おいどんブログ

和歌・短歌を紹介します!

ときはいま あめがしたしる さつきかな

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連歌原文

 

ときはいま あめがしたしる さつきかな

 

               明智光秀 愛宕百韻(愛宕山連歌会)にて

 

現代語訳

 

今は雨がずっと降っている五月だなあ。

 

 

本能寺の変」の決意を詠った歌!?

 

NHK大河ドラマ麒麟がくる』で今話題の明智光秀
といえば、本能寺の変は切っても切れないですね。この歌はその
本能寺の変の決意を事前に歌にしていた!?と言われる有名なものです。

この歌が詠まれたのは本能寺の変天正10年6月2日)の前に、京都の愛宕山で行われた連歌天正10年5月24 ※28日という説もあり))でした。どこが決意なのかみてみましょう!

 

【通常の意味で漢字をあててみる】

は今 が下領る(治る) 五月かな

 

【裏の意図で漢字をあててみる】

土岐は今 が下領る(治る) 五月かな

土岐は今 下知る 五月かな ともよめます)

 

 

※土岐・・・明智光秀の一族

※天が下・・・天下、この世界のこと

※領る・治る・・・領有する。治める。

※下知・・・世の中に号令をかける。命令する。

 

裏の意図の漢字で見ると・・・

 

土岐氏が天下をおさめる五月だ!

 

とも読み取れるのです。その為、この歌は「本能寺の変の決意を事前に歌にしていた!?」と言われるのです。

 

そもそも「連歌」って?「愛宕百韻」って?「旧暦五月」っていつ?

連歌」とは複数人が上の句、下の句をそれぞれ詠んでいき一つの作品にしたものです。そして「百韻」とは百句の歌を一つの作品としたものです。「愛宕」は、京都嵐山より北に上がったところにある山です。標高924m。山頂には愛宕神社があり、全国の愛宕神社の総本山です。愛宕百韻」はその愛宕山で光秀がひらいた連歌会です。メンバーは連歌師や僧侶達でした。そしてこの愛宕百韻が行われたのが、天正10年(1582年)5月24日(28日)。「旧暦五月」今の新暦ですと6月下旬です。まさに梅雨ですね。

今回の光秀の歌は連歌の発句(スタートとなる句)でした。山中に集まったメンバーが、雨の音を聴きながら連歌会をしている姿が目に浮かぶようです。
※当日雨だったかは不明ですが・・・。

 

本当に「本能寺の変の決意を示したものか!?」

「土岐は今 天が下領る(治る) 五月かな」と読み取れば、信長への謀反を胸に詠んでいるように受け取れるのですが、いくつかそうではなかったという説もあります。

 

  • 「しる」→「なる」 だった説  

「しる」は「領る・治る」と考えると、謀反の気持ちが読み取れる重要な単語です。しかし、実は光秀が詠んだのは「なる」だったという説もあります。「なる」ですと治める!という意図がなくなるため、謀反の決意を示した歌とは呼べなくなります。

ちなみに、豊臣秀吉明智光秀を滅ぼした後、この連歌会の参加者に対して厳しい追及があったと言われております。役人がこの歌の書かれた紙を見せて追及したところ、連歌師の里村紹巴は「誰かが改竄している!歌会では“なる”と光秀さんは詠んでましたよ!」と主張し、難を逃れたと言われております。この改竄説は未だ解決しておりません。「し」か?「な」か? この2つの言葉がこの歌の意味の重要な鍵を握っています。

 

この歌を謀反の決意と考えると「五月かな」と言っているが、本能寺の変は実際六月におこっています。なので違うだろ。という説。

「五月」を「五月雨」(旧暦五月頃の梅雨)と考えれば、6月2日におこった本能寺の変も十分範疇に入るのでは?最初は5月!と思っていたが、いいタイミングが6月になっただけ。など、こちらも色々考え方次第ですね。

 

連歌ってことは、それ以外の歌は?

