おいどんブログ

和歌・短歌を紹介します!

物いはぬ 四方の獣 すらだにも あはれなるかなや 親の子を思ふ

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【短歌原文】

物いはぬ 四方の獣 すらだにも あはれなるかなや 親の子を思ふ

ものいはぬ よものけだもの すらだにも あはれなるかなや おやのこをおもふ

『金塊和歌集』 源 実朝

四方の獣 : この世の動物
すらだにも: ~でさえも 副助詞「すら」+副助詞「だに」+副助詞「も」
あはれなる: しみじみとした思い、趣深い
かなや  : 感動、詠嘆をあらわす 接続助詞 詠嘆「かな」+係助詞「や」

【現代語訳】

話すことのできない、この世のどんな獣でも、親が子を思う気持ちがあることって心動かされるよなあ

【最後の源氏将軍】

源実朝は、頼朝の次男であり鎌倉幕府三代目将軍です。そして、20代で暗殺された源氏最後の将軍です。
詳しく人生を知りたい方は、以前のブログをお読みください!
oidon5.hatenablog.com
oidon5.hatenablog.com


人生を簡単に要約すると・・・
父である源頼朝は日本初の武士による政権である鎌倉幕府を創設。
その父の死後、兄の源頼家が将軍を継ぐも、
武士たちによる権力闘争の中、頼家は追放・暗殺されてしまいます。
鎌倉幕府は将軍が絶対的な権力を有した政治組織ではなく、その権力基盤は武士たちに支えられてました。
例えるなら、鎌倉幕府は設立して間もないベンチャーであり、
創業メンバーの力関係は微妙で、会社組織としてのガバナンスもまだ確立できていない状態だったのです。

そのような中、頼朝の次男であった実朝は12歳で将軍となります。
とはいえ政務に関われる年齢ではなく、北条氏を中心とした権力闘争は続いておりました。
時には自分が命を狙われることもありながらも、実朝は成長するにつれて政治にも関与していきます。
特に京都で絶大な権力を有していた後鳥羽上皇とは良好な関係を保ち、
武士として右大臣にまでのぼりつめました。
(このことや短歌が有名であることからも、
実朝は武士の棟梁という自覚が薄く、貴族文化に傾倒した人物と描かれます。
しかし、当時の朝廷はまだ絶大な権力を持っており、
どの武士も朝廷からの官位を欲していた時代であり、
そう簡単に論じられることでもないのです)
その右大臣就任の儀式を鶴岡八幡宮で執り行っていた最中、
兄頼家の子、公暁に「父の仇!」と暗殺されてしまいます。

これ以降、将軍は京都から呼び寄せる名ばかり将軍となり、権力は北条家が一手に握っていきます。
最後の源氏将軍。それが源実朝なのです。

実朝の人生は以上の通りなのですが、もう一つ忘れてはならない側面が、歌人としての実朝です。
その歌には傑作が多く歌集として『金塊和歌集』というものがあります。
あの明治の短歌復興の立役者であり、過去の短歌に容赦ない批評を繰り広げた正岡子規
歌よみに与ふる書』の冒頭からべた褒めしたのがなんと実朝なのです。

その数奇な運命から詠まれた歌には、率直で人の心を打つものが多いのです。

短歌を味わう

今回の歌は、実朝がある動物の行動を見た時の思いを歌にしたものです。
何の動物だったかは伝わっておりませんが、
親が子供を慈しむ行動を見て、実朝は「あはれなるかな」と感動するのです。
その感動は、倒置法字余りにもあらわれております。

●倒置法
「物いはぬ 四方の獣 すらだにも 親の子を思ふ あはれなるかなや

「物いはぬ 四方の獣 すらだにも あはれなるかなや 親の子を思ふ

上が通常の文章。下が倒置法。
実朝は「あはれなるかなや」と先に感動を述べ、
その後に、何に感動したかというと「親の子を思ふ」に。
という形に歌を詠みました。
これにより、
「あの物も言わない動物たちにも・・・ああ心を動かされる・・・親が子を思うなんて」
といかに感動したかが伝わります。

●字余り
あはれなるかなや→8文字
親の子を思ふ→8文字
どちらも1文字多いです。

例えば「あはれなるかな」と詠んでもよいところを
あえて「あはれなるかなや」と字余りにしております。

実朝がいかに感じたことをストレートに詠んだか。
そして、その感じたことがいかに深いものだったか。
それが7文字におさまらず、字余りという形で表現されています。
非常に率直な内容であり、かつ形式を少し逸脱したこの歌は、
実朝の声がそのまま漏れ出たような感じすらします。

それにしても、
動物の行動から親心を感じとってしまうこの感性がすごいです。
これはもう人間性の領域で、真似しようと思って真似できるものではありません。
何せ心からそう感じなければいけないのですから。
そして、飾り気のない率直な表現で感動を歌にしてしまう。
誰もが実朝の見た景色が思い浮かび、そして同じように感動を共有できる。
これが実朝が歌人として後世まで名を残す素晴らしいポイントなのです。

歌はその人物の真心があらわれます。
本当に心から思っていないことを歌にできないのです。

鎌倉幕府三代目将軍 源実朝
この人物は慈しみ、優しさを有した人物であったことが、
その歌から窺い知ることができますね。

心に短歌を!
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

身の上を 思へば悔し 罪とがの 一つ二つに あらぬ愚かさ

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短歌原文

身の上を 思へば悔し 罪とがの 一つ二つに あらぬ愚かさ

 

みのうえを おもへばくやし つみとがの ひとつふたつに あらむおろかさ

                       藤堂高虎『関原軍記大成』

悔し   :後悔される

とが(咎):過ち

 

現代語訳

自分の人生を思い返せば、後悔ばかりだ。罪や過ちが1つや2つではないことの愚かさよ。

 

戦場の高虎!

 この短歌を詠んだ人物は有名な戦国武将である藤堂高虎です。まずはどのような人物であったかみていきましょう。

 時は戦国時代。近江国(現在の滋賀県)の土豪の次男として高虎は生まれました。乱世に生まれ、身分の低かった高虎は、体が非常に大きかったこともあり戦場に自分の立身を賭けました。高虎が他の武将と少し違う部分は、その身一つで成り上がったということです。また、高虎は、後世の人達から不人気だと言われております。それは八度主君を変えたといわれるその薄情さ?にあり「変節漢」「走狗」と言われておりました。近江国の戦国武将である浅井長政から始まった彼のキャリアは、数人の主君を経て、豊臣秀長(秀吉の弟)で開花し、その後、徳川家康のもと盤石のものとなっていきます。これを薄情と捉えるか。いや、実力主義の時代に自らの能力が活き、そして評価してくれる主君を求めたことは決して薄情ではない。と現代の私達は思うのではないでしょうか。一社に仕え続けるか、複数社を渡り続けるか。複数社を渡り歩きながら、出世していった高虎は本当に能力のあった人物なのです。

 高虎の能力の高さをいくつか見ていきます。まず筆頭はその「武力」

「槍の高虎」「戦場の高虎」と呼ばれたようにとにかく個として強く、また戦も上手かったようです。戦に出るたびに武功を挙げ、立身出世していきました。その武力の源が体の大きさです。6尺2寸(約190㎝)だったと!当時の平均身長が160㎝弱なので、現代で考えると2mオーバーということです。その体は槍傷・弾傷だらけで、右手の薬指と小指がなく、左手の中指、左足の親指も爪がなく短かったとのことです。本当に我が身一つで成り上がった人物なのですね。

 次にあげられるのが「築城」の名手

三大築城名人の一人に数えられます。関わったお城をざっと挙げると二条城、江戸城大阪城伏見城宇和島城大洲城和歌山城今治城、津城、伊賀上野城郡山城などなど。

 もちろん「政治力」もあり。伊予今治領主、伊勢津藩領主に任じられ、配下からの信頼と上司(豊臣家、徳川家)からの信任も非常に厚かったと言われます。例えば家康は「死んだら自分は高虎と天海と一緒にいたい」という信頼ぶりで日光、上野東照宮には高虎も一緒に祀られているとのこと。まさに文武両道の人物です!

 とはいえ、若かりし頃は、結構粗い人物だったようです・・・。いくつかそのエピソードを紹介します。

・浅井氏に仕えていた時、勲功の言い争いで同僚を切り捨てて逃走。

・阿閉氏に仕えていた時、言うことを聞かなかった同僚を殺害し浪人になった。

・仕官先を探している間、無銭飲食をしていた。

などなど。主君を変えたというより、逃げざるをえなくなっていますしね。今回の短歌を詠んだ時にはこのようなことも頭に浮かんでいたのかもしれません。

 

高虎、世を捨て、短歌を詠む

 粗暴だった高虎が身を預けるに足る人物と出会います。それが豊臣秀吉の弟、秀長です。秀長自身も非常に能力の高い武将であり、高虎は秀長のもとでその能力を開花させます。しかしその秀長が亡くなり、それを継いだ秀保も若くして亡くなってしまいます。ここで高虎は出家のため、高野山に引きこもってしまいました。今回の短歌はこの高野山に引きこもっていた時に詠んだものです。39歳の時でした

 戦に明け暮れてきた高虎は、ここではじめて自分の人生をゆっくり考える機会を得たのかもしれません。さあ自分はどのような人生を歩んできたのか。あらためて棚卸をしていくと、脳裏に浮かぶのは、多くの人を殺めてきた「罪」「とが(咎)」「一つ二つにあらぬ」こと。そのきりのない無数の罪を行ってきた自分の「愚かさ」に高虎は「悔し」つまり後悔の念を抱いたのでした。立身出世の為とは言え、乱世を生き抜いてきた高虎は、その過程で多くの罪を背負っていたのです。率直すぎる歌ですね。特に高虎の思いが滲み出ていると感じるのは「罪とがの一つ二つにあらぬ愚かさ」というところです。罪とがの一つや二つであれば、もしかしたら誰もが心の内に秘めているのかもしれません。しかし、高虎は「一つ二つにあらぬ」たくさんの罪とがをしてきたのです。その無数の罪とがを後悔したのでした。

 しかし、世の中は高虎を放っておきません。その能力を惜しんだ秀吉にたった2カ月で呼び戻され、朝鮮出兵に参加し武功を挙げ、また秀吉没後は家康のもと関ケ原の合戦、大阪の陣に参加し、ここでも武功を挙げ、遂には大名になるのでした。

 

今日限りの命

 高虎が子孫に残した『高虎遺書録二百ヶ条』の第一条には次の有名な言葉があります。「寝屋を出るより其日を死番と心得るべし。かように覚悟極まるゆへの物に動することなし。これ本意となすべし」(朝、寝室から出る時には今日は自分が死ぬ番だと思え。このように覚悟しておけば物事に動ずることはない。こうして生きなさい。)命の駆け引きの中に生きた高虎の見えていた世界は、今の我々には到底見ることのできない景色であったと思います。とはいえ、今なにかしらの悩みを抱えていたとしても「其日を死番と心得るべし」の覚悟で生きれば、その悩みも乗り越えていけるかもしれません。なぜなら高虎はそうして死線を乗り越えてきたのです。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

心に短歌を!

