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身の上を 思へば悔し 罪とがの 一つ二つに あらぬ愚かさ

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短歌原文

身の上を 思へば悔し 罪とがの 一つ二つに あらぬ愚かさ

 

みのうえを おもへばくやし つみとがの ひとつふたつに あらむおろかさ

                       藤堂高虎『関原軍記大成』

悔し   :後悔される

とが(咎):過ち

 

現代語訳

自分の人生を思い返せば、後悔ばかりだ。罪や過ちが1つや2つではないことの愚かさよ。

 

戦場の高虎!

 この短歌を詠んだ人物は有名な戦国武将である藤堂高虎です。まずはどのような人物であったかみていきましょう。

 時は戦国時代。近江国(現在の滋賀県)の土豪の次男として高虎は生まれました。乱世に生まれ、身分の低かった高虎は、体が非常に大きかったこともあり戦場に自分の立身を賭けました。高虎が他の武将と少し違う部分は、その身一つで成り上がったということです。また、高虎は、後世の人達から不人気だと言われております。それは八度主君を変えたといわれるその薄情さ?にあり「変節漢」「走狗」と言われておりました。近江国の戦国武将である浅井長政から始まった彼のキャリアは、数人の主君を経て、豊臣秀長(秀吉の弟)で開花し、その後、徳川家康のもと盤石のものとなっていきます。これを薄情と捉えるか。いや、実力主義の時代に自らの能力が活き、そして評価してくれる主君を求めたことは決して薄情ではない。と現代の私達は思うのではないでしょうか。一社に仕え続けるか、複数社を渡り続けるか。複数社を渡り歩きながら、出世していった高虎は本当に能力のあった人物なのです。

 高虎の能力の高さをいくつか見ていきます。まず筆頭はその「武力」

「槍の高虎」「戦場の高虎」と呼ばれたようにとにかく個として強く、また戦も上手かったようです。戦に出るたびに武功を挙げ、立身出世していきました。その武力の源が体の大きさです。6尺2寸(約190㎝)だったと!当時の平均身長が160㎝弱なので、現代で考えると2mオーバーということです。その体は槍傷・弾傷だらけで、右手の薬指と小指がなく、左手の中指、左足の親指も爪がなく短かったとのことです。本当に我が身一つで成り上がった人物なのですね。

 次にあげられるのが「築城」の名手

三大築城名人の一人に数えられます。関わったお城をざっと挙げると二条城、江戸城大阪城伏見城宇和島城大洲城和歌山城今治城、津城、伊賀上野城郡山城などなど。

 もちろん「政治力」もあり。伊予今治領主、伊勢津藩領主に任じられ、配下からの信頼と上司(豊臣家、徳川家)からの信任も非常に厚かったと言われます。例えば家康は「死んだら自分は高虎と天海と一緒にいたい」という信頼ぶりで日光、上野東照宮には高虎も一緒に祀られているとのこと。まさに文武両道の人物です!

 とはいえ、若かりし頃は、結構粗い人物だったようです・・・。いくつかそのエピソードを紹介します。

・浅井氏に仕えていた時、勲功の言い争いで同僚を切り捨てて逃走。

・阿閉氏に仕えていた時、言うことを聞かなかった同僚を殺害し浪人になった。

・仕官先を探している間、無銭飲食をしていた。

などなど。主君を変えたというより、逃げざるをえなくなっていますしね。今回の短歌を詠んだ時にはこのようなことも頭に浮かんでいたのかもしれません。

 

高虎、世を捨て、短歌を詠む

 粗暴だった高虎が身を預けるに足る人物と出会います。それが豊臣秀吉の弟、秀長です。秀長自身も非常に能力の高い武将であり、高虎は秀長のもとでその能力を開花させます。しかしその秀長が亡くなり、それを継いだ秀保も若くして亡くなってしまいます。ここで高虎は出家のため、高野山に引きこもってしまいました。今回の短歌はこの高野山に引きこもっていた時に詠んだものです。39歳の時でした

 戦に明け暮れてきた高虎は、ここではじめて自分の人生をゆっくり考える機会を得たのかもしれません。さあ自分はどのような人生を歩んできたのか。あらためて棚卸をしていくと、脳裏に浮かぶのは、多くの人を殺めてきた「罪」「とが(咎)」「一つ二つにあらぬ」こと。そのきりのない無数の罪を行ってきた自分の「愚かさ」に高虎は「悔し」つまり後悔の念を抱いたのでした。立身出世の為とは言え、乱世を生き抜いてきた高虎は、その過程で多くの罪を背負っていたのです。率直すぎる歌ですね。特に高虎の思いが滲み出ていると感じるのは「罪とがの一つ二つにあらぬ愚かさ」というところです。罪とがの一つや二つであれば、もしかしたら誰もが心の内に秘めているのかもしれません。しかし、高虎は「一つ二つにあらぬ」たくさんの罪とがをしてきたのです。その無数の罪とがを後悔したのでした。

 しかし、世の中は高虎を放っておきません。その能力を惜しんだ秀吉にたった2カ月で呼び戻され、朝鮮出兵に参加し武功を挙げ、また秀吉没後は家康のもと関ケ原の合戦、大阪の陣に参加し、ここでも武功を挙げ、遂には大名になるのでした。

 

今日限りの命

 高虎が子孫に残した『高虎遺書録二百ヶ条』の第一条には次の有名な言葉があります。「寝屋を出るより其日を死番と心得るべし。かように覚悟極まるゆへの物に動することなし。これ本意となすべし」(朝、寝室から出る時には今日は自分が死ぬ番だと思え。このように覚悟しておけば物事に動ずることはない。こうして生きなさい。)命の駆け引きの中に生きた高虎の見えていた世界は、今の我々には到底見ることのできない景色であったと思います。とはいえ、今なにかしらの悩みを抱えていたとしても「其日を死番と心得るべし」の覚悟で生きれば、その悩みも乗り越えていけるかもしれません。なぜなら高虎はそうして死線を乗り越えてきたのです。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

心に短歌を!