光秀の後に続いた歌の中にも光秀の意図を汲んでいるのではないかと疑われる歌がいくつかあるといわれております。いくつか有名な歌をピックアップします。

連歌のルールもついでに)

 

1   ときは今あめが下しる五月かな 光秀

2   水上まさる庭の夏(松)山      行祐

3   花落つる池の流れ(流れの末)をせきとめて 紹巴

100 国々は猶のどかなるころ    光慶

 

※( )という説もあり。

 

1→「発句」あいさつの句。皆に向かってあいさつするようなイメージ。季語を入れる。お客さんが詠む。

2→「脇句」あいさつを受けて、応えるイメージ。同じ季節を入れる。体言止めにする。招待者が詠む。

3→「第三」発句から脇句の流れを一転させて連歌の流れをつくる。「て」で終える。

100→「挙句」 最後の句。「挙句の果て」の語源。

 

三句より

「花落つる」は、信長の首!?天下!?

「せきとめる」は、信長の政治を止める!?

100句より

信長の天下が終わることで国々がのどかになる!?

 

色々読み取れますね。ただ真相は誰にもわかりません。

 

まとめ

以上、この歌にまつわる説を色々と見てきました。「光秀の謀反の決意」の意図があったかもしれないし、そんなものはなかったところに秀吉が無理矢理こじつけて改竄し、宣伝に使われたのかもしれない。未だ真相は分かっていないですが、NHK大河ドラマはどのように描くのでしょうか?この歌の場面の放映はまだ先なので楽しみです!

日本語は音に漢字が紐づくからこのような説がでてくるんですね。例えば「アメ」は天か雨か。で意味は違う。英語なら「Heaven」か「Rain」。音から全くの別物です。なので歌にも1つの音に2つの意味を持たせたり、隠語や比喩など深い表現ができるんですね~。

 

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございます!

心に短歌を!

父ならぬ父を父とも頼みつつありけるものをあはれ吾が子や

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短歌原文

父ならむ 父を父とも 頼みつつ ありけるものを あはれ吾が子や

 

                     伴林光平(ともばやし みつひら)

現代語訳

父らしいことを何もしてやれなかったこの私を、父と頼んでいた我が子の

なんてあわれなことよ。

 

伴林光平とはどんな人? ①「天誅組の変(大和義挙)」

今回の短歌を詠んだ伴林光平(ともばやし みつひら)は幕末の志士でした。
があまり知られていない人物かと思います。そこで、まずはこの人物が登場する天誅組の変(大和義挙)」について説明したいと思います。

そもそも「天誅」は聞いたことがありますよね。天が悪いやつらを誅する(罰する)。という意味ですが、幕末の京都で「てんちゅー!」って志士達が幕府側の人や開国を論じる人達を襲う時に使った言葉です。「日本を悪くする奴等は天にかわってお仕置きしちゃうぞ」ってセーラームーンみたいな言葉です。ということは天誅組の変(大和義挙)」と名前から分かるように勤王攘夷の志士達が起こしたことです。ちなみに「大和義挙」とも呼ばれるように大和の国(今の奈良県)が舞台となります。

時は文久三年(1863年)。日本は尊王攘夷熱まっただ中でした。(朝廷にもっと政治の実権を!外国を追い払え!)朝廷が幕府に攘夷を迫り、長州が「攘夷を決行するぞ!」と下関で外国船を砲撃したり。そのような中、孝明天皇が現在の奈良県橿原市にある神武天皇陵に参拝することになりました(大和御幸)。とはいってもただの参拝ではなく「親征」つまり天皇自らが軍を率いて攘夷を決行するという意味を持たせ、攘夷を渋る幕府を追い詰めようという大きな意味がありました。この意図を汲んだ天誅組という吉村寅太郎(土佐の勤王志士)らを中心としたグループは「これは我らが先に大和(奈良県)に入り、露払いをしよう!」と同じく勤王の思いの強い公卿である中山忠光を誘い、大和に入りました。彼らはここは天皇の土地だと幕府の出先機関である代官を襲い、そこの長官を血祭に挙げます。

ところがここで大事件が起きます。京都で八月十八日の政変」といわれるクーデターが起こったのでした。勤皇系の公卿に取り入って政治を動かしていた長州を、会津と薩摩が組んで締め出しました。つまり過激な勤王攘夷派(朝廷中心の政治をしよう。そして外国を追い払おう派)から公武合体派(朝廷と幕府で協力していこう派)に実権が移ったのです。これにより大和御幸は中止になります。そうなると、先に大和に入り気勢をあげていた天誅組は「暴徒」ということになり、討伐される側となりました。天誅組は各地で敗戦し、しまいには朝廷から逆賊とされ、多くの犠牲を出しながら瓦解してしまいました。