 

 

 

 

 

ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは

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短歌原文

ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは

 

ちはやぶる かみよもきかず たつたがわ からくれないに みずくくるとは

                在原業平 『古今和歌集』秋・百人一首

 

ちはやぶる :「神」にかかる枕詞。勢いが強い。荒々しい。

神代    :神々の時代。神話の時代。

竜田川   :奈良県を流れる一級河川

からくれなゐ:唐紅・韓紅(韓の国から渡来した紅)深い鮮やかな紅色

くくる   :くくり染め(絞り染め)にする。

現代語訳

色々と不思議なことのあった神の時代でも聞いたことがない・・・。竜田川が水をこんなに(紅葉で)鮮やかな紅色に絞り染めにしているとは!

 

漫画・映画で大人気の「ちはやふる

 今回は競技かるたを題材にした漫画「ちはやふる(後に映画化)で有名な短歌です。漫画の作者である末次由紀さんによると、作品タイトルは小倉百人一首にも撰ばれている今回の短歌をもととしており、「勢いの強いさまというちはやふるの本当の意味を主人公が知り、表現していく物語なのだと思う」と発言されております。ちなみに主人公は綾瀬千早(映画では広瀬すずが演じた)となります。 ―Wikipedia ちはやふるよりー

 では、この短歌の詠まれた背景をみていきましょう!

 

モテ要素たっぷりの在原業平

 在原業平(ありわらのなりひら)は、平安時代初期~前期(825~880年)の貴族でした。平城天皇の孫で、血筋がとても良い身分であり、平安時代に編纂された『日本三大実録』によると「体貌閑麗、放縦不拘、略無才覚、善作倭歌」と評されています。つまり「見た目はかっこよく、物事にとらわれない奔放さがあり、頭はあんまりよくないけど、いい歌を作る」人だったということです。なんかめちゃくちゃモテそうな人ですよね。実際めちゃくちゃモテたようです。ちなみに、六歌仙三十六歌仙の1人に数えられている歌人であり、平安時代の恋愛小説である『伊勢物語』のモデルではないかと言われております。

竜田川がこんなことに!その驚きの結末は・・・

 さて、それでは短歌を味わっていきましょう。まず、この短歌は倒置法&二句切れを使っています。「竜田川 からくれなゐに 水くくるとは ちはやぶる 神代もきかず」が元々の文章の流れですね。それを「ちはやぶる 神代もきかず」と最初に持ってくる(倒置法)ことで、驚きを強調してあらわしております。また、「ちはやぶる 神代もきかず」で一旦文書が切れております(二句切れ)。 「神代でも聞いたことがない!!!」という強調がより際立つ表現ですね。次に、擬人化も使っております。「竜田川さん」が「からくれなゐに 水くくるとは(水をこんなに紅葉で鮮やかな紅色に絞り染めにしているとは)」という部分ですね。つまり、竜田川絞り染めをしているという擬人化です。確かに、川が絞り染めをしているなんて、神の時代にも聞いたことがないことですね。このように倒置法や擬人化を使って、在原業平竜田川が紅葉で真っ赤に染まっている様への感動をあらわしているのです。

 これで終わりにしたいところなのですが、続きがあります。この作品は『古今和歌集』におさめられており、この短歌の説明文が次のように書かれております。「二条の后(きさき)の春宮の御息所(みやすどころ)と申しける時に、御屏風に竜田河にもみぢ流れたるかたをかたりけるを題にてよめる」と。訳すと「二条の后=藤原高子が春宮の御息所(皇太子の御母)と呼ばれていた時に、屏風に描かれた竜田川にもみじが流れる様子を題に歌を詠んだ」 ということは・・・実際に竜田川が紅葉で真っ赤に染まっている様子を見て詠んだのではなく、竜田川が紅葉で真っ赤に染まっている屏風に描かれた絵を見て詠んだということです。さすが「善作倭歌」の在原業平。屏風の絵からも、情景が浮かぶような。そして感動が伝わる歌を作るとは・・・。

 

心に短歌を!

最期まで読んで頂き、ありがとうございます。

 

夏の夜は まだ宵ながら 明ぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ

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短歌原文

夏の夜は まだ宵ながら 明ぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ

 

なつのよは まだよひながら あけぬるを くものいづこに つきやどるらむ

          清原深養父(きよはらのふかやふ)『古今和歌集』『百人一首

 

宵:夜になったすぐの頃

明ぬるを:明けるが 「ぬる」完了の助動詞、「を」逆説の接続助詞 ~だが

いづこ:どこ

らむ:~だろう 原因推量の助動詞 

 

現代語訳

夏の夜は、夜になったと思ったらすぐ明るくなるけれど、月は隠れる暇もなく、どこかの雲で休んでいるのではないだろうか。

 

詠み人は誰?

 今回の短歌は、清原深養父(きよはらのふかやふ)という平安時代中期の貴族が詠んだ歌です。 この人物は清原元輔(2番目の勅撰和歌集後撰和歌集』の撰者)の祖父であり、『枕草子』で有名な清少納言の曾祖父でもあります。本人自身、日本初の勅撰和歌集(国が認めた「いい和歌」を集めたもの)『古今和歌集』に17首、。小倉百人一首にも採用されるなど、文学の才能が溢れる人物でした。中古三十六歌仙(和歌の名人36人)の一人としても撰ばれております。ちなみに、今回の短歌は『古今和歌集』、百人一首にも撰ばれている歌です。

 この短歌には2つのおもしろい表現があります!それでは見ていきましょう。

①オーバーすぎる表現

 この短歌のおもしろい表現の1つ目。それはオーバーすぎる表現で夏の夜の短さを表現しているところです。その部分が「まだ宵ながら明ぬるを」という部分です。この「宵」とはいつか?「宵」は日が暮れて間もなく。を意味しています。つまり、日が暮れてすぐに明るくなる。と表現しているんです。いくら夜が短い夏とはいえ、それはオーバーすぎませんか?仮に20時に宵をむかえるとして、22時に明るくなるみたいなことです。「いやいやオーバーすぎでしょ」という表現を使って、夏の夜の短さを印象的に強調しているのです。

②空想してみた表現

 この短歌のおもしろい表現の2つ目。それは空想表現です。「雲のいづこに 月宿るらむ」と清原深養父は空想を膨らませます。月は東から昇り、西に沈みます。しかし、あまりにも早く夜が明けるために、西に沈むことができずにどこかの雲に宿っているのだろうと想像するのです。「えーっ、もう明けるの?やばい!どこかに宿らないと」と焦る月の姿をイメージしてしまいます。清原深養父もそんなことをイメージしていたのかなあとどこか心が通う気持ちがします。

あらためて短歌を味わう

夏の夜は まだ宵ながら 明ぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ

 あらため声に出して詠んでみましょう。すると古代の歌が想像力を掻き立てられる物語として立ち上がってこないでしょうか。

 夏の夜が明ける時に、暑さでもし目覚めたら、急いで雲に宿ろうとするお月さまをイメージしてみましょう。

 

心に短歌を!最後まで詠んでいただき、ありがとうございます。 

 

世の人は われをなにとも ゆはばいへ わがなすことは われのみぞしる

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短歌原文

世の人は われをなにとも ゆはばいへ わがなすことは われのみぞしる

坂本龍馬 『詠草二 和歌』

現代語訳

世の中の人は俺のことをどうとでも言いたけりゃ言え。俺のやることは俺にしかわからんだ。

坂本龍馬の一生

歴史上の人物で有名な坂本龍馬明治維新の功労者で若くして暗殺されたということは皆さんご存じかと思いますが、あらためてその人生を振りかえってみましょう!

