なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる
原文
なにごとの おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる
現代語訳
どういう方がいらっしゃるかは知らないけれども、恐れ多く、そしてありがたい気持ちで一杯になり涙がこぼれてくるよ
文法
鑑賞のポイント
西行ってどんな人物?
元永元年(1118年)~文治6年2月16日
つまり平安時代末期~鎌倉時代初期に生きた歌人であり僧侶です。
もともとは、藤原氏の流れを汲む北面の武士(京都の上皇が住む館の北側を守る武士)だったが、23歳で出家しました。
友人の突然の死や失恋が原因だったと言われております。
その後、鞍馬山(京都)、奥羽(東北)、高野山(和歌山)、讃岐(香川)、伊勢(三重)、河内(大阪)などあらゆるところに草庵を営みながら人生を過ごしました。
奥羽に行く途中には源頼朝と面会し、歌は多くの歌集に撰出される有名人でありました。
没後15年に成立した勅撰集『新古今和歌集』では個人最高の94首が撰出されています。
『おくのほそ道』は西行500回忌にあたる年に芭蕉が江戸を発ち、奥州・北陸を旅した作品でした。
自由に生きながらも、世の中に斬新なアートを発表していく!ってどこか憧れますよね。才能があったからこそできる生き方です。
西行は、当時から有名な「さすらいの歌人」だったと思ってもらえたらいいです。
歌を味わう
明確にいつ詠まれたかは分かっておりませんが、西行が伊勢にいた頃、伊勢神宮に参拝した際に詠まれた歌です。
「この歌は日本人の宗教感をあらわしている」と言われます。(西行にそのつもりがあったわけではないですが)
まず、真言宗(仏教)の僧侶だった西行ですが、神社(神道)で感動した歌を詠んでいるという点です。
宗派を超え、仏教も神道もごちゃまぜで大切にしてしまう宗教感
よく言われるように日本人は、教会で結婚式を挙げ、正月は神社に初詣に行き、先祖供養にはお寺でお経をよむ。宗教感ごちゃまぜな民族です。
私はこれは誇ってもいいことだと思います。
他宗を認めないことよりも、全て受け入れちゃう方がいわゆる「神」のおもいに近い気がします。
ちなみに日本人の宗教感を現代特有のことのように捉えがちですが、昔から変わっていません。
出典を忘れてしまいましたが、江戸時代末期、開国により日本に入ってきた外国人がこう苦言を呈していました。
「日本人は神社で参拝する時、その前後で笑いながらおしゃべりしている」
「現世利益を求めてお参りしている」
「宗教感がない民族だ!」
この外国人達の目に映った江戸時代の人々は、やはり我々の先祖だなあと感じませんか?生活の延長に神様がいる。これが日本人の宗教感であると思います。
さて、もう一つの日本人の宗教感はこちら。
八百万の神々(何もかもが神である)を信仰する宗教感
「なにごとのおはしますかしらねども」て、
外国の人からしたらありえない話ですよね。これが一神教と多神教の違いというやつです。
日本人にとっての神様はふわっとしてます。
「なにごとのおはしますかはしらねども」「かたじけなさに なみだこぼるる」のです。
何か分からないけれど、かたじけなく(厳かでありがたく)、涙が出てしまう。この感覚分かりませんか?
神社に行くと、何か厳かであり、感謝の気持ちを伝えたくなる。けれどその実態を深く考えたりしない。それが日本人にとっての神様であり宗教なのです。
もう一度味わいましょう。
なにごとの おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる
自分ごときが分かるようなものでない、しかし非常に高貴な存在を認めつつ、
自分の理解を超えたこの何か大きな存在を肌で感じた西行は、ただ涙がこぼれるのでした。
その理由は言葉であらわすと「かたじけなさ」。
畏れと感謝の入り混じったような複雑な気持ちでした。
この「かたじけなさ」は神社などで感じられる「あの感覚」です。
率直な日本人の気持ちを詠った歌。
我々の意志を超えた何か分からないかたじけない存在。
今日もその存在に手を合わせましょう!
最後までお読み頂き、ありとうございます!
心に和歌を!