おいどんブログ

和歌・短歌を紹介します!

後れても後れてもまた君たちに誓ひしことを我忘れめや

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短歌原文

後れても後れてもまた君たちに誓ひしことを我忘れめや

おくれてもおくれてもまたきみたちにちかひしことをわれわすれめや

 

高杉晋作  桜山招魂場での招魂祭にて

現代語訳

死におくれても。死におくれても。死んでいったみんなに誓ったことを私は忘れることはない

文法

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短歌を味わおう

高杉晋作という人物

この短歌は高杉晋作が詠んだものです。
高杉晋作と言えば、明治維新の立役者。
長州藩士であり、松下村塾門下生です。
武士以外で組織された奇兵隊の創設者として有名ですね。
一つ晋作らしい功山寺決起」のエピソードを紹介します。

時は元治元年(1865年)明治維新の2年前のことでした。
幕府は言うことを聞かない長州藩に対して兵を送りました。その数35藩から約15万人!第一次長州征伐と呼ばれるものです。
幕府に恭順しようという空気が長州藩内に蔓延する中、
「俺は幕府と戦う!ついてくる奴は今晩功山寺に来い!」
と晋作はたった一人立ち上がりました。
雪の降り積もる功山寺・・・
集結した人数はわずか84名(その中には伊藤博文もいました)。
晋作はこの仲間と共に、長州内に匿われていた公卿のもとにいきます。
そこで残した言葉が「これよりは、長州男児の腕前 お目にかけ申すべく!」
晋作は言葉通り、長州藩内の幕府恭順派と戦い、ついに藩内を幕府と戦う意思で統一させました。

これにより長州藩と幕府は戦うことになります(第二次長州征伐)。
この戦いで長州藩は次々と勝利をおさめ、
幕府の権威は大きく失墜することとなり、
明治維新が大きく近づいたと言われております。

 

しかし、この頃、晋作の体は既に病におかされていました。

 

功山寺決起から2年後の慶応3年(1867年)4月。27歳の若さで晋作はこの世を去ります。

大政奉還の半年前のことでした。

 

後に伊藤博文高杉晋作の顕彰碑に下記の文章をきごうしました。
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し 。衆目駭然として敢えて正視するものなし、これ我が東行高杉君に非ずや。」  

(動けば雷のようで。声を発すれば風雨のようだ。周囲はぼうぜんとして正視できる者はない。これぞ我らが高杉晋作である!)

酒と三味線を愛し、やる時はやる高杉晋作
男なら憧れる人物です。

 

こんなイケイケの晋作も、
実は、人生で何をすればよいか探し求め、落ち込んだ時期もあったのです。
故郷に帰り、お役所仕事に励んだり。
剣で生きる!と武者修行に出たが、あまり強くない自分に気付いたり。
これからは船の時代だと船に乗り込むがすぐに船酔いし「向いていない」と早々に下船したり。
江戸留学時は自分の命の使い方に迷い、酒浸りになり、「高杉に近付かない方がよい」と言われた時期もありました。
そのような中で志が固まっていき、皆が知る偉人になったのです!

死んでいった者達を想ふ

今回の短歌は桜山招魂場での招魂祭にて、高杉が詠ったものです。
この桜山招魂場とは攘夷戦争で命を落とした者を祀るため、晋作の発議により1865年、下関にて落成した神社です。
後に長州藩士も祀られるのですが、実は日本最初の招魂社なのです。
有名な招魂社と言えば「東京招魂社」後の「靖国神社」です!

 

今の我々では実感をもって理解できないのが、
志士達の死生観です。 
一緒に語り合った仲間達が次々と死んでいく時代。
自分の命の使い方。死への考え方は我々とは雲泥の差があったと思います。

 

今回の歌も晋作の人生観が詰まっています。
20代で既に死に遅れていると言う晋作の頭には、たくさんの仲間の姿が思い浮かんでいたことでしょう。
同窓として松下村塾で学んだ仲間も。
奇兵隊として一緒に戦った仲間も。
「国のため」と誓いあったその想いを全て背負って、晋作は生きていたのです。
それは自分の命を削るほどのものだったからこそ、晋作は若くして病に侵されたのではと思います。

 

想いのバトンを生きている者が繋いでいくことで今の日本がある。
そういうことを感じる今回の短歌でした。

 

心に短歌を!

最後まで読んで頂き、ありがとうございます!!!

 

参考文献『名歌でたどる日本の心』小柳陽太郎 他 編・著 草思社

田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 不盡(ふじ)の高嶺に 雪はふりける

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和歌原文

田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 不盡の高嶺に 雪はふりける

たごのうらゆ うちいでてみれば ましろにぞ ふじのたかねに ゆきはふりける

 

万葉集』 巻三 三一八  山部赤人

現代語訳

田子の浦静岡県の海岸)を通って、広々としたところから見ると、
真っ白!富士山の高嶺に雪が降り積もっているなあ。

 

文法

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鑑賞しよう!

田子の浦から見る富士はどんな富士山?

富士山に雪が積もる姿は誰もが感動するもの。その圧倒的存在感は、昔も今も変わりません。今回紹介した短歌は『万葉集』に掲載されている富士山の短歌です。約1300年前から富士山は人々を魅了していたのですね!

となると、この短歌はどこから見た富士山なんだろうと日本人なら知りたくなります。
ヒントは「田子の浦」!

