おいどんブログ

和歌・短歌を紹介します!

かくすればかくなるものと知りながら已むに已まれぬ大和魂(1/2 )

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和歌原文

かくすれば かくなるものとしりながら やむにやまれぬ やまとだましい 

かくすれば かくなるものと 知りながら 已むに已まれぬ 大和魂

吉田松陰

 

現代語訳 

海外渡航が大罪であることは充分承知している。しかし、国家危急の今、「已むに已まれぬ大和魂」が自分を突き動かしたのである。

『名歌でたどる日本の心』小柳陽太郎 他編・著 より

鑑賞のポイント

吉田松陰の略歴

吉田松陰は幕末の思想家であり、教育者です。
長州藩(今の山口県)に生まれ、将来を嘱望された人物でありました。しかし、友人との仇討ち旅行に参加する為、脱藩。
また、ペリーの船に乗り込もうとして失敗し幕府に捕まってしまいます。

この行動により牢屋に入れられてしまった松陰は牢屋を出た後に松下村塾で教え、高杉晋作久坂玄瑞伊藤博文などの多くの志士を育てました。

しかし、時の老中 間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺を企てたということで30歳の時に安政の大獄によって刑死しました。

②「かくすれば・・・」の歌をよむまでの経緯

■1853年(嘉永六年)浦賀にペリーが来航

江戸にいた松陰は師匠と共に黒船を見に行きました。
最初は憤慨した松陰でありましたが、
日本の為に自ら外国技術を学ぶ!と留学を決意。
しかし、当時外国に行くことは「死罪」となる大罪でありました。。。

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ペリーが去って1か月後。プチャーチン率いるロシアの艦隊が長崎に入港しました。このことを松陰は知り、「ロシア艦隊に乗り込み外国へ行こう!」と長崎に向かいます。

しかし、既にロシア船は出航しており失敗に終わりました。

 

1854年安政元年) ペリーが再び来航

ついに日本の鎖国が解かれ日米和親条約が締結されます。

その日米和親条約が締結された後、下田の海に浮かんでいたペリーの船。
そこに、吉田松陰は弟子の金子重之助と共に小船で近づき、見事乗船に成功します。
そして黒船の船員に対して
アメリカに連れてって欲しい」と訴えました!!

しかし、やっと条約を締結した直後。幕府をあえて怒らせるようなことをしたくないアメリカ側は松陰達の依頼を拒否しました

残念ながら松陰と金子は密航に失敗し、幕府に自首します

そして捕縛されてしまいました。

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江戸の獄から地元長州に移送される途中、

高輪泉岳寺前で今回の短歌「かくすれば・・・」を松陰は詠みました。

この泉岳寺赤穂義士のお墓があるお寺です。
自らの心を赤穂義士に寄せて詠んだ
のでありました。

 

③松陰「密航」前の言葉

松陰がアメリカに密航しようとした時の熱い想いを紹介します!

 

拙者はこのたびの事を行う以上、失敗したらさらし首となることを覚悟している。しかし、諸君も今日からそれぞれ一つのことをやって国に報いれば、その成否いかんにかかわらず、国家の命脈を養うことになるではないか。そう思わないか。」

 

胸が熱くなりますね!
~『回顧録』より意訳版 ~ 

アメリカ側の史料から見た吉田松陰

次に密航しようとした松陰・金子の事が書かれたアメリカ側の史料を紹介します!

 

「・・・動作は礼儀正しく、非常に洗練されていた・・・この事件は厳しい国法を犯して、知識を増やすために生命を賭けてきた二人の教養ある日本人の激しい知識欲を示すものとして、興味深いことであった・・・」

 

そもそも、当時英語で会話なんてもちろんできない。その中で、突然船に乗り込み、「アメリカに連れて行ってくれ!」と訴えるするのは本当にすごいことです。清水の舞台から飛び降りるどころではない、覚悟でありますよね。

 

⑤この歌から学ぶ松陰のすごいところ

1、国レベルの事象に対して自分事として捉えていること。

国家単位の出来事を自分事として捉え、考え、行動することが果たして今の自分にできるでしょうか。

 

2、頭で考えたことを実際に行動していること

当時「異人を斬り捨ててしまえ!」や「アメリカの先進的技術を学ぶことが大事だなんてことを口にする人はいたが、松陰はそれを実行に移しました。「言う」と「行動」では100万倍の差がありますね。

 

3、勢いの行動ではない。冷静且つ大胆

決して単なる暴走ではない。冷静に頭で考え、大胆に行動に移している。 冷静になると行動できないし、大胆だけだと行動に一貫性がなくなる。松陰は冷静かつ大胆!

 

「かくすればかくなるものと知りながら」
つまり、頭ではどういうことをしたらどうなるかは分かっていた!

「已むに已まれぬ」

しかし、心がどうしても自分を行動に掻き立てるのだ!

大和魂
その心とは「おれは日本人である」という大和魂である!

 

日本のためにはアメリカの技術を学ぶことが必要である。しかし、外国に行くことは大罪である。この矛盾の中、自らを行動に掻き立てるのは信念でありました。それはヤケになった行動ではなく、いたって冷静な行動であります。自分の信念に忠実に行動し、その行動の結果が自らにとっては最悪の「死」という結果であっても、それは良しとする。

なぜなら信念に従って行動したことは、必ず人に伝わり、結果日本の為になる。と松陰は確信していたのです。

 

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「かくすればかくなるものと知りながら已むに已まれぬ」
そんな決断を人生で何度できるでしょうか。
自分事として考えると、松陰の偉大さがよくわかりますね。

 

自分の信念は何か?いざという時「行動」を選択できるか?自らにたまに問いかけてみてもよいのではないでしょうか。

 

心に和歌を!

お読みいただき、ありがとうございました。

 

 ↓次は更に詳しく、松陰がペリーの艦隊に乗り込むまでを追います!

oidon5.hatenablog.com

 

 

 

 

いにしへの御代の教にもとづきてひらけゆく世にたたむとぞ思ふ

 

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和歌原文

いにしへのみよのおしへにもとづきて

ひらけゆくよにたたむとぞおもふ

 

いにしへの 御代の教にもとづきて

ひらけゆく世にたたむとぞ思ふ

 

明治天皇

 

現代語訳と文法

むかしの時代の教えにもとづいて、開いていく未来にたちむかっていこうと思う。

 

文法はこちら↓

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鑑賞のポイント 

①「2月11日」は何の日? 

 このブログ投稿の2月11日は何の日かご存じだろうか?そう!

建国記念の日」 である。

初代天皇 神武天皇が橿原の地(現在の奈良県橿原神宮の場所)で即位したのが2月11日と『日本書記』に記されている。

ということで、本日は「建国記念の日」となりました。

 

②「建国記念の日」の「の」ってなに?

