おいどんブログ

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この世をば 我が世とぞ 思ふ望月の 欠けたることも なしと思へば

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短歌原文

この世をば 我が世とぞ 思ふ望月の 欠けたることも なしと思へば

 

このよをば  わがよとぞおもふ もちづきの かけたることも なしとおもへば

藤原道真

 

をば:「を」が受ける言葉を強調。この短歌では「この世」を強調。

ぞ:強調の意。

望月:満月

 

現代語訳

この世界は自分のためにあるようなものだなあ。満月のように欠けたところがない。

 

平安時代の「権力の握り方」

 藤原道長と言えば、平安時代に「摂関政治」で栄華を極めた人物!歴史教科書に必ず登場する人物ですね。966年~1028年が道長の生きた時代なので、ちょうど平安時代中期に活躍した人物です。(平安時代は794年~1185年)

 では、どうやって栄華を極めたのか?まずは、平安時代の権力の握り方を簡単に説明します!平安時代は貴族が政治運営をする時代。その中心は「天皇」ですね。ただ天皇になることは、天皇家の血が流れていないと絶対に無理。となるといかに天皇に近づくかが権力を握る為に必要なこととなります。その一番わかりやすい方法は「天皇の親戚になる」こと。もっというと「天皇のお父さんになる」ことです。ではどうやって「天皇のお父さんになる」か。それは自分の娘を天皇の后にし、その二人から子供が産まれると次期天皇(皇太子)のお父さんという立場になれるのです(天皇外戚になるということ)。そして自分自身は摂政(幼帝、女帝に代わって政治を行う)・関白(天皇を補佐して政治を行う)という立場として権力を握る。これが平安時代の権力の握り方です。

道長の成り上がりストーリー

 さて今度は道長の栄華を極めるまでを説明します。道長の父(兼家)は摂政となった人物でした。ただ、道長は五男ということで出世の望み薄だったのですが・・・権力者になる者は運が強い!兄たちは伝染病で相次いで亡くなり、兄の嫡男との権力争いに勝った道長は一気に出世ダービーの先頭に立つのでした。

 ここから道長はぐいぐい攻めます。
①長女彰子を一条天皇(66代)の皇后とする。一条天皇には既に皇后がいたが、二人の皇后(一帝二后)という先例のない方法で自分の娘も后としてしまう。
②次女妍子を三条天皇(67代)の皇后とする。三条天皇道長と確執があったが、道長のごり押しに最後は屈することとなる。
③四女威子を後一条天皇(68代、一条天皇と彰子の間に生まれ子)の皇后とする。

このように三代に渡って自分の娘から皇后を出したことを一家三后といい、これぞ栄華の極みでした。 ※三后・・・太皇太后(先々帝の皇后)、皇太后(先帝の皇后)、皇后

 そしてこの③威子が皇后となる立后の儀の日の祝宴の場で・・・ついに、今回の歌が放たれるのでした!

 

「この世をば・・・」をどんなノリで詠んだのか!?

 1018年(寛仁二年)10月16日。娘の威子が後一条天皇の皇后と正式になった祝宴の日。道長の邸宅には多くの人が集まりました。さあ、ここからは実際この会に出席した藤原実資さんの日記『小右記』を読んでみましょう。

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●太閤(たいこう)下官(げかん)を招(まね)き呼(よび)て云(い)わく「哥(和歌) 讀(よ)まんと欲(ほっ)す。必(かなら)ず和(わ)す。」

→道真は私(実資)を呼んで言った「ちょっと和歌を詠みたいんだが。ちゃんと返してくれるか?」

●答(こたえ)て云(いわ)く、「なんぞ、和(わ)し奉(たてまつ)らざ らんや」

→私は言った「もちろん、和歌で返しますよ。」

●「誇(ほこ)りたる哥(うた)になむ有(あ)る。但(ただ)し宿講(しゅくこう)にあらず」

→「ちなみに自慢げな歌になる。でも用意していた歌ではないぞ。今思いついたのだぞ。」

●「この世をば 我が世とぞ 思ふ望月の 欠けたることも なしと思へば」

→「この世界は自分のためにあるようなものだなあ。満月のように欠けたところがない。」

●余(よ)申(もう)して云(いわ)く「御歌(ぎょか)優美(ゆうび)なり。 酬(む)くひ答(こた)えるに方(ほう)なし。只 (ただ)滿座(まんざ)、此(こ)の御哥(ぎょか)を誦(じゅ)すべし。

→私は言った「これは優美な歌です!こ、、応える歌がないです!ここにいるみんなでこの和歌を唱和しましょう。」

●元稹(げんしん)の菊(きく)の詩(うた) 白居易(はくきょい)に和(わ)せず。 深(ふか)く賞 歎(しょうたん)して、終 日(しゅうじつ)吟詠(ぎんえい)す。諸 卿 (しょきょう)、余(よ)の言(げん)に響 応(きょうおう)し、度數(すうど)吟詠(ぎんえい)す。

→唐の詩人元稹の菊の詩があまりにも素晴らしく、同じく詩人の白居易は詩で返せず、深く感動し、終日詠んだ。という話があるが同じように、その場にいた人たちも私の言葉に納得し、数回「この世をば・・・」を唱和した。

●太閤(たいこう)和解(わかい)し、殊(こと)に和(わ)を責(せ)めず。夜(よる)深(ふか)まり、月(つき)明(あか)るし。扶醉(すいよ)、各々(おのおの)退 出(たいしゅつ)す。

→道真は私が歌で返さなかったことを特別責めたりしなかった。(ホッ)夜も深まり、月は明るい。酔ってきたので、それぞれ解散していった。

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 お酒を飲んで、気分もよかったのでしょう。道真はふと今回の歌を詠みました。歌は心で想っていることをストレートに詠むから伝わるのですが、これぞまさにドストレート。想いが私たちの心にまっすぐ刺さります。だからこそ1000年を経てもこの歌は残ったのでした。

 道真としては、まさか自分が宴席で詠んだ即興の歌が1000年先の我々にも詠まれるなんて思いもしなかったかと思います。めちゃくちゃ気分のいい夜だったんだろうな~と想像してしまいます。

 

とはいえ栄枯盛衰がこの世のルール

 道真は自分の権力を息子頼道に譲り、62歳で病により亡くなりました。その頼道は10円玉に描かれている「平等院鳳凰堂」を建立するなど同じく栄華を極めました。ただ、父親ほどの運がなかった。皇后となった娘たちが男子をなかなか生まなかったことや、外国の侵入、国内の戦乱により権力は安定せず、極めつけに疎遠だった後三条天皇が即位。自分の娘を皇后にして男子を産ませて天皇にして権力を持つ。という手法は力を失い、院政(引退した天皇が権力を握る)、そして武士の時代へと移り変わっていくのでした。

 栄華とは長く続かないのがこの世のルールですね。「欠けたること」を少しでも埋めていくのが人生なのかなあ。なんて思ったりします。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

心に短歌を!