 

地図で見るとここになります↓

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ではGoogleEarthでバーチャルに田子の浦に行ってみましょう!↓

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                                                                             GoogleMap streetviewより

もうちょっと天気がよかったら・・・

山部赤人万葉歌碑というものが「ふじのくに田子の浦みなと公園内」にあるようです。↓

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                        富士市HPより

田子の浦辺りから見る富士山はとてもきれいに見えますね。
山部赤人が見た富士山を同じ場所から見てから、短歌を味わうと、時空を超えた交流をしているようです。

※ちなみに当時の田子の浦と今の場所は違うという説もあります。

 

百人一首に選ばれた歌

この短歌はみなさん聞いたことのある短歌ではないでしょうか。
それはこの歌が百人一首に選ばれているからです。
百人一首の歌はこちらです↓

田子の浦にうち出でてみれば白妙(しろたへ)の富士の高嶺に雪はふりつつ

万葉集の歌と微妙に違いますね。
その理由は「ゆ」(~を通りすぎ)などの言葉が
百人一首の成立した鎌倉時代初期には使われなくなり、改変されたからなんです。
歌意は同じですが、万葉集バージョンをさらっと口ずさめば、あなたへの見る目も変わるかもしれませんよ!?

さてこの短歌は万葉集では別の歌とセットになっており、
反歌」と呼ばれるものです。

反歌・・・長歌の後に添えられている短歌

つまりこの短歌の前には長歌があります。
次にこの長歌を紹介します。

 

セットとなる長歌

山部宿禰(すくね)赤人、不盡山(ふじさん)を望める歌一首幷(ならび)に短歌

天地(あめつち)の 分れし時ゆ 神(かむ)さびて 高く貴き 駿河なる
布士(ふじ)の高嶺を 天の原 ふり放(さ)け見れば 渡る日の 影も隠れひ
照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける
語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 不盡(ふじ)の高嶺は

反歌

田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 不盡の高嶺に 雪はふりける 

 

富士山を色々な言葉で称賛してから、今回の短歌なんですね。
これを口ずさめば、更に更に!あなたへの見る目が変わる!?
というか、皆の口は開いたままになるでしょう!

 

山部赤人(やまべのあかひと)という人物

奈良時代の下級役人で、経歴が全く分からない人物です。
ただ万葉集には多くの歌が掲載されており、
1つ前のブログで紹介した柿本人麻呂と並び「歌聖」と呼ばれております。
同時代にはこのブログに登場した山上憶良大伴旅人などがおります。

 

最後に・・・
上り新幹線A席(三人掛けの窓側)に座り外を眺めていると、「田子の浦」という看板が現れます。この看板を見る度に今回の短歌を思い出すので、一度まとめよう!と思い立ったのが今回のブログの発端です。
今度あの看板を見る時は、より具体的に色々と想いを馳せられそうです。

 

心に短歌を!

最後まで読んで頂き、ありがとうございます!

雷神(なるかみ)の 少し響(とよ)みて さし曇り 雨もふらぬか 君を留めむ / 雷神(なるかみ)の 少し響(とよ)みて ふらずとも 吾は留らむ 妹し留めば 

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言の葉の庭」公式HPより

和歌原文

雷神の 少し響みて さし曇り 雨もふらぬか 君を留めむ

雷神の 少し響みて ふらずとも 吾は留らむ 妹し留めば

 

なるかみの すこしとよみて さしくもり あめもふらぬか きみをとどめむ

なるかみの すこしとよみて ふらずとも われはとまらむ いもしとどめば 

 

万葉集』 巻十一 柿本人麻呂

 

現代語訳

雷が少し響いて、空が曇り、雨も降らないだろうか。あなたをここに留めたいから。

 

雷が少し響いて、雨が降らなくても、私は留まろう。あなたが望むのであれば。

 

文法

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短歌 × 映像

新海誠監督「言の葉の庭」で詠まれる短歌

君の名は。」「天気の子」で有名な新海誠監督の作品の中に、言の葉の庭という作品があります。おもしろいのは、その中でなんと短歌が詠まれるのです。だからタイトルが「言の葉の庭」なんです。

 

ここで簡単にあらすじを(さわりだけ)

男子高校生のタカオは雨が降ると学校をさぼり、ある公園に行くことを習慣としていた。梅雨入りしたある雨の日、タカオがいつものようにその公園に行くと、缶ビールを飲む、若いスーツ姿のOL風の女性が一人座っていた。
彼女の名前はユキノ。
この日初めて会う二人。少し会話を交わした後、ユキノはタカオに一首の短歌を残してその場を立ち去る。

雷神の 少し響みて さし曇り 雨もふらぬか 君を留めむ

 

それから雨が降る日は、必ず公園で出会うようになったタカオとユキノ。
タカオは黙々ノートに絵を描き、
ユキノはいつも平日の朝からビールを飲んでいた・・・。
そんな二人は徐々に言葉を交わすようになる。
打ち解けていく中、タカオは自分の夢を打ち明ける。
一方ユキノは自分のことを打ち明けられぬまま梅雨があけ、
二人が会う機会はなくなってしまう・・・。


夏休み明けのある日、タカオはユキノを偶然見かけることとなる・・・。
そして短歌を残したユキノの意図とは一体・・・。

さあ、是非映像を見てください! 

 

↓予告映像はこちら 

https://www.kotonohanoniwa.jp/

本当に映像がきれいで、雨や緑にみとれてしまいました。
そう、短歌と映像がよくマッチする!
「短歌」を今の映像技術や音楽などと重ねると、
違う世界観ができあがるんだなあと一人感動して鑑賞しました。

あっ、音楽もこれまたいいんです!