 「建国記念日」ではなく、「建国記念日」なのはなぜでしょうか。もともと、明治時代に「紀元節」という建国を記念する日がありました。

しかし、戦争に負けGHQによって廃止を命じられちゃいます。ところが昭和に入り、もう一度復活させよう!という運動が起こり、

1966年(昭和41年)祝日に加えられ、翌年から適用されました。

 

その際に「そもそも本当にこの日に神武天皇は即位したの?」「神武天皇がいた科学的根拠はない!」などなど野党から批判もあったため、あくまで

「この日に日本はできました!」というようりは・・・

「日本ができたことを記念している日」

というちょっと曖昧な表現にしました。

それが「の」の役割です。

 

③日本は建国何年目? 

皇紀(こうき)」という日本独自の年代のあらわしかたがあります。この場合、神武天皇即位の年を元年としており

今年2019年は・・・

 

皇紀二六七九年

 

この計算の仕方は簡単です

今の西暦+660年=皇紀

2019年+660年=皇紀2679年

 

日本は本当にすごい長い歴史をもった国なんですね!

 

④世界から見た、日本の皇室の長さ

例えば、皇室・王室の長さでよくいわれるのが、下記です。

1 天皇家     125代 

2 デンマーク王室 54代

3 イギリス王室  40代

世界一長く続く天皇家

 

「だからどうした?」と斜めに見ずに・・・単純にすごい!継続するものには価値があるですね。

 

⑤建国の理念を知る意義

よく「おかげさまで100周年」というような企業CMを見ないでしょうか。あれは2つの目的があります。

1、お客様、取引先様への感謝

2、従業員へのインナーモチベーション(この会社で頑張るぞ!という気持ち)向上

特に、2を目的とすることが多いです。

何となく毎日通っている会社にも、創業の熱い理念があり、紆余曲折があって、何とか今まで続いてきている。その「理念」を社員が共有している会社は強い。ということです。

 

では、国には理念があるのでしょうか?

実はあるのです。それが・・・

「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむ」

神武天皇の言葉です。

意味は、「天地四方八方の果てにいたるまで、この地球上に生存する全ての民族があたかも一軒の家に住むように仲良く暮らすこと。つまり世界平和の理想を掲げたもの」と橿原神宮HPでは説明されています。

御神徳|橿原神宮

 

「戦争の際の合言葉に使われた」「侵略を意味する」などと言う人もおりますが、国としての理念をはっきり持つことその理念を胸に未来を創造すること。が重要で、私は上記橿原神宮HPの解釈が日本らしく好きであります。

 

会社の成り立ちを知ること。

国の成り立ちを知ること。

両方とも自分の属する組織のルーツを知ることでありルーツが今の自分の使命と未来への方向性を示してくれます。

それは個人も同じで自己分析とは、自分を知ること。自分を知らなければ、自分の未来戦略も立てられないのであります。

 

⑥この歌の意味 

 さて、長く遠回りしてきましたが、この和歌の意味を考えます。明治天皇と和歌」については以前ブログで紹介しましたが、たくさんの和歌を詠んだ天皇です。

 

oidon5.hatenablog.com

 

 

今回の和歌は「明治」という日本が大きく転換していく時代に、その先頭に立つ者としての意志を詠んものです。「ひらけゆく世」に対処していく中で明治天皇が大切だと考えたのが「いにしへの御代の教」でした。

明治時代は文明開化、西洋文明をとにかく輸入し、日本古来のものは「古い。遅れている。野蛮だ。」とエリート達が考えた時代でした。その中で、先頭に立つ明治天皇

「いにしへの御代の教にもとづきて」と考えたことは、今の日本を考える上で非常に重要なことです。

 

明治という時代は日本を見失いつつあった時代でもありました。それに悩んだ新渡戸稲造は『武士道』を書くことで自分の中の日本に整理を付けました。他にも岡倉天心など、急速な西洋化と日本の良さのはざまで「日本」をあらためて考えた方々が明治時代にはおりました。その中で明治天皇も日本の行く末を危惧していたのです。

教育勅語」をあらわしたのも、「日本らしさ」を急速に失いつつある日本を危惧して、

まさに「明治天皇」が「勅語」したのです。

あれから戦争を経て、日本は何を失い、何を残しているのでしょうか。明治天皇が残そうとしたものは残っているのでしょうか?

(その確認には教育勅語をよんでみるのがよいかもしれません)

ルーツを知ること。過去を知ること。そして未来へ活かすこと。

その謙虚な過去への姿勢が未来をひらく。

そういう想いでもう一度日本の成り立ちを今日は考えてみませんか?ITが発達する未来のイメージが全く関係ないと思われる歴史を学ぶ中で、「ふと」頭に浮かぶかもしれません。

 

最後まで読んでいただき、

ありがとうございました!

 

心に和歌を!

 

 

世の中は 常にもがもな 渚漕ぐ 海人の小舟の 綱手かなしも

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和歌原文

よのなかはつねにもがもななぎさこぐあまのをぶねのつなでかなしも

世の中は常にもがもな渚漕ぐ海人の小舟の綱手かなしも 

 

源 実朝(鎌倉幕府 第三代将軍)

『金塊和歌集』 『新勅撰集』 小倉百人一首

 

現代語訳と文法

世の中はいつもこうであったらなあ。

波打ち際を漕ぎゆく漁師さんの小舟の綱手をひっぱっている姿の

いとおしいことよ。

 

文法はコチラ↓

 

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文法

鑑賞のポイント

源実朝の歌、第二弾です!

今回の歌は、小倉百人一首にも選ばれている、めちゃくちゃ有名な歌です。

 

前回伝えきれなかったことを交えて、

源実朝について更に詳しくお伝えできればと思います。

 

①実朝さん高評価

「仰せの如く近来和歌は一向に振ひ申さず候。正直に申し候へば万葉以来実朝以来一向に振ひ申さず候。実朝といふ人は三十にも足らで、いざこれからといふ処にてあへなき最期を遂げられ誠に残念致し候。あの人をして今十年も活かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ申さず候、とにかく第一流の歌人と存候。」

 

この言葉、ある有名な本の一番冒頭な一文なんです。それは・・・

歌よみに与ふる書正岡子規 です。

明治に入り、和歌をもう一度評価しよう!と活動した正岡子規

その一番最初に実朝は登場します。それもべた褒め!

 

②『金塊和歌集』ってどういう意味?

金→鎌倉の鎌の「かねへん」

塊→塊門とは「大臣」の中国唐の名前

だから、鎌倉右大臣の歌集 ていう意味。

 

③実朝暗殺の舞台 鎌倉の鶴岡八幡宮

1063年源頼義が奥州平定より戻った際、

源氏の氏神として出陣の際してご加護を祈願した京都の石清水八幡宮を鎌倉の由比ヶ浜辺にお祀りしたのがはじまり。

1180年源頼朝が源氏再興の為、鎌倉に入りすぐに現在の地にお遷しした。

 

由比ヶ浜からまっすぐに鳥居が鶴岡八幡宮にむかってのびる姿は、とても美しいです!