 

天保6年(1835年)

土佐藩(現在の高知県)郷士の家に生まれる。

郷士→土佐の武士は上士と郷士に分けられてして明確な身分の差がありました。関ヶ原の合戦で勝利した徳川方の占領軍としてやってきた山内家の家臣達が上士。敗者側の長曽我部家の家臣達が郷士となりした。坂本家は藩内随一のお金持ちの商家で、その財力をもって郷士になったと言われております。 
■弘化3年(1846年)12歳
楠山塾で学ぶが退塾。できが悪すぎて退塾させられる。
■弘化5年/嘉永元年(1848年)14歳

日根野弁治の道場へ入門し小栗流和兵法を学ぶ。剣には才能があり、門内で頭角をあらわす。
嘉永6年(1853年)19歳
剣術修行のため江戸に出て、千葉定吉道場に入門。年齢的にも現代でいう大学入学のための上京。その後、24歳で北辰一刀流長刀兵法目録を伝授される。同年、黒船来航。
文久元年(1861年)27歳
土佐勤王党に加盟。
文久2年(1862年)28歳
長州で久坂玄瑞と会う、2か月後に土佐藩脱藩。当時は死罪にもなり得る重罪。
暗殺を試みて勝海舟に面会するが、そのまま弟子となる。
文久3年(1863年)29歳
勝海舟が幕府に依頼し創設した海軍塾の塾頭をつとめる。
■元治2年/慶応元年(1865年)31歳
薩摩藩の援助により、長崎で亀山社中(←日本初の株式会社と称される)を創設。

■慶応2年(1866年)32歳
龍馬の斡旋により、京都で桂と西郷、小松らが会談し、薩長同盟が結ばれる。
伏見寺田屋で幕吏に襲撃され負傷(寺田屋事件)。

負傷治療のために妻のお龍と共に鹿児島を旅行する。(←日本初の新婚旅行と言われる)
■慶応3年(1867年)33歳
亀山社中土佐藩外郭組織とし海援隊と改称。
後藤象二郎とともに船中八策(←幕府が天皇に政権を委譲した大政奉還」の基となったと言われる)を策定。
京都の近江屋で中岡慎太郎と共に刺客に襲撃され暗殺される近江屋事件)。
大政奉還王政復古の大号令

 

wikipedia 坂本龍馬より抜粋

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E9%A6%AC

 

 坂本龍馬の人生を振り返ると、実は28歳の脱藩から33歳に暗殺されるまでの

約5年間が後世でも有名な龍馬像なのです。薩長同盟亀山社中海援隊船中八策・・・すべてこの間です。短い間にたくさんの活躍し大政奉還を見ることなく、この世を去ってしまったのは、明治維新の為に神に遣わされたかのようです。人生とは長さではなく、何を為したかだと言われますが、龍馬の人生はまさにこれです。また、この活躍の為に、それまでの27年間があったと考えると、人はいつ活躍の舞台に引っ張りあげられるか分からないので、日々一生懸命生きなければいけませんね。とはいえ、弟のように龍馬にくっついていた陸奥宗光が後に外務大臣として活躍したことを考えると、龍馬ももし生きていれば・・・と想像してしまいます。

 さて、次にこの短歌と絡めて龍馬の人生をもう少し見てみましょう!

 

わがなすことはわれのみぞ知る!

  今回の短歌は正確にいつ、どういう状況で詠まれたか実は分かっていません。ただ、龍馬からお姉さんの乙女さん宛のもので、「湊川」「明石」などの地名が一緒に見られる為、神戸海軍塾の頃(文久三年 29歳頃)に詠まれたものと思われます。

 当時の龍馬は、土佐藩を脱藩しどのようになるかも分からない中、勝海舟と出会い、そして神戸海軍塾に参加することとなり、気持ちも非常に高揚していた頃ではないかと推察されます。先ほども書きましたが、脱藩するまでの龍馬は目立った志士としての活動をしていません。「自分は何をすべきか」しっくりくるものを掴めていなかったのではないでしょうか。それから土佐勤王等に参加し、長州で久坂玄瑞と出会い、ここで何かに火がつき脱藩。とはいえ、行く当てもなく、お世話になった江戸の千葉定吉道場に身を寄せ、ひょんなことから「勝海舟という外国かぶれを斬ろう」ということになるが、逆に勝の話に関心し弟子になり、遂に海軍塾に参加、塾頭となる。どうでしょう。あらためて振り返ってみると、龍馬が「自分は何をすべきか」をこの時に掴んだような気がしませんか。土佐藩にいることでは掴めない「何か」の為に脱藩した龍馬は、この海軍塾で「何か」の答えを見出したのではないでしょうか。これ以降、龍馬は船と関わって生きていきます。

 あらためて短歌を見てみましょう。

世の人はわれをなにともゆはばいへ

 脱藩したことにより、龍馬の周辺ではその生き方に対して批判的であったはずです。「家族に迷惑がかかる脱藩なんて」「役も持たない脱藩者が江戸で何ができると言うんだ」と。全く気にしていないとはいえ、耳に入ると嫌な言葉だったのでしょう。しかし、今はそれらの言葉を受け止め、真正面から堂々と言ってやる!「われをなにともゆはばいへ!」と。

わがなすことはわれのみぞしる

 世間のみなさんにはそりゃ分からないでしょう。なぜなら、自分がすることは自分だけが知っているから。と自分の行動・考えへの自信が溢れ出ております。これが龍馬の魅力ですね。他の志士と龍馬の少し違う部分は、藩を利用できなかったことです。桂小五郎高杉晋作久坂玄瑞らの長州も西郷隆盛大久保利通らの薩摩も藩として積極的に動いておりました。一方龍馬の土佐藩は、関ケ原以降に家康に土佐を与えられた山内家が藩主の為、藩としては佐幕派(幕府中心で政治を動かすべき)。その中で、藩を捨て身一つで活動した龍馬は、他の志士と少し違う境遇でした。それも藩を捨てているので、藩から追われる立場です。その中で信ずべきものは己自身の考えと行動だけだったのです。(もちろん、他にも脱藩した志士は当時たくさんいました。また龍馬は後に土佐藩と連携することも出てきます。)

 龍馬の有名な逸話に、ある旧友と会った時に「これからは長い刀でなく短刀の時代だ」と言い、次に会う時には「刀でなく拳銃だ」と言い、次に会った時には「拳銃でなくて万国公法(国際法)だよ」と言ったというものがあります。この逸話自体は作り話のようですが、龍馬の魅力を分かりやすくあらわしております。要は龍馬という人物は、自分の頭で考え自分が信ずるものにベットして行動できる人間だった。ということです。

 なぜ龍馬が人々を魅了するのか。それは・世間の意見に流されず自分の考えで行動したこと・藩というバックグランドがない中で活躍したこと。などが挙げられると思います。そのスタートが脱藩であり、海軍塾でした。私は脱藩までの龍馬がどこかモヤモヤを抱えていたのではないかな。と想像してしまいます。龍馬の中には一貫して「われのみぞしる」考えがあったと思います。しかし、それは抽象的なものであり、具体的に何をすればよいか分からない。だからこそモヤモヤしていたのではないかと。そのモヤモヤの中でも「われのみぞしる」を信じ続けた小さな行動と判断の積み重ねが、脱藩であったり、勝海舟と出会いすぐに弟子になるという判断であったりするわけです。そしてそのモヤモヤが晴れた喜びと自信の爆発がこの歌ではないかと考えております。

 みなさんも、自分の中の「われのみぞしる」ことを大切にして、日々の小さな判断と行動を積み重ねましょう!それが5年後、10年後、20年度、突然結実する日は必ずきます。その時、龍馬のこの歌をあらためて詠みましょう。「世の人は われをなにとも ゆはばいへ わがなすことは われのみぞしる」

 

心に短歌を!

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

 

何事も かはりはてたる 世の中を 知らでや雪の 白く降るらむ

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短歌原文

何事も かはりはてたる 世の中を 知らでや雪の 白く降るらむ

なにごとも かはりはてたる よのなかを しらでやゆきの しろくふるらむ

太閤記佐々成政

 

や:疑問の意味

らむ:推量の助動詞 

や+らむ:

現代語訳

全部変わってしまった世の中を知らないのだろうか・・・雪は(去年と変わらずに)白く降っているなあ。

 

時代背景「小牧・長久手の戦い

 時は天正十二年(1584)3月。本能寺の変による織田信長の亡き後、羽柴(豊臣)秀吉が勢力拡大を続けていました。その勢いに待ったをかけたのが、信長の盟友であった徳川家康でした。織田信長の次男である信勝と秀吉の対立が深まる中、信勝は家康と組み、羽柴秀吉VS織田信勝徳川家康 連合軍の戦い小牧・長久手の戦い)が起こりました。「織田家を奪った秀吉を討伐せよ!」という大義名分のもと、北陸の佐々成正←今回の歌を詠んだ人物、四国の長曾我部元親、関東の北条氏政紀州(今の和歌山)の根来衆雑賀衆らも各地で反秀吉包囲網に加わりました。

 しかし、多くの武将は秀吉側につき、結果、小牧・長久手の戦いでの兵数を比較すると、信勝・家康連合軍 1万5千~3万。一方の秀吉軍が7万~10万だったと言われております。(諸説あり。包囲網の兵数は含まず。)

 この小牧・長久手の戦いで先に動きを見せたのは秀吉側でした。池田恒興森長可といった信長譜代の家臣が別動隊となり、空白地となっていた家康の本拠地三河を襲って挟み撃ちにしようとしました。しかし、家康はその動きを察知し、別動隊に猛攻を加え、恒興、長可両名とも討ち取ってしまいます。これにより、両軍は膠着状態となりました。

 「さすがに信長の盟友として数々の戦に参戦してきた家康は手ごわい。それならば政治で勝つぞ」ということで、秀吉は織田信勝を狙い打ちし、なんと秀吉と信勝の間で和睦を成立させてしまいます。これで「織田家を奪った秀吉を討伐せよ」という反秀吉側の大義名分は失われてしまいました。家康をはじめとする反秀吉側は「え~~~っ」ということに。家康もこりゃだめだと、秀吉と和睦を結ぶことになり、約9カ月間の小牧・長久手の戦いは終わりました。

 しかし!この状況に納得がいっていない人物がいました・・・。そう!それが佐々成政です。それでは、この歌が生まれるまでに更に迫っていきましょう。

 

「真冬に北アルプスを越えた武将」佐々成政

 佐々成政は、信勝、家康の相次ぐ秀吉との和睦に孤立してしまいました。当時の佐々成政の状況を下の図をご覧ください。

 

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《画像引用元》「ちろわんこの雑記帳」ブログ

http://chirowanko.blog.fc2.com/blog-entry-1560.html?sp

 西には前田利家、東には上杉景勝。と挟まれ、にっちもさっちもいかない状況。しかし、成政は秀吉に下ることをしません。なんと「再起を促すために、家康を説得しにいく!」と家康勢力下の信濃(長野県)を通って家康のいる浜松城静岡県)を目指しました。季節は真冬の旧暦12月(現在の1月上旬)。さらに下の図の白囲み部分は標高2000m級の山々が連なる北アルプス!このハードすぎる行程を踏破すべく、冬の山に詳しい者を先導に、数十人の配下の者達を引き連れて自ら浜松城を目指すのでした。

