていきます。成政にはこの雪がどのように映ったのでしょうか?「おい、こんなに世の中は変わっていくのに、お前はそんなこと知ったこっちゃないってか!?」と恨み節を発したのか。人間の世のはかなさへの諦めに似たうすら笑いを浮かべたのか。いずれにしても、人智を超えて流転する自然のルールの中で、人間のはかなさをより一層感じたことでしょう。人間世界のことであれこれ悩んでいる時に、ふと変わらない自然に気が付くということは、今の我々にもあると思います。悠久の自然の中の自分。と考えると、悩みがちっぽけになるような。

 さて「降るらむ」にも注目してみましょう。この歌が登場する『太閤記』では「ふる(古)事ながら思ひ出られにけり」と歌の後に解説されており、古いこと(昔のこと)を成政は思い出していたということです。14歳頃に信長に仕え、黒母衣衆(親衛隊)筆頭となり、柴田勝家を軍団長とする北陸方面を担当する武将とし、越中を与えられ・・・。成政の信長家臣のとしての輝かしい人生は、本能寺の変より歯車が狂い始め「何事もかはりはてたる」ようになってしまいました。なんせ元同僚の秀吉がいつの間にか信長にとって代わる存在になってしまっていたのです。成政にとって悪夢でしかありません。

 

悩んだ時は自然を感じましょう

 人間の世界とは無常なものです。次々と悩みが湧いてきて、心休まる時がなかなかありません。そのような時は、自然に目を向けてみましょう。あなたがどれだけ悩んでいても、自然は変わらずあなたを包み込み続けます。「明けない夜はない」という言葉もありますが、全員に平等に朝はやってくるのです。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

心に短歌を!

 

参考文献『戦国武将の歌』綿抜豊昭 笠間書院