 

海がどれだけ近いか分かりますね↓

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この階段をのぼれば本殿!

向かって左。狛犬の上あたりに、大きな切株が囲われています。

↓これが実朝暗殺部隊が隠れていた大銀杏(の切り株)

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八は「ハト」になってます。

みんな大好き鎌倉名物「鳩サブレ―」はここからきてます↓

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なんと今年2019年は実朝没後800年!↓

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④和歌を味わおう

そろそろ、和歌に戻ります!

 

今回の情景は冒頭の絵のようなイメージでしょうか。漁師の乗る小舟を綱でひっぱる。

そのなにげない日常のワンカットを眺める実朝は「常にあって欲しい世の中」をこの情景に見出したのである。

漁師にとっては単なる日常ではあるが、

この日常こそかけがえのないものに実朝にはうつった。

 

そして「もがもな」→実現の可能性のすくない願望

 

というところが悲しい。

常にあって欲しいがそうはいかないという想いが胸に去来する。そうだろうか。

日常はずっと続くはずだ。

実朝の胸の奥には何がそうさせてくれないのだろうか。

戻らなければいけない政治の世界?

実朝にとって戻らなければいけない世界を一瞬忘れさせてくれた。

そんな気持ちを歌ったのだろうか。

 

⑤残したい「日常」

みなさんにも実朝のように残したい日常の瞬間はあると思う。

 

例えば私は、朝の出勤時間に

スーツを来たお父さんと小さな子供が手を繋いで歩く姿に「残したい!」と思う。

席を譲り「申し訳ないです本当に」と謙虚にお礼するお上品なお婆さんを見ると「残したい!」と思う。

 

何気ない日常の美しさを集める。

それは「何気なく」はもちろんであるが、

意識するよりたくさん発見できます。

 

例えば「和歌をよんでみよう」と心に持つだけで、

たくさんの「何気ない日常」が心打つものに変わってくるでしょう。

 

心に和歌を!

お読みいただき、ありがとうございました!

 

大海の磯もとどろによする浪われて砕けて裂けて散るかも

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和歌原文

おほうみのいそもとどろによするなみわれてくだけてさけてちるかも

大海の磯もとどろによする浪われて砕けて裂けて散るかも

 

源 実朝(鎌倉幕府 第三代将軍)

『金塊和歌集』

 

現代語訳

大海の岩も轟くように寄せる波 

割れて砕けて裂けて散っていることよ

 

おほうみ(大海):大きな海

いそ(磯):波打ちぎわで岩石の多いところ

とどろ(轟):大きな音がとどろきわたる

かも:詠嘆 ~なことよ

 

鑑賞のポイント

源実朝を知る

鎌倉三代将軍 源実朝(さねとも)の歌!

まずこの人物について知っていきましょう!

 

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実朝はみなさんご存知の鎌倉幕府を開いた

源頼朝 と 北条政子 の次男でした。

二代目将軍の兄が追放され、

三代目将軍に就いたのは

実朝12歳の時でした。(今なら小6か中1!)

 

歴史上、「三代目の将軍」は、、、

結構イケイケです。

「我は生まれながらの将軍ぞ!」

と凄んだ徳川家光

南北朝の時代を終わらせた 足利義満

 

しかし、実朝については、みなさんよく知らないのではないでしょうか・・・。

 そう、実朝は「悲運」の将軍だったと

言われております。

  

父である源頼朝がこの世を去ると、

兄の頼家が二代目将軍となります。

しかし若造が政治の中心では心もとないと、

13人の有力な御家人の合議制で政治は動かされることになります。

そうなると、将軍と有力御家人の間でなんだかんだと揉めることもあり、

頼家の後ろ盾であった御家人の比企氏を母方の北条氏が攻め滅ぼし、

兄頼家は将軍職を追放

後に暗殺されてしまいます。

 

そうして三代目将軍となったのが実朝です。

冒頭の通り12歳での就任。

思い通りに政治ができるわけがありません

大人たちの思惑が行き交う政治の中心にいながら、

将軍として生き、度重なる謀反、権力争いなどを乗り越え、

武士で初の右大臣にのぼりつめます。

 

しかし、

たくさんの葛藤があったと思われます。

「当代(実朝)は歌鞠をもって業となす、武芸廃れるに似たり」

なんて言われたり、

「官位を高める必要が、われわれ武士には必要か?」

と武士でありながら高い官位を懐疑的に見られたり。

 

本気で「俺は宋(中国)に行く!」

と言い出し、皆に止められても聞かず、

船を建造して海に浮かべたり。

(うまく浮かばず、あえなく断念)

 

老練な大人たちの中でお飾りの将軍として、

とっても空しい日々を過ごしていたのでした。

 

そのような実朝に突然悲劇が襲います。

 

建保7年(1219年)

雪が積もる夜の鶴岡八幡宮

 

右大臣就任拝賀にやってきた実朝は

約1,000人の武士達を宮の外に待たせ、

お付きの者と参拝にむかった。

 

その丸腰の実朝に突然!

 

「親の敵はかく討つぞ!!」

 

公暁(くぎょう)という青年と数人の仲間が

隠れていた銀杏の木の後ろからあらわれ、

実朝を殺し、首を持ち去ってしまいました。

 

この公卿という青年は兄頼家の子供で出家させられていた自分の甥です。

確かに自分の父は将軍職を追われ殺された。

そして次の将軍になったのが実朝だった。

とはいえ、

直接的な「親の敵」だったとはいえない。

この事件により公卿も殺され、

結局源氏の一族から将軍が出せなくなったことからも

「他に黒幕がいたのか」とも言わております。

 

享年28歳。

それにしても早すぎる死でありました。

 

ちなみに、最近の研究では、実朝はただのお飾りではなく、

積極的に政治に関わっていたとも言われております。

実朝について知るには『吾妻鑑』が詳しいですが、

この書物自体、実朝の死後に鎌倉幕府で権力を握った北条家の治世時のものであり、

北条家寄りに記述されていることを頭に入れて読むべきと言われております。

実朝がどれだけ当時力をもっていたのか・・・。

いずれにしても、源氏の棟梁とはいえ専制政治ができたわけではなく、

北条氏をはじめとした武士たちの中で、苦労は絶えなかったと思われます。

 

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鶴岡八幡宮にて

 和歌を味わう

さて、実朝の人生を垣間見たところで、和歌に戻ります。

実朝にとっての和歌は自分の心を開放できる大切な手段

だったのでしょう。

 

その実朝が冒頭の歌をうたいました。

批評家の小林秀雄は『実朝』にてこうおっしゃっております。

 「こういう分析的な表現が、何が壮快な歌だろうか」

 「これが、ある日悶々として波に見入っていた時の彼の心の嵐の形でないならば、ただの洒落に過ぎまい。そういう彼を荒磯に置き去りにして、この歌の本歌やら類歌やらを求めるのは、心ないわざと思われる。」

 

単なる荒々しい波をうたった歌。 

という印象が、

実朝を知れば知るほど変わってこないだろうか

孤独で、逃げ出したい。

その心うちを実朝は波にどう重ねあわせたのだろうか。

 

その激しく何度もぶつかる勇敢さに勇気をもらった?

