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和歌・短歌を紹介します!

世の人は われをなにとも ゆはばいへ わがなすことは われのみぞしる

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短歌原文

世の人は われをなにとも ゆはばいへ わがなすことは われのみぞしる

坂本龍馬 『詠草二 和歌』

現代語訳

世の中の人は俺のことをどうとでも言いたけりゃ言え。俺のやることは俺にしかわからんだ。

坂本龍馬の一生

歴史上の人物で有名な坂本龍馬明治維新の功労者で若くして暗殺されたということは皆さんご存じかと思いますが、あらためてその人生を振りかえってみましょう!

 

天保6年(1835年)

土佐藩(現在の高知県)郷士の家に生まれる。

郷士→土佐の武士は上士と郷士に分けられてして明確な身分の差がありました。関ヶ原の合戦で勝利した徳川方の占領軍としてやってきた山内家の家臣達が上士。敗者側の長曽我部家の家臣達が郷士となりした。坂本家は藩内随一のお金持ちの商家で、その財力をもって郷士になったと言われております。 
■弘化3年(1846年)12歳
楠山塾で学ぶが退塾。できが悪すぎて退塾させられる。
■弘化5年/嘉永元年(1848年)14歳

日根野弁治の道場へ入門し小栗流和兵法を学ぶ。剣には才能があり、門内で頭角をあらわす。
嘉永6年(1853年)19歳
剣術修行のため江戸に出て、千葉定吉道場に入門。年齢的にも現代でいう大学入学のための上京。その後、24歳で北辰一刀流長刀兵法目録を伝授される。同年、黒船来航。
文久元年(1861年)27歳
土佐勤王党に加盟。
文久2年(1862年)28歳
長州で久坂玄瑞と会う、2か月後に土佐藩脱藩。当時は死罪にもなり得る重罪。
暗殺を試みて勝海舟に面会するが、そのまま弟子となる。
文久3年(1863年)29歳
勝海舟が幕府に依頼し創設した海軍塾の塾頭をつとめる。
■元治2年/慶応元年(1865年)31歳
薩摩藩の援助により、長崎で亀山社中(←日本初の株式会社と称される)を創設。

■慶応2年(1866年)32歳
龍馬の斡旋により、京都で桂と西郷、小松らが会談し、薩長同盟が結ばれる。
伏見寺田屋で幕吏に襲撃され負傷(寺田屋事件)。

負傷治療のために妻のお龍と共に鹿児島を旅行する。(←日本初の新婚旅行と言われる)
■慶応3年(1867年)33歳
亀山社中土佐藩外郭組織とし海援隊と改称。
後藤象二郎とともに船中八策(←幕府が天皇に政権を委譲した大政奉還」の基となったと言われる)を策定。
京都の近江屋で中岡慎太郎と共に刺客に襲撃され暗殺される近江屋事件)。
大政奉還王政復古の大号令

 

wikipedia 坂本龍馬より抜粋

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E9%A6%AC

 

 坂本龍馬の人生を振り返ると、実は28歳の脱藩から33歳に暗殺されるまでの

約5年間が後世でも有名な龍馬像なのです。薩長同盟亀山社中海援隊船中八策・・・すべてこの間です。短い間にたくさんの活躍し大政奉還を見ることなく、この世を去ってしまったのは、明治維新の為に神に遣わされたかのようです。人生とは長さではなく、何を為したかだと言われますが、龍馬の人生はまさにこれです。また、この活躍の為に、それまでの27年間があったと考えると、人はいつ活躍の舞台に引っ張りあげられるか分からないので、日々一生懸命生きなければいけませんね。とはいえ、弟のように龍馬にくっついていた陸奥宗光が後に外務大臣として活躍したことを考えると、龍馬ももし生きていれば・・・と想像してしまいます。

 さて、次にこの短歌と絡めて龍馬の人生をもう少し見てみましょう!

 

わがなすことはわれのみぞ知る!