自然に託す「恋」の気持ち

さて、ここでは気になる短歌の内容を説明します!
この短歌は、現代でも十分に伝わる男女の恋の歌
最初の短歌が女性。後の短歌が男性(柿本人麻呂)が詠んだものとなります。

 

まず女性から。

「雷神(なるかみ)の 少し響みて さし曇り 雨もふらぬか」
とたくさんの言葉を使って、畳みかけるように自然にお願いをしています。
「雷が少し鳴って、曇って、そして雨なんか降ってくれないかなあ・・・」と。
なぜ、そんなに雨をお願いするのか・・・それは・・・
「君を留めむ」
そう「今日はここにいて」と愛する男性ともっと一緒にいたいからなのです。
「今日はここにいて」と直接的に伝えるのではなく、「雷なったり、曇ったり、雨なんて降らないか」って遠回しに天気にお願いする、女性のいじらしさが伝わりますね。

では男性側はどう答えたか。
「雷神の 少し響みて ふらずとも」
と同じ描写を繰り返していますけども、末尾が少し違います。
「雷が少し鳴って、雨が降らなくても・・・
降らなくても・・・ということは・・・
「吾は留らむ」
そう「俺はここにいるよ」って。
更に畳みかけるように・・・
「妹し留めば」と更にあなたをきりっと見つめる(見つめたはず)
「君がここにいてくれと思ってくれるのであれば」と。

つまり 「天気なんか関係ない。君の為なら俺はここにいる」
柿本人麻呂は応えたのです。とても素敵な恋の歌のやりとりですね。
こんなやりとりしたことありますか!?
恋人がいる方は雨が降った日の帰り際に、是非この短歌を使ってみてください!

 

言の葉の庭」とこの短歌の意味を合わせてみると、
ユキノさん。よく男子高校生にこの短歌をぶつけたな。と思います。

 

自然に自分の気持ちを託す表現は、短歌によく出てきますが、
今の私達には難しいですよね。
自然に自分の気持ちを託す。ということは、
自然を感じられる感性+自分の気持ちを言葉にする感性
があってはじめてできることです。
両方を磨いて、このような短歌を詠める大人になりたいですね。


心に短歌を!

 

最後までお読み頂き、ありがとうございます。

 

 

 

露と落ち露と消えにしわが身かななにはのことも夢のまた夢

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和歌原文

 露と落ち 露と消えにし わが身かな なには(浪速)のことも 夢のまた夢

 

つゆとおち つゆときえにし わがみかな なにはのことも ゆめのまたゆめ

 

豊臣 秀吉

現代語訳

露のように生まれ、露のように死んでいく、私の人生であったなあ。色々なこと(大阪で過ごしたこと)もまるで夢の中のことのようだ

文法

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鑑賞のポイント

太閤さん

日本の偉人で「さん」を付けて呼ばれる人物を挙げるとしたら、
みなさんは誰を思い浮かべるでしょうか?
「西郷さん」「太閤さん」
私はこれくらいしか思い浮かばなかった。
〇〇さんは尊敬されながらも愛嬌ある人物にしかつかない呼称なのである。
尊敬と愛嬌を持ち合わせることは難しいのだろう。

 

今回の短歌は「太閤さん」つまり豊臣秀吉の辞世の句と呼ばれる短歌である。
低い身分から織田信長に仕え、その中で出世を重ね、
信長亡き後は天下を握ることとなった。
日本の歴史上類を見ない成り上がりの人物である。
一方「サルと呼ばれていた」「人たらしで天下をとった」
とどこか愛嬌を感じさせる人物評が現代まで伝わっている。
多くの苦難を愛嬌を振りまきながら乗り越えていく秀吉には、
スマートさはないかもしれないが、それが人間らしく、
我々一般人にも受け入れやすいのかもしれない。

さて、その秀吉が、誰もが避けられない死を前に何を思ったのであろうか。
その心をのぞくことができるという意味でも、
この短歌は非常に興味深いものである。

 

今に生きる

「露のように生を受け、露のように死んでいく我が人生」
と秀吉は自分の人生をあらわしている。
みなさんもこの感覚は分かると思う。
今の年齢になった時の自分はもっと大人のはずだったと思わないだろうか。
もっとたくさんの経験をして、全く違う考え方をしていて・・・。
なんて想像していたが、実際は生まれた時から大きく変わらない自分がいる。
生まれてから今までがそうであるならば、
自分が死を迎える時もそうであろう。
これだけ毎日多くの時間を生きているけれども、
過ぎ去った過去は一瞬であり、
断片的な思い出を心に抱えているだけの自分がいる。

秀吉ほどの人生となると、さぞ抱えきれない思い出があるだろう。
と想像するのだが、大して変わらないのかもしれない。
「いろいろなことも夢の中の出来事のようだ」
と秀吉が言うように、過ぎ去った人生は振り返ってみても
現実感を持って思い出すことはできず、
夢の中の出来事のようなものものなのかもしれない。

そう考えると、「今に生きる」これが生きるということなんだなあ
と感じさせられる。

所詮は一粒の露のような儚い人生と思うと、
くだらないことに悩まず、目一杯生きてやろう!
なんてことを私は考えてしまった。

憂いはいつまでも続く

天下人となった秀吉は、それまで苦労したかいもあり、
幸せに暮らし、命を全うした。
ということであれば絵本の物語のようであるが、
現実の人生はそうはいかない。
天下を意のままに動かせる秀吉であっても、憂いがあった。
それは・・・
後継者 秀頼 のことであった。
57歳の時に秀吉は待望の世継ぎとなる男子を授かるととなる。秀頼である。
高齢での子供ということもあり、非常にかわいがった。
しかしこの幸せは憂いと表裏一体であった。
「自分が死んだ後、今臣下の体で仕えている者たちはどう動くだろうか」
この憂いが秀吉の晩年についてまわる。
秀吉は何度も諸大名を集め、秀頼への忠誠を誓う血判記請文を求めた。
たかが1枚の紙きれなのかもしれないが、
この紙きれに頼るしか、死に行くものにできることはないのである。


「かへすがへす秀頼事頼み申候」
と諸大名に遺言し、慶長三年(1598年)八月十八日、京都伏見城薨去した。
62歳であった。

 

その後は、よく知られているように徳川家康が豊臣家を滅ぼした。
秀吉の想いは果たされることなく、日本は江戸時代と呼ばれる、
徳川家を中心とした政治体制に入る。その江戸時代も約260年後に終わりを迎える。

 

人生も、歴史も露のようであり、夢のようであるなあ。

そんなことを考えさせられる秀吉の歌でした。

 

心に短歌を!