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google mapより

途中で凍傷になる者、滑落する者などを出しながらも「矢玉繁き所に立つよりは遥かに易き道なるぞ(矢や鉄砲の玉が飛び交う所に立つよりは、ずっと簡単な道だ!)」と成政は同行の者達を励ましながら進みました。

 そしてとうとう、このハードすぎる行程を踏破!約30日かけてようやく家康に会うことができ、再起を促すも・・・断られてしまいます・・・。家康としても色々と検討した結果に出した和睦だったため、成政には悪いが飲める話ではなかったのです。肩を落として富山城に帰ってきた佐々成政は、ぽつりと今回の歌を詠んだのでした。

 この冬の山越えは「さらさ越え」と呼ばれる有名な佐々成政の逸話です。それにしても、現代のように防寒具もない中、冬の北アルプスを越えるとは、本当に凄いことです。江戸時代にも「本当に冬にこの難所を越えることはできるのか?」と何度か調査がなされたようです。そして成政の歩んだルートなどには諸説あるようです。(家康の所に来たことは資料にちゃんと残っているようですが)

 「さらさ越え」をしたにも関わらず家康に再起を断られた成政は、最後まで秀吉に抵抗するも、富山城を10万の兵に囲まれ、遂に秀吉に下ることになりました。意外にも命は助けられ、以降はお伽衆(お話相手)として秀吉の近くに仕える日々を過ごしていました。それからチャンスが巡ってきて、秀吉の九州攻めで功績を残し、肥後(現在の熊本県)を与えられることになります。一国の城主に返り咲いた成政でしたが、国内で一揆が発生し、うまくおさめることができませんでした。それにより秀吉の怒りを買い、最期は切腹させられてしまいました。

 

人間の世と自然

 この歌は「人間の世のはかなさ」と「自然の悠久さ」を対比しております。人間の世とは「何事もかはりはてたる」諸行無常な世界。少し前まで良かったものも、すぐに奈落の底に落ちてします。一方そんな人間の世など「知らでや」「雪の白く降るらむ」なのです。自然は人間の活動に影響されずに、淡々とその活動を続けていきます。成政にはこの雪がどのように映ったのでしょうか?「おい、こんなに世の中は変わっていくのに、お前はそんなこと知ったこっちゃないってか!?」と恨み節を発したのか。人間の世のはかなさへの諦めに似たうすら笑いを浮かべたのか。いずれにしても、人智を超えて流転する自然のルールの中で、人間のはかなさをより一層感じたことでしょう。人間世界のことであれこれ悩んでいる時に、ふと変わらない自然に気が付くということは、今の我々にもあると思います。悠久の自然の中の自分。と考えると、悩みがちっぽけになるような。

 さて「降るらむ」にも注目してみましょう。この歌が登場する『太閤記』では「ふる(古)事ながら思ひ出られにけり」と歌の後に解説されており、古いこと(昔のこと)を成政は思い出していたということです。14歳頃に信長に仕え、黒母衣衆(親衛隊)筆頭となり、柴田勝家を軍団長とする北陸方面を担当する武将とし、越中を与えられ・・・。成政の信長家臣のとしての輝かしい人生は、本能寺の変より歯車が狂い始め「何事もかはりはてたる」ようになってしまいました。なんせ元同僚の秀吉がいつの間にか信長にとって代わる存在になってしまっていたのです。成政にとって悪夢でしかありません。

 

悩んだ時は自然を感じましょう

 人間の世界とは無常なものです。次々と悩みが湧いてきて、心休まる時がなかなかありません。そのような時は、自然に目を向けてみましょう。あなたがどれだけ悩んでいても、自然は変わらずあなたを包み込み続けます。「明けない夜はない」という言葉もありますが、全員に平等に朝はやってくるのです。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

心に短歌を!

 

参考文献『戦国武将の歌』綿抜豊昭 笠間書院

「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ

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短歌原文

「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ

 

俵万智 『サラダ記念日』

 

「寒いね」と「あたたかさ」を語る

 一人暮らしをしたことがある人はよくわかると思いますが、「寒いね」と一人部屋でつぶやくも誰も答えぬことのさみしさが一人暮らしのさみしさです。特に秋や冬のように気温が下がってくると、なぜかさみしさも増してきませんか?「ああ「寒いね」と答えてくれる人が欲しい」そのような気持ちになる今回の短歌です。

 

「寒いね」と話しかければ 「寒いね」と答える人の いるあたたかさ

 まず注目したいのは「寒いね」の繰り返しです。投げかけの言葉のキャッチボールがリズムよく、1往復で気持ちがほっこりさせられちゃいます。それには「ね」が効いているからです。「ね」って相手に対して優しさを含んだ問いかけの時に使いませんか?「ね」の往復が、この歌のほっこりを演出しているのです。

例えば・・・

「寒いな」と話しかければ「寒いな」と答える人の いるあたたかさ

→これは男同士の無骨な感じ。これはこれでいい感じもするけど。

「寒いね」と話しかければ「寒いよ」と答える人の いるあたたかさ

→二人目!相手のことをもうそんなに好きじゃないのか!?

「寒いね」と話しかければ「寒いか?」と答える人の いるあたたかさ

→二人の気持ちはもう通じ合っていない。。。

 こうしてみると「寒いね」と話しかけて「寒いね」が返ってきたから、はじめて「あたたかさ」を感じられるのです。絶妙な二人の掛け合いだったんです。

 次に注目してほしいのが「あたたかさ」です。これは平仮名で表現されているんですね。一方「寒いね」は漢字を使っています。漢字で表現すると、冷たい風が吹いているような、気温の寒さが伝わってきます。では「あたたかさ」をなぜ平仮名でわざわざ表現しているのか。「寒いね」とは違う何を表現しようとしているのか。そう!この「あたたかさ」は人の心を表現しているのです。気温の「温かさ」ではもちろんありません。

「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいる温かさ

→なんかくどいですね。寒いと温かいをわざとらしく対比しているような。また「温かさ」という表現は、ぽかぽかと体が温かいイメージになりませんか。

「さむいね」と話しかければ「さむいね」と答える人のいるあたたかさ

→「さむいね」自体がすでになんか意味深。あとやっぱりわざとらしく対比しているよう。

「さむいね」と話しかければ「さむいね」と答える人のいる温かさ

→ 「さむいね」は締まりがなく、最後の「温かさ」は逆に余韻がない。なんとなく気持ち悪い。

 と元の歌を知っているからかもしれませんが、どれもイマイチに思えてしまいます。「寒いね」と何気なく口から出た言葉。その言葉に「寒いね」がまた何気に返ってきた。その会話の中に「あたたかさ」を見つけたことが、この短歌の感動ポイントです。「さむいね」になってしまうと既に何かしらの感情(甘えているような)がこもっていて、ふと口から出た感じがしないんですよね。

 

 色々と書きましたが、何度も口ずさみたくなる歌で、とてもいい歌ですね。私達もこのような日常の一コマに「あたたかさ」を感じられるようになりましょう。それが幸せへの近道!

 

心に短歌を!

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 

 

この味が いいねと君が言ったから 七月六日は サラダ記念日

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短歌原文

この味が いいねと君が 言ったから 七月六日は サラダ記念日

 

俵万智 『サラダ記念日』

 

俵万智さんの 口語短歌

 「短歌って何か昔の人がやってたやつ?」「渋いなあ」とみなさん思うかもしれませんが、この短歌はいかがでしょうか?どの単語も親しみやすく、意味もすっと入ってくる。普段使う言葉がそのまま短歌になった口語短歌というものです。そして、この口語短歌の第一人者が今回の短歌を詠んだ俵万智(たわら まち)さんです。

 俵万智さん早稲田大学在学中に短歌を作り始め、卒業後は高校教師として働きながら創作活動を続けました。1985年角川短歌賞次賞、1986年角川短歌賞、そして1987年に『サラダ記念日』を発表。歌集がまさかの大ブームとなり、280万部のベストセラーとなりました。(87年度ベストセラーランキング1位!)ちなみに、2015年ベストセラーであるピース又吉さんの芥川賞作品『火花』が年間約240万部発行ということなので、どれくらい社会的インパクトがあったか分かりますね。俵万智さんは現在も短歌を創作しています!個人的には俵万智さんのTwitterの自己紹介「ふだん三十一文字なので、ここはとても広く感じます。」という一文が何か好きです。

 さて、俵万智さんが詠んでいる口語短歌とはそもそも何か説明します。言葉には「文語」と「口語」があります。「口語」とは話言葉。つまり普段私達が会話で使っている言葉です。口語短歌とは普段会話で使っている言葉で創作された短歌。ということです。一方「文語」とは書き言葉で歴史的仮名遣いを使っているもの。現代の日本人には「文語」がピンとこないと思います。それは、明治時代に言文一致運動というものがあり、口語(会話で使っている言葉)と書き言葉を一緒にしていこう!という動きがあったからです。夏目漱石吾輩は猫である』はまさに口語で書かれた当時では革新的な小説だったのです。「口語」「文語」どちらの短歌がいいというわけではなく、口語短歌には親しみさや分かりやすさがありますし、文語短歌には独特の調べ(音のリズム)があり、悠久の日本と繋がるような感覚を得られることができます。短歌は難しいそう。と思われる要因の一つは文語が使われているからかもしれません。ただ、あまり肩ひじ張らずに、まずは31文字に想いを乗せてみましょう。

 

サラダ記念日を味わう

 それでら、今回の短歌について味わってみましょう。まず、俵万智さん視点からみると、彼氏なのか旦那さんなのか、秘かに好意を抱いている相手なのか。その愛する誰かに手料理を作ってあげたことが分かります。そしてその相手がサラダを食べて「この味がいいね」と何気なく褒めてくれた!小躍りするその気持ちから、何気ない一日を「サラダ記念日」にしてしまおう。といじらしく思うのでした。この「記念日にしちゃおう!」という発想はいかにも女性らしいですね。何の変哲もない7月6日に、君が「いいね」と一言をぽつりと言った。すると7月6日はサラダ記念日という特別な日に変わったということですね。このサラダ記念日を自分の心の中だけの記念日にしたのか。「うれしい!今日はサラダ記念日だね」と相手に伝えたのか。この短歌の先の二人の表情や会話を想像してしまいます。

 さて色々想像を膨らませたところで、俵万智さんがこの短歌を創作した経緯について後日、話をしているので見てみましょう!