天誅組の変(大和義挙)」自体は失敗に終わりましたが、以降の歴史を知っている後世の我々から見れば、江戸時代から明治時代に移り変わる日本のうねりの一番先を駆け抜けたような動きでした。「あれっ、そういえば幕府ありきで考えていたけど、倒して変えちゃうっていうのもありかも。」そう人々が思うきっかけとなったのでした。だって、1867年つまり4年後には「大政奉還」なんです。こういう衝突があちこちでたくさん起こりながら、少しずつ時代は変化していくのですね。それぞれが次の動きに結びついているので、無駄なものは1つもないのです。

 

伴林光平とはどんな人? ②ところで伴林光平は?

さて、伴林光平の説明にやっと入ります。この人物は大阪生まれで国学(日本についてのこと)を学び、大阪の八尾市にあるお寺の住職をしていました。しかし、ある日お寺を突然飛び出し、勤王志士として活動するようになります。そして「天誅組の変」のことをきき、大和に向かい参加することになりました。しかし、天誅組は敗走、瓦解。伴林は捕らえられ、斬首されました。享年52歳。住職を辞め、家族を捨てて、国のことを思い行動する程、国のことを思う気持ちが厚く、国学についての教養深い人物でした。有名な歴史上の人物だけでなく、こういう人物がたくさんいたから明治維新は成ったということを忘れてはいけないですね。

 

 

今回の短歌が詠まれたいきさつ

伴林は先妻に先立たれてから、後妻の間に二人の子供がいたと言われています。しかし、この後妻、天誅組の変の際に子供を置いて家を出てしまったのでした。この家に伴林は敗走中に立ち寄ります。しかしそこには誰もいない。子供もどこにいってしまったのか。もぬけの殻の家で、伴林は今回の短歌を詠んだのでした。

自分は「国のため」子供を置いて天誅組の変に参加した。ああ、子供たちよ。こんな父で本当にすまない。君たちには何も父らしいことをしてやれなかった。伴林の気持ちがあふれ出ている短歌です。

今の時代「国のため」家庭を捨てる。なんて理解されないかもしれません。しかし、自分の周りの幸せをあえてかなぐり捨てて、更に大きな大義の為に身を投じてきた人たちの上に、今の我々がいることも忘れてはいけないと思います。もちろん妻も子もたまったもんじゃなかったでしょう。結果は失敗だった天誅組の変に参加したことは、無駄なことだったと言えるかもしれません。しかし私はいつも思うことがあります。普段自分の子供に当たり前のように会えること。明日も来週も会えること。これほど幸せで贅沢なことはないと。歴史を見れば、防人だったり、先の戦争で戦地に赴いた人たち。大災害の時に救助や人々の避難に向かった人たち。そして今回の伴林もそうです。みな「お父さん」という一面ももっていて、明日も来週も我が子と食卓を囲みたいのに、もっと大きなものを守るために、その日常に背を向けて家を出なければいけなかった。そういう小さな多くの犠牲の上に地域や国というものは支えられてきた。ということです。そうして誰かが村や国を守ってきたことで、当たり前のように平和に食卓を囲める今の自分達があると思います。

男はいざという時に自分の家の玄関に背を向けなければならない時がある。

その「いざという時」に自分がそうできるか正直今はイメージできないですが、過去の人たちから紡がれてきたDNAがその時に自分に働きかけるのかもしれません。

 

今回の短歌はそういうことを考えさせてくれる短歌です。

 

 

心に短歌を!最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

 

参考文献『短歌のすすめ』 夜久正雄・山田輝彦 著

 

 

 

 

 

 

 

 

ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聞きにゆく

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短歌原文

ふるさとの訛(なまり)なつかし

停車場の人ごみの中に

そを聞きにゆく

 

現代語訳

ふるさとの訛りがなつかしいなあ。
電車の停車場の人ごみの中に、そのなつかしい訛りを聞きに行く。

 

啄木さんインタビュー

明治43年(1910年)石川啄木 24歳。

前回は啄木さんからインタビューを打ち切られ、気まずい空気にならないことを意識して、第2回インタビューにのぞみました。

 

↓第1回インタビューはこちら

oidon5.hatenablog.com

 

 

こんばんは

こんばんは

先日はお時間を頂き、ありがとうございました。啄木さんのインタビューはとても好評でした!!!