ここまで読んで頂き、ありがとうございます!

願はくは花のしたにて春死なむその如月の望月の頃

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 和歌原文

ねがはくは はなのしたにて はるしなむ そのきさらぎの もちづきのころ

願はくは花のしたにて春死なむその如月の望月の頃

西行 『山家集』『続古今和歌集

現代語訳

願うことなら桜の花の下、春に死にたいなあ。陰暦2月15日、満月の頃に。

(陰暦2月15日=お釈迦様入滅の日)

文法

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鑑賞のポイント

人間がコントロールできないことがある。それは命の長さです。過去どれだけ権力を持った人物もどれだけお金を持った人物も自分の命の長さをコントロールすることはできませんでした。

 

西行は文治六(1190)年二月十六日に、73歳で亡くなりました。人々はその報を聞き非常に驚いたのでした。それは、生前西行が自分の命を終える日を詠った今回の短歌の日と実際に命を終えた日が「たったの1日違い」だったからなのです。

では短歌ではいつと詠っていたのか。

【如月の望月の頃】 = 太陰暦二月の満月の頃 = お釈迦様入滅の日(二月十五日)

西行は出家する身として、お釈迦様の亡くなった頃に自分の命も終えたいと考えたのでした。そして実際は・・・二月十六日に亡くなりました。(最期の地は河内国弘川寺。現在の大阪府富田林市)

どれだけ権力を行使し、お金を積んでもコントロールできない死というものは、心の修行をされた方にはコントロールできるものなのかもと思ってしまいます。(昔の偉いお坊さんで自分死を予言して本当にその日に亡くなった。というような話を聞いたことがありませんか?)

ちなみに、この陰暦二月十六日というのは、現在でいう三月中~下旬頃です。つまり花は「桜の花」です。(桜の花でも品種はヤマザクラです)

 

「願うことなら春に桜の下で自分の死を全うしないなあ。もっと具体的には、尊敬するお釈迦様と同じ頃に自分の死を全うしたいものだ」

死は人生を象徴するものです。心を探求し、旅と歌の中で人生を全うした西行らしい、

人生の最期を感じられますね。

自分の最期はどのようなものでしょうか?それは今の人生の延長にあるものでしょうか?「願わくは・・・」をイメージすることは自分の人生を考える上でもとても大切かもしれませんね。

 

心に和歌を!!!

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

 

 

 

 

古畑のそばの立つ木にゐる鳩の友呼ぶ声のすごき夕暮れ

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和歌原文

ふるはたの そばのたつきに ゐるはとの ともよぶこゑの すごきゆうぐれ

 

古畑のそばの立つ木にゐる鳩の友呼ぶ声のすごき夕暮れ

 

西行 『新古今和歌集』巻第十七 雑歌

現代語訳

荒れ果てた畑の、崖の高い木にとまっている、鳩が仲間たちを呼ぶ鳴き声の、ひどく寂しい夕暮れのことよ。

文法

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鑑賞のポイント

全体的に非常に寂しい印象を受ける歌ですね。「古畑」「そば」「すごき」「夕暮れ」と寂しい単語が続きます。

また、「鳩の声」もあらためて聴いてみると、寂しい気持ちに拍車がかかります。

鳩の声(YouTubeより)

https://www.youtube.com/watch?v=Y3dd3f9Dn74

 

前回のブログでも書きましたが西行は、あらゆる場所に草庵を作りながら旅をした僧侶であり歌人でした。つまり生活は基本一人。寂しい気持ちがこみ上げてくる時があったのでしょう。

 

季節は秋~冬頃だろうか。荒れ果てた畑。崖となっているところに立つ高い木。あたりは薄暗くなってきた夕暮れ時。その荒涼とした風景から聞こえる鳩の鳴き声。

あたりは静かで、ただこの鳩の鳴き声だけが聞こえてくる。

その空間に西行一人がたたずんでいる。寂しさが伝わってきます。

また「ともよぶ声」から、友のある鳩をうらやましく思う気持ち。もしくは、自分の心を鳩に託して友を呼びたい気持ち。が伝わってくるようです。

 

いい短歌は、感動の深さが大切です。

感動という単語が網羅する感覚はとても幅広いですね。

この「寂しさ」も心に迫るものがあります。

瞬発的な感動ではなく、心にじわりと迫るようなそんな感覚になります。

 

うれしい、楽しい、悲しい、哀しい、寂しい、侘しい・・・

毎日どれだけ深い感動ができたか。

そのことを確認する為にも、短歌を詠んでみてはいかがでしょうか?

 

 

心に和歌を!

最後までお読み頂き、ありがとうございます。

 

 

つくづくと軒のしずくをながめつつ日をのみ暮らす五月雨の頃

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 和歌原文

つくづくとのきのしずくをながめつつひをのみくらすさみだれのころ

つくづくと軒のしずくをながめつつ日をのみ暮らす五月雨の頃

西行山家集

現代語訳

しみじみと軒から滴る雨のしずくを眺めながら、ただただ暮らしている五月雨の頃。

文法

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鑑賞のポイント

雨が降り、じめじめして、梅雨は好きでない方が多いのではないでしょうか?