われて・砕けて・裂けて・散る その無残さに自分を重ねた?

想い想いにこの歌を味わいたい。

 

人は自然に自分を重ねることがある。

自然と人は原理原則でつながっている。

そう思うと、自分が自然をふと眺める時。

自然を眺めているようで、自分の心の投影を眺めているのかもしれない。

 

そんなことを考えさせられる歌でした。

 

心に和歌を!

お読みいただき。ありがとうございました~

 

たのしみは 錢なくなりて わびるをに 人の来りて 錢くれし時

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和歌原文

たのしみは ぜになくなりて わびるをに ひとのきたりて ぜにくれしとき

たのしみは 錢なくなりてわびるをに 人の来りて 錢くれしとき

 橘曙覧(たちばなの あけみ) 

独楽吟(どくらくぎん)

 

現代語訳

たのしみは、お金がなくなって侘しくしていた時に、人が来てお金をくれた時

 

鑑賞のポイント

3連続 橘曙覧です!

なんて素直すぎる和歌なんでしょう!

全く背伸びがない、ありのまますぎます。

曙覧は学問を修め、それを教えることで生活をしていました。とはいえ、非常に貧乏でした。それは、以前の和歌(まれに魚煮て・・・)からも察せられると思います。

 

★これです↓

oidon5.hatenablog.com

 

自分の追及したい学問を修める人生。

この人生には満足しているが、

やはりお金も大切

「妻や子供にもいい物食べさせたいなあ」と

いくら学問を修めていたって考えるものです。そんな時、

「先生~、ちょっと教えて欲しいことがあって」と弟子がやってくる。弟子といっても、子どもではなく、自分の商売をしている者など多種多様。一通り橘先生に教えてもらった後の雑談の時か、帰る間際か。

「先生!もっといい物食べてくださいよ。」

とお金をすっと差し出す弟子。

先生は笑顔で、

「いやいやすまない。本当にありがとう」

と受け取り、客人が帰った後にうたったのがこの歌。という情景が浮かんできます。

(あくまで勝手な想像です)

 

「お金をもらう」歌なのにこの歌には暗さも、卑屈さも感じられません。

人間らしい。となんかほほえましいです。

それはあげる側にも、もらう側にも。執着が感じられないからでしょう。

 

人間らしさ、日本人らしさとは

そして急に日本の文化論に飛びます!

(ちゃんと戻ってきます)

最近読んだ『日本再発見』 岡本太郎

に非常に共感できる言葉がありました。


 

 

「壮大きわまりない極彩色の奈良朝文化、おおらかな平安文化、そしてこの桃山から元禄にかけての、濃いイマジネーションに彩られた豪快な豊さこを、われわれの血にひびく、むしろ最も日本的な伝統」

岡本太郎さんは、

「詫びしい」ものが日本の文化のように

思われがちだが、決してそうでない。

人間らしく、逞しく、素朴

が日本の文化だといっている。

私も非常に共感する。そして、

「人間らしく、逞しく、素朴」な日本人の心を感じたければ古事記が一番よい。

泣くは、笑うは、覗くなと言われて覗くは。

古事記』に出てくる神々は本当に人間らしい。

そしてこの『古事記』を訳した本居宣長などの学問系統が国学

そしてその国学を修めたのが→橘曙覧

 

 ★本居宣長国学についてはこちら↓

oidon5.hatenablog.com

 

ということで遠回りしたようで、

戻ってきました。つまり、橘曙覧の「たのしみは~」ではじまる独楽吟は、国学の学びのアウトプットだった。「人間らしく、逞しく、素朴」な人生を実践し、和歌で表現した

 

国学者 橘曙覧

 

学問を自分の人生で

きちんと昇華させた人物だったことが

分かりますね。

 

我々も学んだことは、

生活で実践していきましょう!

 

長文、読んでいただき

ありがとうございます!!!

 

心に和歌を!

 

たのしみは そゞろ読みゆく 書(ふみ)の中に 我とひとしき人を見しとき

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和歌原文

たのしみは そぞろよみゆく ふみのなかに

われとひとしき ひとをみしとき

 

たのしみは そゞろ讀みゆく書の中に我とひとしき人をみし時

 

   橘曙覧(たちばなの あけみ) 

    独楽吟(どくらくぎん)

 

現代語訳

たのしみは、なんとなく読みすすめていた本の中に自分と同じような人がいた時

 

そゞろ(そぞろ)→なんとなく

 

鑑賞のポイント

前回に続いて橘曙覧です!

「そうそう!」と思わずうなずいてしまう。

そんな歌がほんとに多いですね。

この和歌もありますよね~。

「その考え、分かる!」

「あっ、一緒一緒!」

「その行動ってこういう気持ちだったんだろうなあ」

勝手に共感しながら本を読みますよね

 

名作と言われる小説は特に自分がいませんか? 物語の中に共感できる心の機敏が

散りばめられているから名作なんですよね。

芥川龍之介の『トロッコ』なんて、

遠くに行きすぎて不安にかられる話ですが、

共感ポイントありまくりです。

また歴史上の人物の話にも勝手に自分を重ねてしまいませんか?「信長さん、わかる!」みたいな。この共感が実は歴史を学ぶということと私は思っています。

それは実証できるのか?科学的根拠は?

みたいなことをいうから歴史はつまらなくなる。感じたことを大切にするこれが歴史の醍醐味で読書の醍醐味!そして和歌の醍醐味!

 

昔の人も今の人も他人も。みんな独立した個でありながら、集合体として一つ。だから自分の感じたことは文字の中の人も感じた。

と信じきることで和歌や本や歴史は生きてくると思っています!

 

曙覧はそういう本の読み方をした。ということがこの和歌から感じられますね~。

 

自分の感性のままに本を読み、歴史を感じ、和歌を詠みましょう!!

 

心に和歌を!

最後まで読んでいただき、

ありがとうございます!