ありがとうございます。今日はなにについてのインタビューですか?

(アイスブレイク失敗・・・)そうですね。今日は、啄木さんの故郷についてお聞きしたいなと思いまして。私も東京に出てきてあくせく働いていると、ふと故郷を思い出すことがあるんですよね。だから、啄木さんのこの歌はとても好きなんです。

ありがとうございます。「停車場」は東京と故郷を繋いでいる玄関のような存在ですよね。私の東京での挑戦はここから始まりました。東京に着いた時の緊張と高揚感は今でも忘れられません。

知らない土地。それも東京となると身が引き締まりますよね。

そうです。ただ人は新しい土地にも徐々に順応していきます。私もすっかりここでの生活に慣れました。ただ、たまに故郷を思い出す時があります。その時に「停車場」が僕と故郷を繋いでくれる。もっと言うと、停車場に行けば、あの懐かしい訛りがあちらこちらから聞こえてくる。それを聞くと、故郷に触れている実感が湧くのです。

ああ、分かる気がします。私はたまに自分の故郷のバスを見かけたら、故郷を思い出します!修学旅行か観光旅行かで来ているバスなんでしょうね。あっ、このバス懐かしい!故郷は今どうかなあって

バスですか。それはおもしろいですね。

(あっ、ちょっと空気が柔らかくなった)啄木さんにとって故郷はどういう場所ですか?

山があり、川があり・・・。いい思い出ばかりです。あなたは?

(はっ、初めて質問をしてもらえた!)はい!私の故郷は、桜島が見えて、わっぜよかところじゃ。あっ・・・。

(笑)つい、方言が出てしまいましたね。故郷の言葉を大切に、東京で頑張りましょう。

そうですね。頑張りましょう!

・・・

・・・

(締めろってことだな)では、今日は貴重なお話ありがとうございました。

ありがとうございました

 

前回のブログでも紹介したように、この2年後、明治45年(1912年)啄木は26歳の若さで結核にてこの世を去ります。死ぬ間際の啄木の脳裏には故郷が浮かんでいたのだろうか。

 

自分が大人になり思うことは
「人間は大人になっても大きく変わらない」ということである。
小さな時の自分と今の自分はあまり変わっていない。
昔は大人になれば大きく自分は変わっているのだろうと考えていたが、どうもそういうものではないようだ。これが私の実感である。
このように皆さんも自分の歴史をたまに振り返り、今の自分と比較してみることはないでしょうか。
そして、自分の歴史を振り返ると、浮かんでくるものは「故郷の風景」である。春夏秋冬。登下校。夕焼け。両親との日々。友達と駆けた日々。これらの風景が目を閉じれば
たくさんの風景が広がるはずである。

啄木も目を閉じると故郷の渋民村、盛岡、岩手が浮かんできたのでしょう。
それも極貧の東京生活と対極にあるような自然豊かな故郷が。
帰れない故郷。でも故郷に触れたい。その思いが啄木を停車場に立ち寄らせ、そして故郷の訛りを聞いた時に啄木は故郷に触れた感動があったのだと思う。

 

さて、この歌の構成にも最後に触れてみたい。
以前「短歌をつくろう」ブログで伝えたように、短歌は一首一文がよいとされる。
今回の短歌は二文構成である。
①「ふるさとの訛なつかし」
②「停車場の人ごみの中にそを聞きにゆく」
つまり「ふるさとの訛なつかし」ここで切れている。そのため二句切れである。
また「人ごみのなかに」は8文字なので字余り
そして、なんといっても短歌は改行せず一行ですっと最後まで詠めることがよいとされる中、この歌は三行で表現している
望郷の思いと過去に縛られずアップデートしようとする思いが交差する歌である。

 

この歌を詠みながら、目に浮かぶ自分の故郷の風景を味わいましょう!

 

心に短歌を!最後まで読んでで頂き、ありがとうございます!