一人草庵に暮らした西行さんにとって梅雨はどう映ったのかが分かる歌です。

やはり、雨が降ると外出を控えます。

そうなると家の中から見える景色に意識が向かいます。

「つくづくと」「しずく」というところから、激しい雨というようりは、

しとしとと降り続く雨が浮かんできます。昨日も雨、そして今日も雨。ここ最近ずっと雨だなあと。思いながら、軒から落ちる雨のしずくを眺めながら、「日をのみ暮らす」。つまりただただ毎日を送る。それが五月雨。梅雨であるよ。

ということです。

 

この景色もまた風流ですな~。なのか、

とはいっても雨はあまり好きではない。なのか、

五月雨とはそういうものである。ただそういうものなのだ。という達観か。

 

詠む人の雨への気持ちによって、捉え方も色々ですね。

 

私は、空は青い!まぶしい!くらいの晴れが好きです。

まだまだ梅雨を味わえる心ができていないなあ。

 

心に和歌を!

さあ、梅雨を味わいましょう!

 

最後までお読み頂き、ありがとうございました。

 

なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる

 

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 原文

なにごとの おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる

 

西行 『西行法師歌集』

 

現代語訳

どういう方がいらっしゃるかは知らないけれども、恐れ多く、そしてありがたい気持ちで一杯になり涙がこぼれてくるよ

 

文法

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鑑賞のポイント

西行ってどんな人物?

元永元年(1118年)~文治6年2月16日

つまり平安時代末期~鎌倉時代初期に生きた歌人であり僧侶です。

もともとは、藤原氏の流れを汲む北面の武士(京都の上皇が住む館の北側を守る武士)だったが、23歳で出家しました。

友人の突然の死や失恋が原因だったと言われております。

その後、鞍馬山(京都)、奥羽(東北)、高野山(和歌山)、讃岐(香川)、伊勢(三重)、河内(大阪)などあらゆるところに草庵を営みながら人生を過ごしました。

奥羽に行く途中には源頼朝と面会し、歌は多くの歌集に撰出される有名人でありました。

没後15年に成立した勅撰集『新古今和歌集』では個人最高の94首が撰出されています。

また、松尾芭蕉西行に憧れており、

『おくのほそ道』は西行500回忌にあたる年芭蕉が江戸を発ち、奥州・北陸を旅した作品でした。

自由に生きながらも、世の中に斬新なアートを発表していく!ってどこか憧れますよね。才能があったからこそできる生き方です。

西行は、当時から有名な「さすらいの歌人」だったと思ってもらえたらいいです。

 

歌を味わう

明確にいつ詠まれたかは分かっておりませんが、西行が伊勢にいた頃、伊勢神宮に参拝した際に詠まれた歌です。

「この歌は日本人の宗教感をあらわしている」と言われます。西行にそのつもりがあったわけではないですが)

まず、真言宗(仏教)の僧侶だった西行ですが、神社(神道)で感動した歌を詠んでいるという点です。

宗派を超え、仏教も神道もごちゃまぜで大切にしてしまう宗教感

よく言われるように日本人は、教会で結婚式を挙げ、正月は神社に初詣に行き、先祖供養にはお寺でお経をよむ。宗教感ごちゃまぜな民族です。

私はこれは誇ってもいいことだと思います。

他宗を認めないことよりも、全て受け入れちゃう方がいわゆる「神」のおもいに近い気がします。

ちなみに日本人の宗教感を現代特有のことのように捉えがちですが、昔から変わっていません。

出典を忘れてしまいましたが、江戸時代末期、開国により日本に入ってきた外国人がこう苦言を呈していました。

「日本人は神社で参拝する時、その前後で笑いながらおしゃべりしている」

「現世利益を求めてお参りしている」 

「宗教感がない民族だ!」

 この外国人達の目に映った江戸時代の人々は、やはり我々の先祖だなあと感じませんか?生活の延長に神様がいる。これが日本人の宗教感であると思います。

 

さて、もう一つの日本人の宗教感はこちら。

八百万の神々(何もかもが神である)を信仰する宗教感

「なにごとのおはしますかしらねども」て、

外国の人からしたらありえない話ですよね。これが一神教多神教の違いというやつです。

日本人にとっての神様はふわっとしてます。

「なにごとのおはしますかはしらねども」「かたじけなさに なみだこぼるる」のです。

何か分からないけれど、かたじけなく(厳かでありがたく)、涙が出てしまう。この感覚分かりませんか?

神社に行くと、何か厳かであり、感謝の気持ちを伝えたくなる。けれどその実態を深く考えたりしない。それが日本人にとっての神様であり宗教なのです。

 

もう一度味わいましょう。

なにごとの おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる

 

自分ごときが分かるようなものでない、しかし非常に高貴な存在を認めつつ、

自分の理解を超えたこの何か大きな存在を肌で感じた西行は、ただ涙がこぼれるのでした。

その理由は言葉であらわすと「かたじけなさ」

 畏れと感謝の入り混じったような複雑な気持ちでした。

この「かたじけなさ」は神社などで感じられる「あの感覚」です。

 

率直な日本人の気持ちを詠った歌。

我々の意志を超えた何か分からないかたじけない存在。

今日もその存在に手を合わせましょう!

 

最後までお読み頂き、ありとうございます!

心に和歌を!