 

たのしみは まれに魚煮て 兒等皆が うましうましと いひて食ふ時

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和歌原文

たのしみは まれにうおにて こらみなが うましうましと いひてくふとき

 

楽しみは  まれに魚煮て 兒等皆が うましうましと いひて食ふ時

 

橘 曙覧(たちばなの あけみ)

独楽吟(どくらくぎん)より

 

現代語訳

たのしみは たまに煮魚をして、子どもたちが「おいしい おいしい」と言って食べる時。

 

鑑賞のポイント

『独楽吟』とは?

和歌7に続いて、橘曙覧です!

前回は悲しい歌でしたが、今回は幸せさが伝わってくる歌ですね。長女・次女・三女と早くに亡くした曙覧でしたが、長男・次男はすくすくと成長し、貧乏ながらも幸せな生活を送っておりました。

曙覧は家業を弟に譲り、学問に没頭していた為・・・貧乏でした。しかし!

お金がなくとも、幸せな生活。をありのままよみました。

それが、『独楽吟(どくらくぎん)』

すべての歌が「たのしみは~」ではじまる52首の歌です。

「たのしみは」と出だしでこられたら、楽しい気持ちになるしかない!そんな歌がたくさんあります。

 

等身大で和歌は大丈夫

さて、今回の歌にもどって。

皆さん、こう思いませんか?

「和歌ってこれでいいんだ!?」と。

貴族の人が、きれい や さみしい を歌に託したり。1つの言葉で2つの意味を持たせたり。というような印象がありますが、ストレートに伝わるのが一番です。

この歌は、あえて訳をする必要がないほど、分かりやすいです。

そして、その情景も目に浮かびます。

そしてそして、食事の描写から、曙覧とその家族の幸せな生活全てが伝わります。

現代だったらどうなんだろう・・・

「たのしみは まれにまわりし 寿司食ひて コーンコーン といひてくふとき」

「たのしみは まれに炭火で 火を起こし 外が一番 といひてくふとき」とかかな。

みなさんの「たのしみは~」を毎日見つけましょう!

 

心に和歌を!

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

 

 

参考文献『名歌でたどる日本の心』国民文化研究会・小柳陽太郎 編著

 

 

きのふまで 吾が衣でに とりすがり 父よ父よと いひてしものを

抱っこ戦争

久しぶりの和歌ブログ

本当に1年あっという間です。「さあ、また明日更新しよう!」と思って、思って、また思って・・・。前回の投稿から、夏が過ぎ、秋が過ぎ、そして冬に突入していました。

2週間くらい置いている。そんな気持ちだったのに。

 

さて、最近、下の娘(もうすぐ5歳)が「抱っこ抱っこ」と言い自分の前に立ち止まると

攻防がはじまります。

 

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・・・結局、抱っこか肩車で落ち着くのですが、「言わなくなったら寂しいな。」て思う時があります。「今度は抱っこしてあげよう」と。

でも「抱っこー」と娘が言い出す時には、もうあの「寂しいな」て気持ちはなくなっています。本当に不思議です。

 

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そこで、今日紹介する和歌はこちらです!

 

和歌原文

きのふまで わがころもでに とりすがり ちちよちちよと いひてしものを

 

きのふまで 吾が衣でに とりすがり 父よ父よと いひてしものを

 

                   橘 曙覧(たちばなの あけみ)

 

現代語訳

昨日まで自分の袖にすがりついて

「お父さんお父さん」と言っていたのになあ

 

衣手・・・袖(そで)

ものを・・・「~のになあ」 詠嘆の終助詞

 

鑑賞のポイント

橘曙覧とはどういう人物か?

まずこの歌をよんだ「橘 曙覧(たちばなの あけみ」という人物はどういう人物か。

貴族みたいな名前だから「平安時代の貴族?」と思うかもしれませんが、1812年(文化九年) つまり江戸時代に越前福岡に生まれた人です。

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家業の紙商を継ぎながら、国学古典を学んでいました。2歳の時に母、15歳の時に父を亡くしており、「家族」を人一倍大切に想う人物だったのではと思います。

しかし、家族の不幸は続きます。

自分の子供も、長女・次女と生後間もなく死去。そして33歳の時に三女も病気で失いました。その時に読んだ歌が本日の和歌です。

 

娘への想い

この歌の詞書(歌の説明文のようなもの)にはこう書かれております。

「むすめ健女、今年四歳になりにければ、やうやう物語りなどして、たのもしきものに思へりしを、二月十二日より痘瘡(天然痘)をわづらひて、いとあつしくなりもてゆき(病が篤くなっていき)、二十一日の暁みまかりたりける(亡くなってしまった)。嘆きにしづみて」

 

「人生はいつ何があるか分からない。」

と言うけれど、それを実感として理解することは、体験者にしかわからない。

私には近い年の娘がいるので、「わが衣でにとりすがり 父よ父よと」言う 光景が目に浮かぶ。せいぜいそれくらいの想像しかできない。それでも悲しさが伝わる。

 

きのうまで体温として感じられた、

引っ張る小さな手。

「父よ父よ」という声。

それが突然終わるという悲しさが、

この31文字に凝縮されている。

 

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ああ、毎日最大限に周りの人を大切にしよう。そう思える今日の和歌でした。

 

抱っこしてあげよう。

いや

抱っこさせてもらおう。

 

心に和歌を!

最後までお読みいただき、ありがとうございます!!

 

 

 参考文献『名歌でたどる日本の心』国民文化研究会・小柳陽太郎 編著

 

仏にもまさる心を知らずして鬼婆なりと人はいふらむ

和歌原文

仏にも まさる心を 知らずして 鬼婆なりと

人はいふらむ

 

ほとけにも まさるこころを しらずして

おにばばなりと ひとはいふらむ

 

税所敦子 姑によむ

 

現代語訳

仏よりもすばらしい心を持っていることを

知らずに「鬼婆のようだ」と人は言っているという。

 

して】 ~のに、~にも関わらず。逆説の確定条件

【なり】 ~だ 断定の助動詞

【らむ】 ~ているという。推量の助動詞

    

 

鑑賞のポイント

今回は嫁が姑によんだ歌です。「鬼婆」という単語も出てくるので、嫁VS姑を彷彿させる歌ですが、実は感動的な歌なのです。どう感動なのかをみていきたいと思います。

鬼婆も感動の和歌

この歌をよんだ税所 敦子(さいしょ あつこ)は、1825年(安政八年)京都の公家侍 林篤国の娘として生まれました。父は歌人としても有名で、家で歌会が開かれるような家だったそうです。そのような家庭環境だったため、敦子も歌を習うようになりました。

 

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その歌の門人の中に、税所篤之(さいしょ あつゆき)という薩摩(現在の鹿児島)の藩士がおりました。彼は妻と別れ子供を地元に置いて、一人京都の薩摩出張所で勤務をしていた武士でした。敦子が20歳の時に、この篤之と結婚しました。