 

 

↓「短歌をつくろう」ブログはこちら

 

oidon5.hatenablog.com

 

 

oidon5.hatenablog.com

 

 

 

 

 

 

 

はたらけど はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし) 楽にならざりぢっと手を見る

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短歌原文

はたらけど

はたらけどなほ わがくらし

らくにならざり ぢつとてをみる

 

はたらけど

はたらけど猶 我が生活

楽にならざりぢつと手を見る

 

石川啄木  『一握の砂』

 

現代語訳

働いても働いても私の暮らしは一向にに楽にならない。じっと手を見る。。。

 

啄木さんインタビュー

石川啄木 略歴】

明治19年1886年岩手県盛岡にうまれる。父はお寺の住職。

16歳 盛岡中学退学、東京で編集者の職を得ようとするも失敗→翌年帰郷。

(同じ学校の先輩には生涯支援をしてくれた親友 金田一京助がいた)

18歳 父が住職を懲戒される。

19歳 節子と結婚。

20歳 故郷渋谷村の代用教員となる。

21歳 教員を辞め、北海道函館の代用教員→新聞社の校正係→小樽日報社に入社するが辞める、単身釧路に行く。

22歳 釧路新聞の編集長格として働くが、小説家を目指し上京。

23歳 朝日新聞社 校正係となる。家族が上京。

24歳 『一握の砂』刊行

26歳 死去

 

 

明治43年(1910年)石川啄木 24歳。

今回の短歌を詠んだ啄木さんに都内の自宅にてインタビュー。

 

こんにちは。本日は宜しくお願いします。

宜しくお願いします。

啄木さんにお会いできて幸栄です!

そうですか。ありがとうございます。

さっそくですが、今回の短歌は生活感が出ているというか。 すごい私も共感できます。 働けど働けど私もお金がないんですよ。

お金を稼ぐということは難しいことですね。

啄木さんは今、何の仕事をされているんですか?

今は『東京朝日新聞』の校正係(文章の誤字や表現の間違いを見つける仕事)や、 新聞歌壇の選者、最近では「二葉亭四迷全集」の校正をしたりしております。 あと歌集の準備もしています。

『一握の砂』ですね!今回の短歌が収録されてますね! 教科書にも出てくるすごい有名な歌集ですよ!

そうですか。。。

(なんかうれしそうじゃない・・・) ところで、お若いのに、一家の大黒柱と伺ってます。 自分なんか同じ年の時には家族を養うなんて全くできませんでしたよ!

(啄木 当時24歳)

妻や娘。そして父母を養わなくてはいけないのです。私もできていません。 でも本当は・・・

本当は?

やはり一人がいいですね。一人で集中し・・・

集中し・・・?

生活の為に働くのではなく、小説を書いていたいんです。 私は小説で有名になりたいのです。

なるほど・・・

小説で有名にならなければ・・・ 私にとって歌は悲しい玩具なんです。

悲しい玩具・・・『悲しき玩具』ですね!

(無視)歌は私の心情をぶつけるもの。

それが後世の人々の心を打つのですよ! 想いが伝わるんです。

そうですか。人生分からないものですね。 今日はもう終わりにしましょう。

あっ、はい。ありがとうございました。

ありがとうございました。

 

文章にて生計を立てることを夢見て生きた啄木さん。
しかし、父の住職懲戒や自身の放蕩、仕事が定まらないことにより、常にお金に困る人生でありました。文章への自信とそれが思うように世に認められない挫折。そこに迫る生活の困窮は、啄木さんを苦悩させ、社会主義への傾倒や放蕩生活につながったと思われます。

また、自分の苦悩を吐き出す場として短歌がありました。
啄木さんは「玩具」や「小生の遊戯」と短歌を位置づけていたが、ありのままの想いをぶつけた短歌が後世に評価されるに至ることは本人にとっては皮肉なことなのかもしれません。

文章を書いても書いても生活が楽にならない。自分の手を見つめる啄木さん。
そこには理想と現実の中で苦しむ姿があります。
後世の私達からみると自業自得だと思う部分もありますが、
少なからず誰しもが啄木さんに共感できる部分があるのではないでしょうか。


自分の理想の人生と現実。そのギャップに真正面から向き合うほど、気持ちが重くなるものですよね。しかし、それでも毎日目の前のことを少しでも改善していきながら生きていくしかないです。その一日一日の積み重ねがいつか現実が理想を越えている場所に自分を立たせてくれるはずである。そう信じて、今日も一日を過ごしいていきましょう!