 

 

 

 

憶良は今は罷らむ子泣くらむそれ彼の母も吾を待つらむぞ

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 和歌原文

憶良は今は罷らむ子泣くらむそれ彼の母も吾を待つらむぞ

おくらはいまはまからむこなくらむそれかのははもわをまつらむぞ

                   山上憶良 万葉集』三三七

現代語訳

憶良は今帰ります。子供が泣いているでしょう。その母(妻)も私を待っているでしょうか。

 

文法

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鑑賞のポイント

 万葉集』「山上憶良臣、宴を罷る歌一首」として掲載されている短歌です。ある宴をおいとまする時に憶良が参加している方々に詠んだ歌です。この宴は太宰帥(大宰府長官)大伴旅人主催のものでした。大伴旅人と言えば・・・元号「令和」のもととなった『万葉集』「梅花の歌三十三首幷に序」の宴を主催していた人物ですね。憶良が筑前守(福岡辺りの長官)として赴任した頃、大宰府長官は旅人だったんです。

 宴会の途中でおいとましようとする憶良。場を白けさせず、その場を立ち去る時の気の利いた一言。そこで詠んだ子を思う歌でした。この歌には「憶良」「子」「彼の母」と登場人物が出てきます。これは「子」を中心として、その父を「憶良」その母を「彼の母」と呼んでいるのです。つまり「子」に焦点を当てて、子供の気持ちを中心とした歌なのです。ここでも子煩悩の憶良が垣間見えますね。

 また、この短歌は一首三文の歌です。「短歌をつくろう」のブログでも書きましたが、短歌は基本的に「一首一文」であることが大切です。それは感動を一首に込める時に、最初から最後まで精神が通っていることが大切だからです。しかし、この短歌は

「憶良は今は罷らむ。子泣くらむ。それ彼の母も吾を待つらむ。」と3つに切れている一首三文の歌なのです。「む・・・む・・・む」という音の繰り返しや、子供を中心とした登場人物のあらわし方で、一首三文でありながら統一感ある短歌となっているんですね。

 この宴の反応はどんな感じだったんでしょうかね。「憶良、また家族か~!」といじりながらも、憶良を送る雰囲気が目に浮かびます。家族想いをストレートに表現する憶良がかっこいいですね~。

 

心に短歌を!

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 

参考文献

『短歌のすすめ』夜久正雄、山田輝彦著 国文研叢書

 

 

 

銀も金も玉も何せむに勝れる宝子に如かめやも

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 和歌原文

銀も金も玉も何せむに勝れる宝子に如かめやも

しろがねもくがねもたまもなにせむにまされるたからこにしかめやも

 

                    山上憶良 『万葉集』八〇三

現代語訳

銀も金も宝石もどうして子供という宝に勝るものがありましょうか。

いやそんなものはない。

 

文法

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鑑賞のポイント

 前回ブログで紹介した「瓜食めば・・・」の長歌に対しての反歌となります。反歌とは、長歌の最後に添える短歌で、その要約の様な役割を果たします。『万葉集』では「子等を思ふ歌一首幷(ならび)に序」ということで一つの塊として掲載されています。

 

 この歌は有名な歌なので、習ったことがある方も多いのではないでしょうか。意味は詠んで字の如く「世の中の色々な宝物に及ばない宝物・・・それは子供だ!」ということですね。一見するとそりゃそうだ。ということですが、これだけストレートに子供が宝と表現できるか。と考えると、やはり後世に残る短歌ですね。「子供は大切だ」という思いを抱いていても、それを文字に表現することには一種の恥ずかしさがありませんでしょうか。しかし憶良は「世の中の宝と比較しても、子供に勝るものはない」と表現してしまう。このストレートに思いを歌にしたことが心を打つのですね。また、その前の長歌で日常での子供への思いを具体的に詠んでいる為、反歌では少し抽象的にまとめています。「色々食べている時も子供を思うし、寝る時も子供がちらつく。もう子供は世の中のどんな宝も及ばない宝だよ!こんちくしょう!」て感じですね。

 目の前にあると宝であることを気づけないものですが、この短歌を詠んで、あらためて自分の子供たちが宝であることを実感しましょう。

 

 

心に短歌を!

ここまで読んでいたあき、ありがとうございます!

 

 

瓜食めば 子ども思ほゆ 粟食めば まして偲はゆ 何処より 来りしものぞ 眼交に もとな懸りて 安寝しなさぬ

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和歌原文

瓜食めば 子ども思ほゆ 粟食めば まして偲はゆ 何処より 来りしものぞ 眼交に もとな懸りて 安寝しなさぬ

 

うりはめば こどもおもほゆ くりはめば ましてしぬはゆ いづくより きたりしものぞ まなかひに もとなかかりて やすいしなさぬ

 

               『万葉集』八〇二 山上憶良(やまのうえのおくら)

現代語訳

瓜を食べては子供たちのことを思い。栗を食べてはまして子供たちのことが偲ばれる。子供たちはどこからやってきたのだろうか。夜に目先にしきりにちらついて、なかなか眠れないものだ。

 

文法

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鑑賞のポイント

 山上憶良奈良時代初期の貴族・歌人です。今回の歌も掲載されている『万葉集』には自然や愛など色々な歌掲載されていますが、とりわけ山上憶良貧困や家族についての歌を多く残しております。「貧窮問答歌」など聞いたことありませんか?。それだけ現実の生活に根差して生きた人物であったことが想像できますね。貴族というとどうしても、自然や愛の歌を想像してしまいますが、憶良の歌は貴族の中では異色の歌人でありました。

 この歌は神亀三年(七二六)、筑前守(ちくぜんのかみ)として大宰府に赴任した頃の歌です。筑前守とは福岡あたりの長官で、後に豊臣秀吉筑前守の頃がありましたね。この頃の憶良は既に60代後半で、実子の歌ではなく、一般的な子への思いの歌ではないのか?とも言われておりますが、歌から伝わる切実さから、自分の子への思いを詠った歌であると私は思います。更に想像ですが、筑前守は単身赴任だったのでは。と勝手に想像してしまいます。(後に宴会から立ち去る際に「妻と子が待っているから」と伝える歌もあるため、単身赴任→途中から妻子と同居パターンでは)。私も単身赴任なのでよくわかりますが、会えない時ほど子供のことをよく思うようになります。

同年代くらいの子供がよく目にとまります。そして不思議なのが、いざ子供たちに会うと一人が恋しくもなります(笑)

 瓜や栗を食べる時。いつでも頭に子供が浮かんでくる。そして「何処より来りしものぞ」とその存在の不思議さまで考えてしまう。お母さんのお腹に宿った小さな赤ちゃんがどんどん大きくなり、歩き、言葉を話す。本当にふと不思議に思う瞬間があります。ずっと子供と一緒の方は「少し離れたい」と思うかもしれませんが、子供と少し離れてみると憶良の歌が身に沁みて心に迫ってきます。

 

最後に

  この歌は「五七五七五七五七七」という長歌となります。長歌の後には反歌と呼ばれる短歌がひっつきます。有名な短歌なので次回はこの反歌を紹介します。

 

こころに和歌を!