  今回の短歌は正確にいつ、どういう状況で詠まれたか実は分かっていません。ただ、龍馬からお姉さんの乙女さん宛のもので、「湊川」「明石」などの地名が一緒に見られる為、神戸海軍塾の頃(文久三年 29歳頃)に詠まれたものと思われます。

 当時の龍馬は、土佐藩を脱藩しどのようになるかも分からない中、勝海舟と出会い、そして神戸海軍塾に参加することとなり、気持ちも非常に高揚していた頃ではないかと推察されます。先ほども書きましたが、脱藩するまでの龍馬は目立った志士としての活動をしていません。「自分は何をすべきか」しっくりくるものを掴めていなかったのではないでしょうか。それから土佐勤王等に参加し、長州で久坂玄瑞と出会い、ここで何かに火がつき脱藩。とはいえ、行く当てもなく、お世話になった江戸の千葉定吉道場に身を寄せ、ひょんなことから「勝海舟という外国かぶれを斬ろう」ということになるが、逆に勝の話に関心し弟子になり、遂に海軍塾に参加、塾頭となる。どうでしょう。あらためて振り返ってみると、龍馬が「自分は何をすべきか」をこの時に掴んだような気がしませんか。土佐藩にいることでは掴めない「何か」の為に脱藩した龍馬は、この海軍塾で「何か」の答えを見出したのではないでしょうか。これ以降、龍馬は船と関わって生きていきます。

 あらためて短歌を見てみましょう。

世の人はわれをなにともゆはばいへ

 脱藩したことにより、龍馬の周辺ではその生き方に対して批判的であったはずです。「家族に迷惑がかかる脱藩なんて」「役も持たない脱藩者が江戸で何ができると言うんだ」と。全く気にしていないとはいえ、耳に入ると嫌な言葉だったのでしょう。しかし、今はそれらの言葉を受け止め、真正面から堂々と言ってやる!「われをなにともゆはばいへ!」と。

わがなすことはわれのみぞしる

 世間のみなさんにはそりゃ分からないでしょう。なぜなら、自分がすることは自分だけが知っているから。と自分の行動・考えへの自信が溢れ出ております。これが龍馬の魅力ですね。他の志士と龍馬の少し違う部分は、藩を利用できなかったことです。桂小五郎高杉晋作久坂玄瑞らの長州も西郷隆盛大久保利通らの薩摩も藩として積極的に動いておりました。一方龍馬の土佐藩は、関ケ原以降に家康に土佐を与えられた山内家が藩主の為、藩としては佐幕派(幕府中心で政治を動かすべき)。その中で、藩を捨て身一つで活動した龍馬は、他の志士と少し違う境遇でした。それも藩を捨てているので、藩から追われる立場です。その中で信ずべきものは己自身の考えと行動だけだったのです。(もちろん、他にも脱藩した志士は当時たくさんいました。また龍馬は後に土佐藩と連携することも出てきます。)

 龍馬の有名な逸話に、ある旧友と会った時に「これからは長い刀でなく短刀の時代だ」と言い、次に会う時には「刀でなく拳銃だ」と言い、次に会った時には「拳銃でなくて万国公法(国際法)だよ」と言ったというものがあります。この逸話自体は作り話のようですが、龍馬の魅力を分かりやすくあらわしております。要は龍馬という人物は、自分の頭で考え自分が信ずるものにベットして行動できる人間だった。ということです。

 なぜ龍馬が人々を魅了するのか。それは・世間の意見に流されず自分の考えで行動したこと・藩というバックグランドがない中で活躍したこと。などが挙げられると思います。そのスタートが脱藩であり、海軍塾でした。私は脱藩までの龍馬がどこかモヤモヤを抱えていたのではないかな。と想像してしまいます。龍馬の中には一貫して「われのみぞしる」考えがあったと思います。しかし、それは抽象的なものであり、具体的に何をすればよいか分からない。だからこそモヤモヤしていたのではないかと。そのモヤモヤの中でも「われのみぞしる」を信じ続けた小さな行動と判断の積み重ねが、脱藩であったり、勝海舟と出会いすぐに弟子になるという判断であったりするわけです。そしてそのモヤモヤが晴れた喜びと自信の爆発がこの歌ではないかと考えております。

 みなさんも、自分の中の「われのみぞしる」ことを大切にして、日々の小さな判断と行動を積み重ねましょう!それが5年後、10年後、20年度、突然結実する日は必ずきます。その時、龍馬のこの歌をあらためて詠みましょう。「世の人は われをなにとも ゆはばいへ わがなすことは われのみぞしる」

 

心に短歌を!

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。