啄木さんの短歌は、自分の胸の奥にあるものを引き出してくれるようです。

インタビュアー おいどん

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

心に短歌を!

後れても後れてもまた君たちに誓ひしことを我忘れめや

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短歌原文

後れても後れてもまた君たちに誓ひしことを我忘れめや

おくれてもおくれてもまたきみたちにちかひしことをわれわすれめや

高杉晋作  桜山招魂場での招魂祭にて

現代語訳

死におくれても。死におくれても。死んでいったみんなに誓ったことを私は忘れることはない

文法

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短歌を味わおう

高杉晋作という人物

この短歌は高杉晋作が詠んだものです。
高杉晋作と言えば、明治維新の立役者。
長州藩士であり、松下村塾門下生です。
武士以外で組織された奇兵隊の創設者として有名ですね。
一つ晋作らしい功山寺決起」のエピソードを紹介します。

時は元治元年(1865年)明治維新の2年前のことでした。
幕府は言うことを聞かない長州藩に対して兵を送りました。その数35藩から約15万人!第一次長州征伐と呼ばれるものです。
幕府に恭順しようという空気が長州藩内に蔓延する中、
「俺は幕府と戦う!ついてくる奴は今晩功山寺に来い!」
と晋作はたった一人立ち上がりました。
雪の降り積もる功山寺・・・
集結した人数はわずか84名(その中には伊藤博文もいました)。
晋作はこの仲間と共に、長州内に匿われていた公卿のもとにいきます。
そこで残した言葉が「これよりは、長州男児の腕前 お目にかけ申すべく!」
晋作は言葉通り、長州藩内の幕府恭順派と戦い、ついに藩内を幕府と戦う意思で統一させました。

これにより長州藩と幕府は戦うことになります(第二次長州征伐)。
この戦いで長州藩は次々と勝利をおさめ、
幕府の権威は大きく失墜することとなり、
明治維新が大きく近づいたと言われております。

 

しかし、この頃、晋作の体は既に病におかされていました。

 

功山寺決起から2年後の慶応3年(1867年)4月。27歳の若さで晋作はこの世を去ります。

大政奉還の半年前のことでした。

 

後に伊藤博文高杉晋作の顕彰碑に下記の文章をきごうしました。
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し 。衆目駭然として敢えて正視するものなし、これ我が東行高杉君に非ずや。」  

(動けば雷のようで。声を発すれば風雨のようだ。周囲はぼうぜんとして正視できる者はない。これぞ我らが高杉晋作である!)

酒と三味線を愛し、やる時はやる高杉晋作
男なら憧れる人物です。

 

こんなイケイケの晋作も、
実は、人生で何をすればよいか探し求め、落ち込んだ時期もあったのです。
故郷に帰り、お役所仕事に励んだり。
剣で生きる!と武者修行に出たが、あまり強くない自分に気付いたり。
これからは船の時代だと船に乗り込むがすぐに船酔いし「向いていない」と早々に下船したり。
江戸留学時は自分の命の使い方に迷い、酒浸りになり、「高杉に近付かない方がよい」と言われた時期もありました。
そのような中で志が固まっていき、皆が知る偉人になったのです!

死んでいった者達を想ふ

今回の短歌は桜山招魂場での招魂祭にて、高杉が詠ったものです。
この桜山招魂場とは攘夷戦争で命を落とした者を祀るため、晋作の発議により1865年、下関にて落成した神社です。
後に長州藩士も祀られるのですが、実は日本最初の招魂社なのです。
有名な招魂社と言えば「東京招魂社」後の「靖国神社」です!

 

今の我々では実感をもって理解できないのが、
志士達の死生観です。 
一緒に語り合った仲間達が次々と死んでいく時代。
自分の命の使い方。死への考え方は我々とは雲泥の差があったと思います。

 

今回の歌も晋作の人生観が詰まっています。
20代で既に死に遅れていると言う晋作の頭には、たくさんの仲間の姿が思い浮かんでいたことでしょう。
同窓として松下村塾で学んだ仲間も。
奇兵隊として一緒に戦った仲間も。
「国のため」と誓いあったその想いを全て背負って、晋作は生きていたのです。
それは自分の命を削るほどのものだったからこそ、晋作は若くして病に侵されたのではと思います。

 

想いのバトンを生きている者が繋いでいくことで今の日本がある。
そういうことを感じる今回の短歌でした。

 

心に短歌を!