ここまで読んでいただき、ありがとうございます!

 

 

短歌をつくろう2

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  前回、短歌ってここがすごい。ということをお伝えしました。今回は実際短歌をつくる際に気を付けることをお伝えします。といっても、そんな短歌のプロでもないので、『短歌のすすめ』 夜久正雄・山田輝彦著 国民文化研究会 の内容を整理したもの。をお伝え致します。詳しくは、この本を是非お読みください!!!

 

一首一文一息でよめるものをつくろう

 基本的に文章の切れ目となる「。」が歌の最後にくるようにする。これが一首一文の意味です。

 

一首一文の例↓

さしのぼる朝日のごとくさわやかにもたまほしきは心なりけり 明治天皇

(さしのぼる朝日のようにさわやかに持ちないものは心だなあ)

 

 

一首二文の例↓

年の内に春はきにけりひととせをこぞとやいはむ、ことしとやいはむ 在原元方

(年内に立春の日が来てしまったよ。今日からの年は暦の上では旧年内だが立春が来たからには新年になるので、去年と言ったらよかろうか、今年と言ったらよかろうか)

 

どうでしょうか。一首二文の方が、どうも伝わりづらくないでしょうか。たった三十一文字の中に思いを詰めなければならない中、二文になるということは、そこに技巧が入り、ストレートに伝わらなくなるのです。もちろん万葉集の歌の中には一首二文以上の名歌もありますが、基本的には歌は一文ですっとつながっていた方がよいのです。

 また、どうしても「五七五/七七」と切ってしまったり、二行で書いたりしてしまいますが、本来は一文で書かれるべきものなのです。この、はじめから最後まで同じ精神が貫かれているものを「調べ」というのです。

 

内容は自分の体験とする

 自分が体験したこと。自分が感動したこと。を短歌にしましょう。伝わる短歌は、実感がこもっているものです。正岡子規はこう言っております「理屈を詠むな」。そう、理屈は詠んではいけないのです。こねくり回さず、感動をストレートに表現するから、その短歌は人の心を打つのです。これがなかなか難しい!

 

題材はなんでもよい

 題材は何でもOKです。但し本当の自分の心から湧き上がるものをそのままストレートに題材にすることが一番よいです。

 

言葉は口語?文語?

 口語(日常語)に近く、うすっぺらくならないような言葉を使う。ということが大切です。感動を伝えるのに、普段口にする言葉をそのまま使ってしまうと感動が薄っぺらくなってしまいます。かといって意味を辞書で引かなければならないような万葉の言葉を使っても、これまた伝わりません。口語に近く、うすっぺらくならないようにです。

 

深い感動をよもう

 とにかく深い感動を短歌にすること。この感動の深さが短歌の良し悪しに直結します。短歌は技巧が難しそうと思われがちですが、実は「深く感動できるか」が一番大切なのです。だから、老若男女、身分など関係ない平等な世界なのです。例えば、身分が高いと深い感動があるわけではないですよね。

 

連作短歌にしよう

 ある感動を短歌にしようと思うと、渾身の一首をつくろうと思ってしまい感動が抽象的な表現になってしまうことがあります。そのような場合は、一首で完結させようとせず、溢れてくるがままに、感動を何首にも分ければよいのです。

 

 

 いかがですか?短歌をつくってみようかなと思いませんか。何度も繰り返しますが「深い感動」ができるかどうかが一番大切です。となると自分の毎日の充実度がどうなのかということに帰結します。「やったーうれしい!!」「悲しい・・・」「さみしい・・・」「楽しい!!」「感動~~」「きれいだ~」「くそー!」こういう気持ちに満たされた毎日を自分はしているだろうか。短歌を通じて感じられれば最高です。

 

心に短歌を!

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 

↓内容は下記を整理したものです!

『短歌のすすめ』 夜久正雄・山田輝彦著 国民文化研究会

 

短歌をつくろう1

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今まで短歌を紹介してきましたが、ここで一度「短歌」とはどういうものだろうか。

どうつくればよいのかについてまとめました。短歌を作ってみよう!と少しでも思っていただければ幸いです。

 

「短歌」はすごい! 