しかし、結婚相手は薩摩の武士。

薩摩といえば、男の中の男の国。古風を良しとする国である。女性である敦子には強くあたったそうです。周りの人々が心配すると敦子は

「夫は武士の妻として足らないところがある私を思って、つい荒くなってしまうのです。」と答える。本当にいい人だったようです。こうした妻の姿に夫も心穏やかになり、幸せな生活が続く。と思われましたが・・・敦子が28歳の時に夫は亡くなってしまいます。未亡人となった敦子。普通なら京都の家に帰るところを、なんと娘を連れて、夫の地元 薩摩に行くのでした。それも、姑、夫の前妻との間の子供、夫の弟家族の住む大家族の家に遠路はるばるです。

そしてこの姑が近所から「鬼婆」と称される気性の激しい人物だったようです。敦子はその家で、いじめられながらも献身的に姑に仕えました。ある日、機嫌の悪かった姑が敦子にいじわるなことを言いました。

 

「あんた、歌が上手だそうだねえ」

「いえいえ、そんな」敦子

「じゃあ、この句に上の句をつけて歌をつくってみなさい」姑

「は・・・はい」敦子

鬼婆なりと人は言ふらむ どうだい!!」

「・・・仏にもまさる心を知らずして鬼婆なりと人は言ふらむ・・・」敦子

 

じっと歌を見ていた姑は、突然感動で泣き出したといいます。どうです!!

黒を白で包んでしまうような。闇を光で包んでしまうような。

そんな敦子の清らかで美しい心が作り出した歌なのです。歌は心にないことをうたっても、相手の心をうつことはできません。本心のみが相手の心をうつのです。敦子の人格でなければうたえない歌なのです。

 

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明治の紫式部

その後の敦子の人生がまたすごいです!敦子は突然、薩摩藩の藩主島津斉彬の息子 哲丸の教育係に抜擢されました。今の大河の渡辺謙演じる、島津斉彬です!英雄は英雄を知る。と言いますが、斉彬といえば西郷さんを抜擢した名君です。その名君から敦子も抜擢されていたのでした。しかし、斉彬も哲丸も急逝してしまいます。すると次は、1863年(文久三年)敦子38歳の時に、島津久光の養女貞姫の公家の名家である近衛家への輿入れに従うことになります。薩摩からふたたび京都に戻る事になりました。

近衛家で12年仕え、もうゆっくり余生をと思っていたら・・・

1875年(明治八年)敦子51歳の時に今度は明治天皇の皇后である昭憲皇太后

歌の相手として宮内省に出仕することになりました。そこでは、外国要人接待の為、英語、フランス語も学び、短期間で習得されたといいます。当時の宮内卿であった伊藤博文は敦子のことを「あれほど素晴らしい婦人にあったのははじめてだ」と言い、人々は「明治の紫式部と称しました。

 

人々から愛された敦子は、その人生を1899年(明治32年)でとじました。

享年76歳。

 

目の前のことに一生懸命

税所敦子の生き方は私達に多くのことを教えてくれます

 

・目の前に与えられた役目を、とにかく一生懸命果たしていくこと。

・起こる事は全て自分に原因を求めて、自分事とすること。

・そして素晴らしい生き方をする人物を、見ている人は必ず見ている。

 

このようなことを思いながら、もう一度冒頭の歌を味わってみてください。

「仏にもまさる心を知らずして」この17文字がすっと出てくる敦子の心が人生を切り開いた。と思います。ゴールを設定し計画的に毎日を生きることも大切ですが、税所敦子のように与えられる目の前のことを一つ一つ乗り越えていく。そんな生き方が日本人らしい生き方なのかもしれません。

 

心に和歌を!

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

 

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もののふの よろいのそでを かたしきて まくらにちかき はつかりのこゑ

和歌原文

 

もののふのよろいのそでをかたしきてまくらにちかきはつかりのこゑ

 

武士の鎧の袖を片敷きて枕に近き初雁の声

 

上杉謙信 陣中にて

 

現代語訳

鎧の袖の片方を敷いて仮寝をしていると

初雁の鳴き声が、枕もと近くで聞こえる。

【かたしき】・・・

元来、衣の片袖を敷いてひとり淋しく寝るの意。

はつかり】・・・

秋になると渡来してくる雁のこと。

    

鑑賞のポイント

戦い前の孤独な歌

この歌を詠んだのは

男なら好きな武将に挙がる上杉謙信

謙信と言えば、戦国時代に「軍神」として恐れられた、最強戦国大名の一人ですね。

武田信玄との川中島の合戦はとても有名です。

上杉謙信は宿敵武田信玄が周辺の国より

塩を封鎖された時に塩を送ったような

義侠心に富む人物でした。

(敵に塩をおくるのもととなる逸話)

また、戦いに明け暮れていながらも、

教養があった人物として有名です。

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冒頭の歌を謙信がよんだのは

天正五年(一五七七)能登攻略の為、

越中富山県)魚津城に陣を進めていた時でした。

「歌を詠む」と聞くと頭に浮かぶのが、

白い顔で、ぽっちゃりとした貴族が

「好きだ」「きれいだ」と歌を詠む姿が

思い浮かぶかもしれません。

しかし、そんなことはないんです!

心が動けば、武士でも歌を詠んでいたんです。

 

鎧の袖を片敷くとは、こんな感じだろか↓

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 「片袖を敷く」という言葉は、

元来貴族が添い寝をする時に

お互いの袖を敷きあって寝ていたことから

「敷いてあげる相手がいない」

つまり「一人寂しく寝る」という意味

使われていた言葉です。

しかし、この歌では「もののふの」「よろいの」

と畳みかけているので、

そのような、なよなよした寂しさではない!

命を賭ける武士の、戦い前の孤独感

が感じられます。

 

夜が明ければ、命を賭けた戦いが始まる。

そのような緊張感が張り詰める静かな夜。

そこに雁の声が響く。

とても静かな夜であるから、その鳴き声はよく聞こえる

 

陣中、話す者のいない中、

唯一声を出してよい雁が鳴いている。

まどろみながらその声を聞く武士たちの緊張感は

いかほどだったか。

 

そんなことを感じながら、

是非詠んでいただきたい歌です!

 

上杉軍の統率・強さはこういうところに

あったのかもしれません。

 

戦い前の上杉軍

ちなみにこんな逸話があります。

(原典が分からなかったので、記憶違いならすみません)

時はくだり上杉謙信は亡くなり、上杉景勝の時代

徳川家康のもとで、大阪の陣をたたかっていた時の話

ある徳川家の武将が景勝の陣を訪れたところ、

全兵士が一言も話さず

まっすぐ敵陣地を見て待機していた。

その姿に、さすが上杉軍と、みなが関心したとのこと。

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最後に

戦国武将の歌、いかがですか?