①サラダではなく鳥の唐揚げだった!?

 なんと、サラダではなく鳥の唐揚げを彼氏に出した時に、いつもと違うカレー味にしたそうです。すると彼氏から「これいいな」と言われたため、嬉しくて短歌にしたそうです。ただ「唐揚げ記念日」は重たい雰囲気になってしまうので、軽いサイドメニューのサラダにしたそうです。

②7月6日

 サラダ記念日となると、野菜がおいしい季節。となると初夏の7月!ということで7月にしたそうです。そして7月と言えば・・・七夕の7月7日と思ったのですが、「何気ない普通の一日の幸せを歌にしたい」という気持ちから、七夕の前日である7月6日としたそうです。また、「しちがつむいか」という音がしっくりきたことも理由のようです。確かにそう言われると他の日付はもう考えられないですね。

制約の中に広がりがある

 短歌は三十一文字の中に自分の想いや感じたことを入れなければいけません。そしてそれが他人に伝わらなければいけないのです。これは結構難しいです。チョイスする言葉、言葉の順番を吟味して「本当にこの三十一文字は自分の想いを伝えているだろうか。他人に伝わるだろうか。調べ(リズム)はすっと心に入ってくるだろうか」と何度も自問自答しながら紡ぎ出された三十一文字が短歌となるのです。

 俵万智さんの短歌はとても平易ですが、三十一文字の中に2人の笑顔や相手への思いやり、その場の情景などの広がりを感じさせてくれます。制約があるからこそ言葉が洗練され、広がりがあるのです。不思議ですね。言葉を尽くさない方が広がりがある。これが短歌の魅力だということを教えてくれる一首でした。

 

心に短歌を!

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

 

 

何事もかはりのみ行く世の中におなじかげにてすめる月かな

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短歌原文

何事も かはりのみ行く 世の中に おなじかげにて すめる月かな

なにごとも かはりのみゆく よのなかに おなじかげにて すめるつきかな

西行山家集』秋歌

 

のみ:「~してばかり」副助詞 強意・強調

かげ:(日・月・灯火などの)「光」

すめる:「澄める」と「住める」をかけている

現代語訳

全てのことがどんどん変わっていく世の中で、月は変わらずに同じように光り輝いているんだよなあ。

 

短歌を味わおう

  今回も前回のブログに続き西行さんの短歌となります。西行さんについてや、他の短歌については過去ブログを是非読んでください。(このブログの最後にリンクを貼っておきます)

 「何事もかはり「のみ」行く世の中に」と「のみ」を入れることで、何事も変わっていくことが避けられないこと。その無常観をあらわしているように思えます。流転の世の中。それは避けがたい世の常であると。ただ、そんな世の中でふと上を見れば、変わることのない「月」が輝いている。まぎれもなく月の光はこの流転の世の中でも変わることのない不変のものである。「ああ、色々変わっていくなあ」「でもあの月は変わらないなあ」この西行さんの心情のようなことをみなさんも一度は感じたことはないでしょうか。あくせく働く中でふと空を見上げた時の自分のちっぽけさというか、自然や真理の雄大さというか。そのようなことを西行さんは感じたのではないかと思います。

変わるもの。変わらないもの

 世の中とは本当に早く移り変わります。「外国人観光客がたくさん来ている!ホテルの建設ラッシュだ!」「2020年オリンピックイヤーまで日本の経済は盛り上がり、オリンピック後からの勢いの衰退がこわいなあ」なんて言っていたのはほんの1年前。それからコロナウィルスというものが中国で流行っているらしいという話から、いつの間にか日本も緊急事態宣言。当たり前のように朝マスクを着用し、一日に何度も消毒液を手に塗って、観光業は閑古鳥でホテルはガラガラ。オリンピックは延期されて、未だにどのような開催になるか見えない状況。直近でもこれだけ世の中は変わってしまいました。もう少し長い時間軸で見れば、スマホがなかった時代、自分はどのように人と待ち合わせをし、検索していたのだろうか、今となっては思い出せない。更に長い時間軸でみれば、剣を腰に差したお侍さんが普通に歩いていた時代が約150年以上前にあったのです。そして西行さんが生きた時代から約900年。多くのことが変わりました。

 一方で、変わらないものもあります。今回の短歌で詠まれている「月の光」などの自然や人の心です。なぜ歴史は面白く、短歌は今まで残っているのか。それは変わらないものを発見することにより、感動がそこにあるからだと思います。今回の短歌をもう一度詠んでみてください。感動ポイントがたくさんあります。

感動ポイント1「言葉が理解できる」

 この短歌を声に出して詠んでみて、意味を問われれば大体の意味はとれると思います。それは約900年前の人の「言葉」が現代の我々の「言葉」と大差がないということなんです。タイムスリップして西行さんと話をしても、我々はポケトークなしで会話ができるということです。当たり前ですが、言葉が理解できるからこそ短歌は今でも変わらずに原文のまま残っており、我々は詠んだ人の心を感じることができるのです。これって凄いことです!

 そして人は言葉によって思考します。今あなたの感じたこと、考えたことは何語ですか?もちろん日本語かと思います。「ああ楽しい」と感じたとします。その「ああ楽しい」という感じは言葉なしではあらわしようがないですね。「ああ」と「楽しい」という言葉がある為に、我々は「ああ楽しい」という心情と出会えるのです。こう考えて、短歌の言葉一つ一つを是非味わって頂けたらと思います。

 

感動ポイント2「心情が理解できる」

 短歌の味わい方。もっというと歴史の楽しみ方にも当てはまると思いますが、それは昔の方々の心情を感じることです。今回の短歌を詠んだ西行さんはどのような状況でどのような気持ちで月を眺めていたのだろうか。情景を思い描きつつ西行さんを自分の心に重ねてみるのです。「何事もかはりのみ行く世の中」で「おなじかげにてすめる月かな」ということを感じたことは、自分の人生で一度はありませんか?それは月ではなく、太陽なのか、変わらない自然の風景なのかもしれません。そのあなたの気持ちと西行さんの気持ちが重なることで、短歌はあなたの心にすっと沁みわたっていくのです。字面だけ詠んでも何も面白くありません。共鳴を楽しむのです。

 そのためには1つのことを信じて欲しいです。それは「他人と自分は共通の心を持っている」ということです。うれしい、悲しい、楽しい、悔しい。これらの心は全員が共通に持っています。それは時代も関係ありません。卑弥呼西行さんも自分も共通の心を持っているのです。だから、西行さんの短歌を詠み、自分が感じたこと。それが西行さんも感じたことと信じ切ってください。「自分はこう思うけど、西行さんはどう思ったかは分からない」と思うと短歌や歴史は自分に近づいてきてくれません。自分と他人は時代や空間を超えて共感できる。この前提に立つと、他人の短歌にも感動が生まれきます。

 

 我々はどうしても変わりゆくものに目がいきがちです。それはそれで大切ですが、たまに移り行く世で変わらないものにも目を向けてみてはいかがでしょうか。この短歌ブログもあなたの人生の変わらないものに目を向ける時間の一助になれば幸いです。

 

心に短歌を!

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

過去の西行さんブログはこちら

 

 

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さびしさに 堪へたる人の またもあれな 庵ならべむ 冬の山里

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【短歌原文】

さびしさに 堪へたる人の またもあれな 庵ならべむ 冬の山里

さびしさに たへたるひとの またもあれな いほりならべむ ふゆのやまざと

 

また:他に

あれな:いてほしい

 

西行 『新古今和歌集』627 

【現代語訳】

さびしさに堪えている人が他にもいたらいいなあ。そしたらこの冬の山里に家を並べて住みたいなあ。

 

【さすらいの「元武士」歌人 西行

 この短歌を詠んだ西行さんについては、以前のブログに取り上げましたが、あらためて

簡単に説明します。

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元永元年(1118年)~文治6年2月16日

つまり平安時代末期~鎌倉時代初期に生きた歌人であり僧侶。

もともとは、藤原氏の流れを汲む北面の武士で名は「佐藤義清」といいました。しかし、23歳で出家。友人の突然の死や失恋が原因だったと言われております。

その後、鞍馬山(京都)、奥羽(東北)、高野山(和歌山)、讃岐(香川)、伊勢(三重)、河内(大阪)などあらゆるところに草庵を営みながら人生を過ごした。

北面の武士:京都の上皇が住む館の北側を守る武士

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  旅人×歌人×僧侶×元武士 というすごい掛け合わせの人物なんです。あの松尾芭蕉が尊敬してやまなかったのも西行さん。さすらいの歌人の憧れだったんですね。

 

※以前の短歌リンクはこのブログの最後に貼っておきます。

 

【娘を蹴落として出家】

 冒頭に書いているように西行さんは北面の武士という、上皇を守るすごいエリート武士だったのです。それを友人の死?失恋?により捨てて、出家することを選択しました。その際の有名なエピソードがあります。

 出家を決めた西行さんが家に帰ると「お父さんが帰ってきた!」と4歳の娘が駆け寄りました。「ああかわいいなあ。しかし・・・俺は今から出家する。煩悩を引きずっていではだめだ!」そう考えた西行さんは、なんとその娘を縁側から蹴落としたのです!