最後まで読んで頂き、ありがとうございます!!!

 

参考文献『名歌でたどる日本の心』小柳陽太郎 他 編・著 草思社

田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 不盡(ふじ)の高嶺に 雪はふりける

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和歌原文

田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 不盡の高嶺に 雪はふりける

たごのうらゆ うちいでてみれば ましろにぞ ふじのたかねに ゆきはふりける

 

万葉集』 巻三 三一八  山部赤人

現代語訳

田子の浦静岡県の海岸)を通って、広々としたところから見ると、
真っ白!富士山の高嶺に雪が降り積もっているなあ。

 

文法

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鑑賞しよう!

田子の浦から見る富士はどんな富士山?

富士山に雪が積もる姿は誰もが感動するもの。その圧倒的存在感は、昔も今も変わりません。今回紹介した短歌は『万葉集』に掲載されている富士山の短歌です。約1300年前から富士山は人々を魅了していたのですね!

となると、この短歌はどこから見た富士山なんだろうと日本人なら知りたくなります。
ヒントは「田子の浦」!

 

地図で見るとここになります↓

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ではGoogleEarthでバーチャルに田子の浦に行ってみましょう!↓

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                                                                             GoogleMap streetviewより

もうちょっと天気がよかったら・・・

山部赤人万葉歌碑というものが「ふじのくに田子の浦みなと公園内」にあるようです。↓

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                        富士市HPより

田子の浦辺りから見る富士山はとてもきれいに見えますね。
山部赤人が見た富士山を同じ場所から見てから、短歌を味わうと、時空を超えた交流をしているようです。

※ちなみに当時の田子の浦と今の場所は違うという説もあります。

 

百人一首に選ばれた歌

この短歌はみなさん聞いたことのある短歌ではないでしょうか。
それはこの歌が百人一首に選ばれているからです。
百人一首の歌はこちらです↓

田子の浦にうち出でてみれば白妙(しろたへ)の富士の高嶺に雪はふりつつ

万葉集の歌と微妙に違いますね。
その理由は「ゆ」(~を通りすぎ)などの言葉が
百人一首の成立した鎌倉時代初期には使われなくなり、改変されたからなんです。
歌意は同じですが、万葉集バージョンをさらっと口ずさめば、あなたへの見る目も変わるかもしれませんよ!?

さてこの短歌は万葉集では別の歌とセットになっており、
反歌」と呼ばれるものです。

反歌・・・長歌の後に添えられている短歌

つまりこの短歌の前には長歌があります。
次にこの長歌を紹介します。

 

セットとなる長歌

山部宿禰(すくね)赤人、不盡山(ふじさん)を望める歌一首幷(ならび)に短歌

天地(あめつち)の 分れし時ゆ 神(かむ)さびて 高く貴き 駿河なる
布士(ふじ)の高嶺を 天の原 ふり放(さ)け見れば 渡る日の 影も隠れひ
照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける
語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 不盡(ふじ)の高嶺は

反歌

田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 不盡の高嶺に 雪はふりける 

 

富士山を色々な言葉で称賛してから、今回の短歌なんですね。
これを口ずさめば、更に更に!あなたへの見る目が変わる!?
というか、皆の口は開いたままになるでしょう!

 

山部赤人(やまべのあかひと)という人物

奈良時代の下級役人で、経歴が全く分からない人物です。
ただ万葉集には多くの歌が掲載されており、
1つ前のブログで紹介した柿本人麻呂と並び「歌聖」と呼ばれております。
同時代にはこのブログに登場した山上憶良大伴旅人などがおります。

 

最後に・・・
上り新幹線A席(三人掛けの窓側)に座り外を眺めていると、「田子の浦」という看板が現れます。この看板を見る度に今回の短歌を思い出すので、一度まとめよう!と思い立ったのが今回のブログの発端です。
今度あの看板を見る時は、より具体的に色々と想いを馳せられそうです。

 

心に短歌を!