たった三十一文字の和歌から上杉軍を感じられる

ってすごくないですか!!!

言葉は空間を超えますね! 

  

心に和歌を!

お読みいただき、ありがとうございます!

敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山桜花

和歌原文

敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山桜花

 

しきしまのやまとごころをひととはば

あさひににほふやまざくらばな

 

本居宣長 

六十一歳の時の自画像と共に書かれた歌

 

現代語訳

 

大和心とは何かと人が尋ねるなら、

朝日に照って輝く山桜の花

(であるとこたえよう。)

 

日本人である私の心とは

朝日に照り輝く山桜の花の美しさを知る

その麗しさに感動する

そのような心です。

本居宣長記念館HPより)

 

【敷島の】・・・

大和・日本(やまと)にかかる枕詞

【大和心】・・・

反対語は漢心(からごころ) 

後ほど詳しく!

【匂ふ】・・・

現代の「匂う」は<香りが匂う>意味で使うが、昔は(花が)<美しく咲いている・美しく映える>という意味でも使った。

【山桜】・・・

日本でよく見かけるソメイヨシノは里桜。

奈良の吉野の桜など自生する桜の代表的な種が山桜。         

 

鑑賞のポイント

 

この歌をよんで、みなさんはどのような印象をもつでしょうか?

「なんだか勇ましいなあ。」

という印象を受ける方もいるのではないでしょうか?しかし、それは本居宣長の本意から大きくずれてしまうんです。この「うた」をいいきっかけに、「大和心」というものをもう一度しっかり考えてみたいと思います。

 

大和心は生きる知恵!?

私が非常に感銘をうけた「大和心」のお話があります。小林秀雄(こばやし ひでお)というとても有名な批評家の方の「文学の雑感」

という講義録の中にそのお話はあります。

 

どういうお話か要約すると・・・

「大和心」という言葉は平安時代の言葉で、

平安時代以後に使われなくなった言葉でした。(「大和魂」という言葉もそうでした。)

では平安時代に使われていた「大和魂」という言葉の意味は、どういうものだったか。

『今昔物語』に次のような使い方があります。

 

『今昔物語』のお話

平安時代。ある博士の家に泥棒が入りました。博士はうまく隠れていたが、好き勝手して引き上げる泥棒に口惜しく思い、引き上げるその後ろ姿に叫びました。

「貴様らの顔は覚えたぞ!明日の朝になったら警察に届けてやる!」

そうすると泥棒達は戻ってきて、その博士を殺してしまいました。

 

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『今昔物語』の作者は言います。

はめでたかりけれども、

つゆ大和魂なかりける者にて、

かかる心幼き事をいひて死ぬるなり」と。

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ここで使われている大和魂と比較されて使われています。

「才(=知識)はある博士だったが

大和魂(=生きた智恵)がなかったので、

こんなしょうもないことをして死んでしまった」

つまり・・・

大和魂・大和心とは

「柔軟な、人間のことを良く知った智恵」

なのです!

ちなみに、大和心漢心(からごころ)というものがあります。漢心とは漢文を操る、中国かぶれのこころ。当時中国が最先端の知であったので、知識偏重というような意味だったのでしょう。

 

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時を経て・・・江戸時代に話をうつします。

江戸時代の学者=儒教朱子学)の学者

                            =中国の古典を学ぶ者

でした。科学や文学や心理学とかでなく、中国の古典を学ぶ者。それは幕府がそう推奨していたからでした。そのような風潮の中・・・

「いや日本古来の良さがある!」

ということで、日本の良さをもう一度日本人に広めたのが本居宣長国学者なのです。

 

「大和心」の意味をよく理解した

国学者 本居宣長が、うたった歌が冒頭の歌です。もう一度この歌を味わってみてください。

 

歌を味わう

 

朝の日の光に照らされる山桜の花。

その姿を見て「ああ美しいなあ」と感じる。

この心が日本の大和心。

この景色を「美しい」と感じられる。

その心からこみ上げてくる感覚。

それ自体が〈日本人が日本人たる所以〉なのです。

 

まとめ

「大和心」「大和魂

本来の意味を理解すれば、

日本人とは何か?

の問いに対しての自分なりの解を

持てるかもしれませんね。

 

古事記』を解読した本居宣長

日本人とは何か?の答えに

朝の日の光に照らされる山桜の花を美しいと感じる心。と導き出しました。

 

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アメリカ人はアメリカ人らしく。

ドイツ人はドイツ人らしく。

インド人はインド人らしく。

中国人は中国人らしく。

イラン人はイラン人らしく。

エジプト人エジプト人らしく。

そして日本人は日本人らしく。

 

自国を知ることで、世界への貢献のしかたもみえてくる。

われわれはこの感性を大切にしていきたいですね。

 

心に和歌を!

最後までお読みいただき、

ありがとうございます!!!

 

秋の夜の月にむかひて祈るかな國の光のまさりゆく世を

和歌原文

秋の夜の 月にむかひて いのるかな 國の光の まさりゆく世を

 

あきのよの つきにむかひて いのるかな くにのひかりの ましりゆくよを

 

明治天皇御製 明治三十八年 

 

 現代語訳

秋の夜の月に向かって祈るのだなあ。

この月の光のように、国の光が隅々まで

行き渡る世の中を。

 

・秋の夜の月
秋は十五夜の月でもあり、
昔から月がきれいな季節と
言われています。

・かな
か―な。終助詞。
「~だなあ」 

・まさりゆく
まさり(増さり)-ゆく(行く)。
「どんどんそうなっていく。」

          

鑑賞のポイント

 

明治天皇は非常にたくさんの短歌を詠まれました。
天皇・皇族の歌は「御製(ぎょせい)」といいます。)
その数なんと九万三千首 余り!

 

九万三千首よもうとすると・・・

一日一首→年間三百六十首→二百五十八年!

一日十首→年間三千六百首→二十六年! 

心動けばすぐ歌にする習慣がないと決してできないことですね。

 

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素晴らしい歌の多い明治天皇の御製の中から、
現在靖国神社の拝殿の横に掲示されていた歌をとりあげました。

 

この歌がよまれた
明治三十八年(1905年)は日露戦争の年であります。

1月 旅順陥落

5月 日本海海戦バルチック艦隊を破る

9月5日 ポーツマス条約締結(日露講和条約を結ぶ)
    同日 日比谷焼き討ち事件

 

この歌が秋の夜の月について歌っているので、
日露戦争が終わったころに歌われたのでは
と推測されます。

 

天皇とは「祈る」ことを役割としている御存在です。
では何を祈るのか・・・
国民・国家の発展を祈っているのです。
この歌はまさにそのような天皇の御姿が目に浮かぶ御製ですね。

 

まさに「秋」真っ盛りの今!
世界が物騒になってきている中で・・・
国の行く末を考えずにはいられませんね。

  

秋の夜の月に向かひて・・・
あなたは何を祈りますか?