これがその場面↓

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西行物語絵巻より

 『西行物語絵巻』の詞書きには以下のようなことが書かれている。

「家へ帰ると、とてもかわいい4歳の娘がお父さんを出迎え、帰ってきたのがうれしいと、袖にとりついた。めちゃくちゃ愛おしく思ったが、煩悩の絆を切る!と思い、縁側より下に蹴落とし、娘は泣いていたが、そのまま家の中に入っていった」

 これは相当な覚悟ですね。西行さんの葛藤やいかに・・・。これだけの覚悟で出家し、さすらいの旅人となったさんは、さびしくなかったのか・・・いやさびしかったんですね。それが今回の短歌でよくわかります。

(ちなみに、この娘蹴落としについては、作り話ではないか。など諸説あります)

 

【庵を並べよう!】

 短歌をもう一度詠んでみましょう。「さびしさに堪へたる人のまたあれな」ここで体現止め。「さびしさに堪えている人が私以外にもいたらなあ」としみじみ想っていることが伝わります。自分で選択した出家の身とはいえ「さびしさ」は耐え難いものだったのでしょう。北面の武士として都会のど真ん中に身を置いていたこと。家族との思い出。色々な場面が頭を駆け巡り、西行さんは筆と紙を取り、短歌にしたためた。そう考えると、この短歌から西行さんの寂しさが迫ってきます。

 しかし、どこか暗さがないのは「庵ならべむ冬の山里」の印象でしょうか。自分と同じように寂しさに堪えている人がもしいたら、この冬の山里にお家(庵)を並べよう。という発想にどこかおもしろさがあります。これが「一人泣きける 冬の山里」「寒さ身に沁む 冬の山里」だったら、寂しさのどん底に落とされるような短歌となります。さすが西行さん!ここで「庵ならべむ」という発想が、この短歌から暗さを取り除いてくれている。(と私は思います)。「俺と同じ境遇の人が、横に暮らしてくれないかなあ。それなら色々話をしたりして寂しさも紛れるのになあ」と。

これぞ修行の成果なのか西行さん!ちなみに下記が、西行庵です↓

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西行庵 奈良県観光公式サイトより

 

【寂しくなったら西行さん】

 さすらいの旅をしながら生きた西行さんはそりゃ寂しいですよね。人里離れて住んでいるし、娘を蹴落として家族を捨てちゃっているし。まして雪なんか降ったら誰も遊びに来ないし。しかし、山に籠ってないとはいえ現代の私たちにとっめも寂しさは無縁のものではありません。大学入学で地元を出てきた。仕事で1人で住まなければならない。もしくは、家族と住んでいるが会話が全くない・・・。あらゆる寂しさがあると思います。その時は、皆さまの周りをよく見渡してください。家族や友人、恋人、同じ学校の人、同じ職場の人。たくさんのご縁の中に自分がいることが分かるはずです。それもスマホがあれば、すぐに繋がれる。繋がれるのに会話ができていないことほどもったいないことはありません。何度も言いますが、西行さんは娘を蹴落としちゃっているし、もう戻るところがないのです。この寂しさやいかに!

 コロナで人の距離が離れ、冬の寒さが寂しい気持ちを増幅させるかもしれませんが、

どうか西行さんのこの短歌を思い出して身近な人と繋がってみてください。「さびしさに堪へたる人のまたあれなLINE送らむ冬の山里」

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

心に短歌を!

 

 

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遊ぶべき 時もわすれて 夜昼と 勤めつくせば 楽しかるらん

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短歌原文

遊ぶべき 時もわすれて 夜昼と 勤めつくせば 楽しかるらん

 

あそぶべき ときもわすれて よるひると つとめつくせば たのしかるらん

 

二宮尊徳 『道歌集』

 

現代語訳

遊ぶ時間も忘れて、一日中仕事をすれば楽しいことだろう。

 

代表的日本人1/5の二宮尊徳

 みなさんは二宮尊徳という人物を知っていますか?薪を背負い本を読んでいる、昔はどこの学校にもあった銅像の人物。と言えば、ほとんどの方が知っているのではないでしょうか。二宮金次郎も同人物です。しかし、どういうことをした人物か知っていますか?と聞くと、たちまち答えられなくなるのではないでしょうか。そこで今回の短歌では二宮尊徳を紹介していきます。

 内村鑑三という明治時代の方が本に『代表的日本人』というものがあります。この本は日清戦争が始まった1894年に書かれたものです。日本は、江戸時代から明治になり、急激に西洋のものを取り入れていきました。しかし、その一方で日本的な良いものが失われていっているのではないか。そう感じました内村鑑三は日本人の美徳を5人の人物を通して本の中で伝えまました。さあ、5人は誰でしょう・・・。

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『代表的日本人』岩波文庫 内村鑑三

f:id:oidon5:20201003133312p:plain西郷隆盛f:id:oidon5:20201003133350p:plain上杉鷹山f:id:oidon5:20201003133431p:plain中江藤樹

f:id:oidon5:20201003133505p:plain日蓮

 

そして・・・

 

f:id:oidon5:20201003133535p:plain二宮尊徳


内村鑑三の選んだ5人のうちの1人が二宮尊徳なので。あの校庭に立っている、あどけない二宮金次郎少年はどこにいってしまったのか・・・。髭をたくわえ立派な大人になったことがこの絵からもうかがい知れます。

 

二宮尊徳略歴

二宮尊徳の人生をまずは年表でみてみましょう!

 

1787年 1歳 小田原藩の農家の家に生まれる。

1800年 14歳 父が没する

1802年 16歳 母が没する 伯父の家に引き取られる

農民が勉強などするな!本を読む油がもったいない!など言われながら、自分で菜種(油の原料)を育てたり、捨ててある苗から米を作り、自立していく。

1806年 20歳 生家の家に家を建てる

1811年 25歳 小田原藩家老 服部家の若党となる。尊徳の優秀さが目立ってくる。

1818年 32歳 服部家の財政整理を任される。

1822年 36歳 小田原藩に登用され桜町の復興を命ぜられる

桜町に移り住み、村の復興に取り組む。やる気のない農民たち。不満分子たちの中で、孤軍奮闘。さらに上司がこの農民たちと組んだりして、とてもしんどい日々。

1829年 43歳 突然村からいなくなる。成田山で断食。

1831年 45歳 桜町復興第一期事業終了

見事復興を成し遂げた尊徳の名声は周囲に広がり、他の村の復興なども任せられる。

1842年 56歳 幕府に登用される。

1853年 67歳 日光復興事業を命ぜられる。 ←ペリー来航の年!

1856年 70歳 死去

                      報徳博物館 二宮尊徳略年表より

 

 江戸時代の中~後期に二宮尊徳は生きました。もともと父親の体が弱く、少年の頃から大人に混じって働いていました。(この頃、働きながら勉強をしていた姿が銅像の姿です)また年表にあるように16歳までに両親を亡くし、非常に過酷な少年時代を過ごします。伯父の家で生活を始めるもよそ者の尊徳はさぞつらかったと思います。その現状を打破する為に、尊徳は捨てられた苗を育てるところから畑を少しずつ大きくしていきます。(積小為大という真理を会得する)また同時にお金を他人に貸すことで、徐々にお金を蓄え、20歳には自分の家を建てるまでになり、村一番の地主になっていきます。それから、尊徳は小田原藩家老の服部家で子供の教育などをお手伝いするようになります。この中でも尊徳の優秀さは日に日に周囲が知ることとなり、なんと武士の家の家計を農民である尊徳が任せられ、実際家計を立て直してしまいます。

 尊徳の活躍が藩主の目にとまり、桜町という村の復興を命ぜられます。(武士の資格を与えられる)ただ、もともと一農民が一地方の財政立て直しをするのです。彼は村人のモチベーションアップ施策を考えたり、率先垂範を心掛け、朝一番に村をまわり、夜遅く寝る毎日を過ごします。それでも一向に村人は言うことを聞いてくれませんでした。ちなみに尊徳は身長180㎝と当時ではめちゃくちゃでかく、それも超厳しかったようです。「うまく適当にやっていたのに、うるせえなあ」と村の悪分子たちは思ったことでしょう。さらに悪いことに尊徳には上司がいたのですが、彼は村の悪分子と組み、ことごとく尊徳の邪魔をします。だんだんストレスが溜まってきた尊徳はある日ブチ切れで突然村から姿を消しました。村人たちは尊徳がいないことに気が付き、そして尊徳がいなくなって始めて彼の偉大さに気が付き、呼び戻そうと所在を探し回ります。方々を探し回るとどうやら尊徳は成田山にいるということが分かりました。村人たちは複数人で成田山を訪れ尊徳に謝罪します。一方成田山で尊徳はなんと断食をして自分を見つめなおしていました。「あいつら全然俺の言うことを聞かん!いや待てよそもそも俺の言い方だったりもよくなかったかも」と尊徳自身も更に大きな器の人間に育っていました。

 それから桜町、そのほかの村々の財政立て直しを依頼され、解決していきます。現代でいうところの超スーパー経営コンサルタントです。その名声はどんどん大きくなり、なんと幕府から依頼されて日光の復興などにも従事するようになります。時は幕末。財政が混乱しきった江戸末期の中で、村々の復興を自らの体と頭をフルに使って実践をもって解決していた人物が二宮尊徳なのです。ペリー来航から政治も大きく動き、皆さん、西郷隆盛吉田松陰坂本竜馬などのような志士たちに目がいきがちですが、二宮尊徳のような人物がいたことも是非覚えておきたいですね。

 

現代に残る二宮尊徳

 二宮尊徳はすごい人物である。ということは略歴でお伝えしましたが、実際彼の功績は現代にも色々と残っております。そのいくつかをご紹介します。

「わたしは志摩の尊徳になりたい」と言ったのは真珠のミキモトを一代でつくりあげた御木本幸吉トヨタの創業者である豊田佐吉報徳思想(尊徳の教え)に大きく感化されていたと言われる。尊徳の死後、その思想を継承した「報徳社」という組織が各地に作られました。豊田佐吉の父がこの報徳思想を強く信じていたと言われ、子の佐吉に大きな影響を与えたと言われています。1946年発行の最後の1円札の肖像は二宮尊徳です。日本中にある「信用金庫」の初代は二宮尊徳の弟子がつくりました。報徳学園は尊徳の思想を伝えたいということで設立された学校です。二宮尊徳の思想は大きな影響を日本に与えたんですね。

そして短歌を味わう

 さて尊徳について相当詳しくなったところで本日の短歌に戻りましょう。ちなみに尊徳の短歌は「道歌」と言わております。「道歌」とは道徳的・教訓的な内容の混じる短歌のことです。尊徳が「道歌」をたくさん作ったことも、また尊徳の実践家らしさを感じさせてくれるように思います。今回の短歌(道歌)もとても実践的ですね。遊ぶことも忘れてず~~っと仕事をすることは楽しいだろうよ。と言っているのです。完全に仕事人間の歌ですね。いや、仕事が人生哲学に昇華されている人の歌です。仕事=労働ではないですね。「遊ぶべき時もわすれて夜昼と務めつくす」ことが彼の人生そのものです。

 

この歌は連作されているようでいくつか似た歌があります。

 

勤むべき ことも思はず うたひまひ(歌い舞い)遊びすすめば 不忠なるらむ

遊ぶべき 時も忘れて 苦しみて 勤めすすめば 至忠なるらむ

勤むべき ことを彼これ しりぞけて 遊びすごせば 不孝なるらん

遊ぶべき 時も忘れて 入り出つ 勤めつくせば 至孝なるらん

勤むべき 業も思はず 食ひのみ 遊びすごせば くるしかるらん

遊ぶべき 時もわすれて 夜昼と 勤めつくせば 樂しかるらむ

 

これらの歌から尊徳の人物像が浮かんでくるようです・・・。自分の仕事のことも見直します。つい尊徳に頭を下げている自分が目に浮かぶ短歌でした。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

心に短歌を!

秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかねぬる

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短歌原文

秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかねぬる

 

あききぬと めにはさやかに みえねども かぜのおとにぞ おどろかねぬる

 

藤原敏行朝臣平安時代前期の貴族) 古今和歌集 巻四

 

来ぬ:来た 「ぬ」は完了の助動詞

さやかに:はっきりと

おどろかれぬる:ハッと気づかされる 

 

現代語訳

秋が来たことがはっきりと目に見てわかることはないけれど、風の音にハッときづかされるよなあ。

 

季節の変わり目を感じる(二十四節気、七十二侯)

肌寒さに思わず布団を被った朝、ふと秋の到来を感じたり。

通学路の街路樹から聞こえる蝉の声に ふと夏の到来を感じたり。

自販機にコーンポタージュが並ぶのを見て ふと冬の到来を感じたり。

お昼時セーターの下で汗ばんでいる時に ふと春の到来を感じたり。

 

 日本には「四季」があり、皆さん、ふと季節の変わり目を感じる瞬間があると思います。「四季」は1年を4つに分けていますが、1年を24個に分けた二十四節気、更に1年を72個に分けた「七十二侯」というものがあります。「七十二侯」の場合365日÷72=約5日ごとに季節を分類しているのです!今日から5日前と今日の季節の違い。皆さん感じとることができますでしょうか。さあ、このブログを読んでいる今はどのような季節か気になってきませんか?こんなサイトがありましたので、是非参考に今の季節をご確認ください。


www.543life.com

 

 今回の短歌は「立秋(りっしゅう)」に詠まれたと伝わっております。立秋とは現代の8月初旬。そう聞くと、少し短歌への印象が変わりませんでしょうか。なにせ8月初旬は夏のど真ん中ではないですか!蝉の声MAX、太陽の光MAX、暑さMAX。確かに「目にはさやかに」秋の到来が見えるはずがないですね。しかし、その夏ど真ん中にふと吹いた風の音から「あっ秋に近づいているかも」と感じたというのです。そんなばかなと思うかもしれませんが、実は私なんとなくこの感じが分かります。たぶん自分が一番好きな季節が夏のため、夏が終わって欲しくないと常に思っているからだと思います。だから、ちょっとした夏パワーが弱まっていることに敏感なんです。これは私の感覚ですが、7月中旬~下旬にかけて夏は完成していきます。ただ、夏が完成した!と思った7月末頃からすぐに秋に向かっているんです。図で表現するとこんな感じ。

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 ただ、そんなことを昔の人は当たり前に知っており、だからこそ季節を24個や72個に分けているのですね。例えば「二十四節気」で季節をみてみると・・・

二十四節気

5月5日~5月19日頃  立夏

6月21日~7月6日頃    夏至

7月7日~7月22日頃     小暑

7月22日~8月7日頃    大暑

8月8日~8月22日頃      立秋

8月23日~9月7日頃      処暑

※参考:当ブログ上記の「暦生活」WEBページより

 

 ちゃんと5月頃から夏に向かっていき、8月7日頃以降秋に向かっていっている。とあらわされているんですね。

 また、季節の変わり目は、五感をフルに活用して感じるものです。今回の短歌でも「目にはさやかに見えねども」と視覚的には何も感じないが「風に音にぞおどろかねぬる」と聴覚的にはっと秋を感じたと表現されています。もちろん聴覚だけでなく、体を通り抜ける風、つまり触覚的にも秋を感じたと思われます。あらためて今の季節を感じたくなってきますね。

 

 昔の方が設定した季節の区分を意識しながら、毎日生活してみると、幸福度がUPすること間違いなしです。そしてできれば自分なりの「七十二侯カレンダー」を作ってみるのもよいかもしれません。例えば「扇風機片付ける」「ユニクロヒートテックが売られている」などなど。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

心に短歌を!

 

 

ひぐらしは 時となけども 恋ふるにし 手弱女(たわやめ)我は 時わかず泣く

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短歌原文

ひぐらしは 時となけども 恋ふるにし 手弱女我は 時わかず泣く

 

ひぐらしは ときとなけども こふるにし たわやめわれは ときわかずなく

 

万葉集』 巻十 一九八二 夏相聞  よみ人しらず

 

ひぐらし:蝉の一種。夏の夕暮れに鳴く。

・恋ふるにし:片恋。片思い。

・手弱女(たはやめ・たをやめ):かよわい女性。「たわむ」という しなやかさ から連想。⇔益荒男(ますらお)

・時わかず:時分かず。つまり「ずっと、いつでも」

 

現代語訳

ひぐらしは決まった時間に鳴くけれど、片想い中の私はいつも泣いているの。

 

夏の夕暮れは「ひぐらし」の声

 まず最初に「ひぐらし」の声を聴いてみましょう。

↓↓↓

youtu.be

【作業用BGM】ひぐらしの鳴き声1時間/Nature sound healing music より

 

 ああ、今日もまた日が暮れる。。。「ひぐらし(日暮らし)」は、その名の通り日が暮れる頃に鳴くと言われています。その鳴き声は「カナカナカナ」と聞こえることからカナカナ蝉とも呼ばれます。日本人にとってこの声はもの悲しい気持ちノスタルジックな気持ちを連想させるものではないでしょうか?とてもおもしろいことに万葉集の時代から「もの悲しさ、ノスタルジック」の象徴として、ひぐらしの声が扱われていることです。こういうところで自分が日本人であることを自覚しますね。私たちの血には「ひぐらしの声」に反応し、どこかもの悲しくなるDNAが組み込まれているようです。文章の冒頭にあるように「ああ・・・〇〇」と「ああ」をつけたくなる。それがひぐらしの声なのです。

 

片思いに涙を流す乙女

 この歌はよみ人知らず(誰が詠んだかは分からない)ものです。そのため、みなさんが思い思いに想像を膨らませながら味わってほしいです。例えば・・・

 少し暑さもやわらぎ、空もオレンジ色に近くなってきた夏の夕暮れ時。女性が一人涙を流している。彼女が考えることは、大好きなあの人のことばかり。でもあの人とは、どうもうまくいっていかない・・・。「もしかしたら、〇〇ちゃんのことが好きなのかも」とか想像してしまうと、一人涙がこぼれてしまう。そんな自分を客観的に見てしまう彼女は「ひぐらしはこうやって決まった時間に鳴くのに・・・。私なんか、片思いで、こんなに勝手に傷ついたりして、ずっと泣いたりしちゃって。。。本当にだめな女。。。」なんて少し自己嫌悪。今日もあの人に会えなかったな。そう思う日々を重ねながら、気がつけば長い夏は終わっていく。

と勝手にシチュエーションを想像してしてみたり、更に想像を膨らませて・・・

 

ビール片手に涙で恋を忘れようとするAさんVer

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夏休み中に好きな人に会えずモヤモヤするBちゃんVer

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と、みなさんも色々と想像しながら、この短歌を味わってください。

 

虫の声と日本人

 よく聞く話ですが、外国の方は虫の声に情緒なんて感じないと言われています。むしろ雑音だ。とかそもそも聞こえない!とか。。そもそも聞こえない!ということは、脳みそが無視をしている。ということです。要は「気にするに値しない音」と脳が認識しているのです。「今日も蝉がよく鳴くなあ」「What?」て感じで、蝉の声に注意がいくこと自体が珍しいことのようなのです。人間の右脳は音楽脳。左脳は言語脳と言われており、外国の方々は虫の声を右脳(音楽脳)で処理をし、日本人は左脳(言語脳)で処理をしているようです。なので、日本人にとって、虫の「音」ではなく、虫の「声」なのですね。それは、虫だけでなく、波や風、動物のなき声なども同じく「声」なのです。

auのCMでおなじみの浦ちゃん(桐谷健太)が歌う「海の声」なんてまさにそうですよね。

空の声が聞きたくて 風の声に耳すま

海の声が知りたくて 君の声を探してる

 

会えない そう思うほどに 

会いたいが 大きくなってゆく

川のつぶやき 山のささやき

君の声のように 感じるんだ

 

目を閉じれば 聞こえてくる

君のコロコロした笑い声

声に出せば 届きそうで 今日も 歌ってる

海の声にのせて

 

(以下省略)  

海の声」歌:浦島太郎(桐谷健太) 

 

  自然を「声」と捉えて、愛する人と重ねている。まさに万葉集」の時代の心は、今でもしっかり引き継がれていますね。自然を味わうことができる日本人であることに少しうれしく思います。さあ、周りの自然の「声」に今日も耳を傾けましょう。

 

心に短歌を!