最後まで読んで頂き、ありがとうございます!

雷神(なるかみ)の 少し響(とよ)みて さし曇り 雨もふらぬか 君を留めむ / 雷神(なるかみ)の 少し響(とよ)みて ふらずとも 吾は留らむ 妹し留めば 

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言の葉の庭」公式HPより

和歌原文

雷神の 少し響みて さし曇り 雨もふらぬか 君を留めむ

雷神の 少し響みて ふらずとも 吾は留らむ 妹し留めば

 

なるかみの すこしとよみて さしくもり あめもふらぬか きみをとどめむ

なるかみの すこしとよみて ふらずとも われはとまらむ いもしとどめば 

 

万葉集』 巻十一 柿本人麻呂

 

現代語訳

雷が少し響いて、空が曇り、雨も降らないだろうか。あなたをここに留めたいから。

 

雷が少し響いて、雨が降らなくても、私は留まろう。あなたが望むのであれば。

 

文法

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短歌 × 映像

新海誠監督「言の葉の庭」で詠まれる短歌

君の名は。」「天気の子」で有名な新海誠監督の作品の中に、
言の葉の庭という作品がある。
男子高校生のタカオは雨が降ると学校をさぼり、日本庭園のある公園に行く。
梅雨入りしたある雨の日、タカオがいつものように公園に向かうと、
缶ビールを一人で飲む、若いスーツ姿のOL風の女性が座っていた。
彼女の名前はユキノ。
ユキノはタカオに一首の短歌を残して立ち去る。

雷神の 少し響みて さし曇り 雨もふらぬか 君を留めむ

それから雨が降る日は、必ず公園で出会うこととなったタカオとユキノ。
タカオは黙々ノートに絵を描き、
ユキノはいつもビールを飲んでいた・・・。
そんな二人は徐々に言葉を交わすようになる。
打ち解けていく中、タカオは「靴職人になりたい」という夢を打ち明ける。
一方ユキノは自分のことを打ち明けられぬまま梅雨があけ、
二人が会う機会はなくなってしまう。
夏休みあけのある日、タカオはユキノを偶然見かけることとなる・・・。
そして短歌を残したユキノの意図に気が付くのである。

続きは、是非映像で見てください!(笑)

 

↓予告映像はこちら 

https://www.kotonohanoniwa.jp/

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新海誠監督の映像 × 短歌 は最高です!
「短歌」を今の映像技術や音楽などと重ねると、
違う世界観ができあがるんだなあと一人感動して鑑賞しました。
※ちなみに短歌は物語の中のほんのちょっとした要素でしかないですが・・・。

自然に託す「恋」の気持ち

さて、ここでは気になる短歌の内容を説明します!
この短歌は、現代でも十分に伝わる男女の恋の歌
最初の短歌が女性。後の短歌が男性(柿本人麻呂)が詠んだものとなります。

 

「雷神(なるかみ)の 少し響みて さし曇り 雨もふらぬか」
とたくさんの言葉を使って、畳みかけるように自然にお願いをしている。
何をお願いしているのか・・・
「君を留めむ」
この一言が来るんですね!

「今日はここにいて」と直接的に伝えるのではなく、
遠回しに天気にお願いしているんですね。
女性のいじらしさが伝わります。

一方、
「雷神の 少し響みて ふらずとも」
と同じ描写を繰り返し・・・
「吾は留らむ」
と強く宣言!
「妹し留めば」
と更にあなたをきりっと見つめる(見つめたはず)

 「天気なんか関係ない。君の為なら俺はここにいる」
という柿本人麻呂の愛情表現。

とても素敵な恋の歌のやりとりですね。

 

言の葉の庭」とこの短歌の意味を合わせてみると、
ユキノさん、よく男子高校生にこの短歌をぶつけたな。
と思います(笑)

 

自然に自分の気持ちを託す表現は、短歌によく出てきますが、
今の私達には難しく感じませんか?

自然に自分の気持ちを託す。ということは、
自然を感じられる感性+自分の気持ちを言葉にする感性
ではじめてできることです。
両方を磨いて、このような短歌を詠める大人になりたいですね。


心に短歌を!

 

最後までお読み頂き、ありがとうございます。