 

今日部屋を暗くし、
月を見て、
手と手を合わせ、
何か祈ってみましょう!!

 

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以上、最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

心に和歌を!

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

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和歌原文

 

やくもたつ いづもやえがき つまごみに やえがきつくる そのやえがきを

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

 

古事記』『日本書紀須佐之男

 

 現代語訳

何重にも重なりあう雲が立ち上る ここ出雲に立ち上るのは八重垣のような雲だ。
妻と住む宮にも八重垣を作っているよ そう八重垣を。

 

※「八雲立つ」は「出雲」にかかる枕詞。

 

鑑賞のポイント

 

日本最古の歌

なんとこの歌日本最古のです!
詠んだ人はスサノオノミコト
というよりはですね。

この歌の掲載は、『古事記』と『日本書紀』の
神代のお話の部分です。

 

では、どのようなお話の中で、
この歌が詠まれているのか、
見てみましょう! 

歌が詠まれるまでのお話

れ者のスサノオノミコト
姉であるアマテラスオホミカミに
天(高天原)より追放されてしまいます。
スサノオノミコトが辿り着いたのが
「出雲」(今の島根県)でした。 

ここでしくしく泣くおじいさんとおばあさん、そして娘に出会います。

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どうしたのだ?

 

わたしたちには八人の娘がいましたが、毎年この時期にやってくるヤマタノオロチに食われてしまいました。ヤマタノオロチは目は赤く、八つの頭、八つの尾を持ち、長さは谷八つ、尾根八つの大きさのオロチです。そして次はこの娘、クシナダヒメの番です。

よし!俺がそのヤマタノオロチを倒したら、娘を嫁にくれ! 

いいでしょう!

ということで、スサノオノミコトヤマタノオロチと戦うことになります。

とはいえ大きな体と8つの頭。
力だけで倒すことは難しい。

そこで8つの門と8つの棚を作り、
強いお酒を置いておくことにしました。 

 

ズルズル・・・スルズル。

地を這う大きな音と共にヤマタノオロチがやってきました。

ヤマタノオロチは酒を見つけると、
ガブガブガブと大きな音を立てて飲み始めました。
とても強いお酒です。
飲み干したヤマタノオロチ
大きないびきをかいて眠ってしまいました。

 

いまだ!!!

 

飛び出してきたスサノオノミコト
ヤマタノオロチに剣を突き立て、
見事勝利しました。
(この時ヤマタノオロチの体から出てきた剣が三種の神器の一つ草薙剣です)

 

おじいさん、おばあさんは大変感謝し、
約束通りクシナダヒメはスサノオノミコトのお嫁さんになりました。

 

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一緒になったからには、二人で住む場所が必要。
ということで二人の住まいを探す中、
須賀(すが)という場所に辿り着き、

なんとすがすがしいところだ!


とこの場所に家を建てることにしました。

 

その家が建てられた時に詠んだ歌・・・ 

それが冒頭の歌です!

 

歌を味わう

何重にも重なり合う八雲とはどのような雲なのでしょうか?
「八重垣つくる その八重垣を」と歌う自慢の宮は
どのような宮だったのでしょうか?
想像は膨らみますね・・・

 

見上げれば空にい雲。
その下には美しい色の映えるの宮が見えてくるようです。
そして、壮大な雲と希望に満ちた夫婦生活
スサノオノミコト家庭を持つ男としての意気込みが伝わってくるようです。

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大切な人と、住むところを決めて。
仁王立ちで空を眺める。
これが日本最古の歌。
人間らしい、神のお話。
これぞ日本の神話ですね。

 

前回は防人の歌でした。
(前回ブログは下記↓)

oidon5.hatenablog.com

 

今回は神の歌です。
「歌」は日本人、いや日本神も含めて、日本のみんながよんだもの。
「歌」の世界では神も人(どんな身分の人)も垣根がない!

素敵だなあ。

 

心に和歌を!ありがとうございます!!

 

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父母が頭かきなで幸あれて 言ひし言葉ぜ忘れかねつる

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和歌原文

ちちははが かしらかきなで さちあれて いひしけとばぜ わすれかねつる

 

父母が 頭かきなで 幸あれて 言ひし言葉ぜ 忘れかねつる

 

万葉集』よみひと知らず

 

現代語訳

 

お父さんお母さんが、自分の頭をなでで

「幸せでいなさいね」

と言ってくれた言葉が忘れられないんだ。

 

鑑賞のポイント

 

時は755年・・・奈良時代

「日本防衛のため北九州で3年間警備につく」という税の一種がありました。

それが「防人(さきもり)」です。

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この歌は、その防人についた東国(静岡より東・主に関東地方)の人の歌です。

任期は3年だったが、行き帰りは自己負担!

その為、二度と帰れない人もいたそうです。

 

明日は防人として出発の日。。。

出発前の最後の夜ごはんを親子で食べ、

小さい時の話に盛り上がったり。

でも心の奥にわだかまる別れることへのさみしい気持ち。

 

そして太陽が昇り、いよいよ出発当日。

「じゃあ行ってくるよ」という息子。

もう二度と会えないかもしれない、

その別れ難い瞬間、

 

「達者で、幸せであれよ」

頭をなでてくれた両親

 

ああ、少し小さく見えた

あの父母は今どうしているんだろうか。

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この歌を歌った時、

防人は北九州に向かう途中だったのか。

北九州に着いて海を眺めていたのか。

その心には今も同じ土地で、

同じ日常を送っているであろう父母が

うつっていた。

 

 

家族の大切さは、いざ離れるとなると、

妙に胸にこみ上げてくるものです。

大学進学。結婚。就職。

現代でも親と離れる場面が

それぞれにあります。

その時のなんとも言えないさみしさ。。。

このさみしさが

人を少し成長させてくれます。

 

-今親と離れて住んでいる方。

 

自分が生まれ育った、あの土地に、

今も父母は生活しています。

 

自分の生活に精一杯ですが、

たまには親を心に浮かべ、

そっと幸を祈る時間をとりたいものですね。

 

-これから離れる方

 

親のありがたみは、

離れてから気がつくものです。

一緒にいられる時間を大切にしましょう!

といっても

なかなか一緒にいると難しいですが。

 

 

約1262年前の祖先の方々と現代の私達。

長い時を経ても、

子が親を想う。親が我が子を想う。

この気持ちは共有できるって、

素晴らしいですね!

 

それも同じ「日本語」で!

 

同じ言葉を通じて昔の歌を詠んだ方の

心に触れることができる。

 

これが和歌の素晴らしさ!!

日本に和歌があってよかった!!

 

心に和歌を!

 

最後までお読みいただき、ありがとうございます!

 

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