最後までよんでいただき、ありがとうございます。

 

ほととぎす 鳴きつる方を 眺むれば ただ有明の 月ぞ残れる

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短歌原文

ほととぎす 鳴きつる方を 眺むれば ただ有明の 月ぞ残れる

 

ほととぎす なきつるかたを ながむれば ただありあけの つきぞのこれる

 

後徳大寺左大臣   小倉百人一首

 

有明の月→朝、夜明け時に残る月。

 

短歌の意味

朝、夜明け時に、ほととぎすが鳴いた方を見たら、ただ月だけが残っているなあ。

 

後徳大寺左大臣ってどんな人?

  今回の歌は百人一首でお馴染みの歌です。「あっ聞いたことある!」と思った方も多いはずです。夏の歌として有名ですが、そもそもこの歌を詠んだ人物の名前が気になりませんか?ということで、まずは後徳大寺左大臣さんについてご紹介します。

  平安時代末期~鎌倉初期の公家であり歌人実際は「藤原実定」という名前の方です。昔は役職や住んでいる場所などで呼ばれることが多々ありました。おじいちゃんが「徳大寺左大臣」という呼び名で有名で、実定も左大臣になったため「徳大寺左大臣」と呼ばれたようです。

「徳大寺家」→藤原氏北家閑院流。三条家・西園寺家と家格は同じ。

左大臣」→朝廷の役職でNo2だが、その上の「太政大臣」は名誉職に近い為、実質のNo1の役職。

ということで、めちゃくちゃ位の高い人物です。

 時代が平安時代末期~鎌倉時代初期ということから鎌倉幕府との関係が気になるところですが、そもそも徳大寺家と平家がライバルであったとも言われていたこともあるのか、源頼朝から信頼が高かったようです。それは、藤原実定が亡くなった時の頼朝の状況からも分かります。「幕下殊に溜息し給う。関東由緒あり。日来重んぜらるる所也」『吾妻鏡と頼朝は実定の死を聞いて、深くため息をついたそうです。

 権力の中枢にいながら、歌人としても有名でとても優秀な人物でした。特に歌は、平家との権力争いに敗れ、閑職に甘んじていた時に多く作られたようです。(ちなみに今回の歌は右大臣の時。47歳頃に詠んだ歌です。)

 

夏と言えば、やっぱり「ほととぎす」!

 さて後徳大寺左大臣さんについて知ったところで、歌を味わっていきましょう。

「ほととぎす」は初夏に飛来するため、夏を教えてくれる鳥です。有明の月」は朝の夜明け時に残る月「あっ、空が明るくなってきたのに月がまだある。」ってやつです。平安時代の貴族の間で、初夏、ほととぎすの第一声を聞くために一晩明かして聴くということがあったようです。今でいう元旦のご来光を見るとか、〇〇流星群を見るために夜を徹する。とかそのような感覚でしょうか。四季の移り変わり。それ自体がエンターテイメントなんです。

 後徳大寺左大臣さんは、ほととぎすの第一声を聴こうと夜通し待っていた。そこに・・・↓↓↓

https://www.youtube.com/watch?v=JyEYApCY-dM

YouTube「鳴き声ノート(ホトトギス)13ページ」参照)

「あっ、今ほととぎすが鳴いた!」すぐさま、その声が聞こえた方を眺めると、そこにはほととぎすがおらず、ただうっすらと明るい空に月が残っていた。

 

 いや~いいですね~。薄ら明るく、空気の透き通った朝。誰もが寝静まり静寂があたりを包み込む中、空に響き渡るほととぎすの声。視線を上に向けるとそこにはほととぎすの姿はなく、ただ月がうっすらまだ残っている。 「ただ」有明の月「ぞ」残れる とほととぎす待ちで夜通し待ったものの、その姿を捉えられなかった残念!という想いと、またこれはこれで趣ある風景。という両方の気持ちを私は感じます。

 

 四季の移り変わりをエンタメ化することは、人間が幸せに生きる一つのヒントだと思います。YouTubeもテレビもない時代。自分達の身の回りにある自然の小さな変化を楽しんだ先人の方々から、今の我々も学ぶことがたくさんあります。デジタルからのコンテンツもよいですが、たまには、自然に目を向けてみませんか?

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

心に短歌を!

 

夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ やまほととぎす

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短歌原文

夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ やまほととぎす

なつのよの ゆめじはかなき のちのなを くもゐにあげよ やまほととぎす

               柴田勝家 辞世の句

 

夢路:夢に見ること。夢の中でたどる道。

雲井:雲のあるところ。空。遠く離れたところ。

 

現代語訳

夏の夜の夢のようであった・・・はかなき人生よ。私の名を空高く後世まで運んでくれ 山ほととぎすよ。

 

短歌を味わう!

柴田勝家の自刃まで

 この歌は柴田勝家という戦国武将が詠んだ歌です。柴田勝家と言えば、あの織田信長の配下として筆頭に挙げられる武将ですね。鬼柴田とも呼ばれ、戦に明け暮れた武将でした。秀吉がまだ羽柴秀吉と名乗っていたペーペーの時代「柴田さんのようになりたいので、名前に【柴】を入れてよろしいですか?」とゴマをすったと言われています。

 織田家筆頭としての柴田勝家の人生が大きく変わったのは本能寺の変でした。当時、北陸の上杉家攻略中であった勝家は、本能寺の変の報を聞き、急ぎ京に向かおうとしました。しかし、上杉家の邪魔も入りすぐに動けず。結局、宿敵明智光秀は秀吉が討ち取ることになりました。

 本能寺の変明智光秀を討ち取った秀吉の発言力は大幅に増しました。その勢いをもって秀吉は織田家の後継者を決める会議に臨み、そこで勝家は秀吉に負けてしまいます。映画にもある有名な清州会議ですね。以後、織田家内での勝家派VS秀吉派 の勢力争いが激しくなり、ついに勝家と秀吉は賤ヶ岳の戦いで激突します。結果は・・・秀吉の勝利。秀吉はそのまま敗走する勝家を追い、ついに柴田勝家の居城 北ノ庄城に追い込みます。大軍に囲まれた勝家は200人の部下達と共に立て籠もり、城に火をつけさせました。勝家は妻子を刺し殺し、自ら切腹し、死体を残さず最期を遂げたのでした。享年62歳。今回の歌を人生の最期に残して・・・。

 

お市の歌 と 足利将軍の歌

 今回の勝家の歌は、共に亡くなった妻お市(信長の妹。絶世の美女と言われた)の辞世の句に応じた歌と言われています。そこで、お市の歌を紹介したいと思います。

 

さらぬだに うち寝(ぬ)るほども 夏の夜の 夢路をさそふ 時鳥(ほととぎす)かな

※さらぬだに(然らぬだに):ただでさえも  ※ほど:頃合い

「ただでさえ、そろそろ寝る頃なのに・・・。夏の夜に、私を夢の中(死の世界)に誘うほととぎすの声が聞こえますわ。」

 

 この歌から武士の妻の強さを感じるのは私だけでしょうか。「そろそろいつものように寝る頃なのに」と日常の延長として死を捉えているような印象を感じませんか?「寝る」ように「死」を捉える。よほど日ごろから死を意識して生きていないと、この境地には達することができませんね。そして、この歌に勝家は応じるのですが、実は勝家の歌には、元となる歌があります。勝家はその元となる歌を使い、今回の歌を創作しました。それが、第十三代将軍 足利義輝三好三人衆松永久秀らに囲まれ、将軍でありながら討ち死にした将軍です。この義輝の辞世の句が以下のものとなります。

 

五月雨(さみだれ)は 露か涙か 不如帰(ほととぎす) 我が名をあげよ 雲の上まで

 

「この雨は、はかなき露か私の涙か・・・。ほととぎすよ!私の名前を天高くまで運んでくれ!」

 

剣豪将軍と言われ、最期まで自ら剣をふるったと言われる義輝と、鬼柴田と言われる勝家。その二人の辞世の句はやはり武人らしいですね。

 

・男ならこの世に名を残して死にたい。俺はこうして死んでいくが、名前だけは後世に残ってくれ!

・「雲井にあげよ」「我が名をあげよ」と、まるで配下に号令をかけるような口調。

 

かっこいいですね。これぞ男。いや漢の辞世の句です。

 

なぜほととぎす?

 それにしても、なぜ三人とも「ほととぎす」なのでしょうか?それは、

・夏の鳥であること

死出の田長(たおさ)と言われ、冥土に通う鳥とされていること

の2点から、ほととぎすが辞世の句にあらわれているのです。

 

「ほととぎす」ってよく登場するけれど、実際その鳴き声はイメージできますか?

あの信長・秀吉・家康がほととぎすが鳴くのを待ったり、鳴かせてみようとしたり、殺してしまえという歌があるほど、身近な存在のほととぎす。私は「ホーホケキョ」がほととぎすと思っていましたが、これは「うぐいす」です!そこで、ほととぎすの声を聴いてみましょう!

youtu.be

YouTube「鳴き声ノート」ホトトギスより

 

 確かにこの声。窓を開けながら寝る時に、夏の夜の遠くの空から聞こえてきていた・・・気がします。みなさんもほととぎすの声が聞こえないか、耳をすましてみてください。

 

まとめ

 辞世の句は人生総決算の31文字。辞世の句を詠むという日本の文化は本当に素晴らしいことだと思います。後世の私たちに、人生とはどういうものか。死の直前どういうことを思うのか。を教えてくれるようです。勝家は人生を「夢路はかなく」とあらわしています。そして「後の名を雲井にあげよ」とせめてそのはかない人生に勝家ありということよ残ってくれと詠んだのでした人生とは、夢のようにはかないもの。我々が残せるものはお金や名誉ではなく「何を為したか」ただそれだけ。そういうことを教えてくれるようです。

 また、勝家を滅ぼした秀吉にも死は訪れます。秀吉もまた、人生とは夢のようだったと詠んでいますね。

 

oidon5.hatenablog.com

 

死を意識して生きる。これが人生を充実させるヒントなのかもしれません。

心に短歌を!

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。