そもそも短歌とは何か

短歌や和歌、俳句など日本にはあらゆる「歌」がありますので、整理しました。

 

和歌:短歌(57577)・長歌(57 57・・・577)・施頭歌(577 577)の総称だが、

   主に短歌を指す。

短歌:和歌と同じ57577の31文字構成。和歌(57577)にあったルールを明治以降

            否定した新しい和歌。

狂歌:57577の31文字構成。社会風刺などを詠んだもの。

俳句:575の17文字構成。

川柳:575の17文字構成だが、俳句の季語や切れなどのルールがない。

 

短歌の前ではみな平等である

 短歌は先にあるように五七五七七の三十一文字というルールの中に自分の感情や想いをのせていくものです。あるのはこのルールのみ。あとはなにを詠もうが、誰が詠もうが自由なのです。そして、そのルールのもとに日本では昔から、あらゆる人が短歌を詠んできたのです。それは、老いも若きも。男性も女性も。学問のある人も、ない人も。天皇陛下も武士も貴族も国民も。あらゆる年齢や地位などを超えて平等な世界の中で詠まれてきたのです。例えば、貴族の歌が国民の歌よりいい!ということはなく、

短歌の前では、皆が平等で「心」だけが評価されてきた。のです。

 「心」だけが評価のもととなる、時間を超えて多くの人が参加している短歌と考えると自分もその中に参加したくなりませんか。スポーツや文化でも誰もが参加できて、昔の人ともっと言うと未来の見知らぬ日本人とも同一ルールのもとで共有できるものはないのではないでしょうか。

 

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短歌は心の写真

 自分で短歌を詠んでみると1つ気が付くことがあります。それは色々と言葉を巡らせながら完成させた短歌は、後で詠み返すとその時の情景や気持ちが鮮明に甦ってきます。昔よく聴いていた歌をあらためて聴くと当時の情景が浮かび「なつかしい」と思う、あの感覚に似ているかもしれません。そう短歌は心の写真だ。と私は思っております。例えば、春の空の清々しさに感動して短歌をつくるとします。「空が青いから『空青き』かな・・・いや青さというより太陽の明るさが気持ちいから『明るき空の』かな・・・いや気持ちいいというこの感覚を強調したいから・・・」というように自分が何に感動したかを言葉に変換しようとします。その過程で心に情景や感動が刻まれていくのです。これは実際体験してみないと分からないことなので、是非みなさんにも体験してほしいです!

短歌は脳の筋トレ

短歌は感動を言葉にする行為であるのですが、この感動と言葉の往復というのは、右脳(感動)左脳(言葉)の往復とも言い換えられます。

感動や直感(右脳)を言葉や論理(左脳)にしていくことは、AIが発展する現代にますます重要になります。なぜならAIは左脳力で人間を凌駕するからです。人間は右脳力を生かし、その発想を左脳に転換することで人間としての面目が保てる時代に入りつつあります。そこで右脳力(直感力)を研ぎ澄ますこと。直感を論理にできること。が求められるのですが、なんと!短歌をつくることはまさにこの右脳⇔左脳を行う行為。つまり短歌は脳の筋トレ(脳トレ)なのです。短歌は古い?いえ、短歌はこれからの時代に求められる最高最新の脳トレです。

 

感動に敏感になる

 実際短歌をつくってみようと意識して生活すると、自分の感動に敏感になります。そして、ふと気が付きます「今日一日で全然感動していない!」と。短歌をつくろうと思う時は、心に引っかかるものがあるからなのです。しかし感動がないと引っかかりがないまま一日は終わってしまいます。隙間時間にスマホを見て、時間に追われ、あれこれ先のことを考える。そうしていると感動という感情が湧き上がらないのです。いつも通っている道でも心に余裕を持ち、他のことに心をとらわれずに歩くと、軒先に新しい花が咲いていることを発見したり、視線をいつもより少し上げてみるとレトロな看板を発見したり。たくさんの発見と感動が転がっています。「短歌を詠もう」という姿勢だけで、自分の心に目がいくようになります。そして毎日を味わい尽くすことができます。

 

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さあ、短歌ってなんかすごいかも。ということをお伝えして、次回は短歌のつくり方についお伝え致します!

 

 

心に和歌を! とこれまで締めくくってきましたが

心に短歌を! に変えます(笑)

 

 

参考にした本は、

『短歌のすすめ』夜久正雄・山田輝彦 著  国民文化研究会

 

 

 

 

「令和」初春の令き月、気淑く風和み、梅は鏡の前の粉を披き、蘭は珮の後の香を薫らす。(2/2)

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はじめに

前回のブログで「令和」の原典となった序文についてご紹介いたしました。今回はその序文の後に続く三十二首にはどのような短歌があるか数首ピックアップしてご紹介いたします。また万葉集』がなぜ日本人にとって大切な歌集なのかもご紹介しますね!!

 

前回1/2はこちら↓

oidon5.hatenablog.com

 

梅花の歌、三十二首にはどのような短歌がある?

まずはこの花見の主人である大伴旅人

わが苑(その)に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも

私の苑に梅の花が散る。天から雪が流れきたのかもしれないなあ。

 

ひさかたの:「光」「天」「月」「日」「雨」「雪」など天に関係する語や「都」にかかる枕詞。

 

ここからはランダムに。まずは、笠沙彌氏

青柳梅との花を折りかざし飲みての後は散りぬともよし

青柳と梅の花を折り髪などに飾り酒を飲んだ後は散ってもよい。

何とも楽しそうです!今を楽しむという感じです。

 

薬師張氏福子

梅の花咲きて散りなば桜花継ぎて咲くべくなりにてあらずや

梅の花が咲いて散れば、桜の花が続いて咲きそうになっているではないか。

私達にとっての「花見」と言えば桜の花。この時代も桜の花もちゃんと意識されていたんですね。

 

少令史田氏肥人

梅の花いまさかりなり百鳥(ももどり)の声の恋しき春来るらし

梅ん花が今盛りだ。さまざまな鳥の声も恋しい春がやってくるようだ。

 

筑前掾門氏石足

鶯(うぐいす)の待ちかてにせし梅が花散らずありこそ思ふ子がため

鶯の待ちわびていた梅の花よ、散らずにいてくれ愛する人のために。

「思ふ子がため」この子は誰なのかな。と想像膨らみますね。 

 

と、いくつか紹介しました。季節と花と鳥と人。自然が溶け合う姿が目の前に浮かんできますね。自然の中に暮らす日本人を感じずにはいられません。

 

万葉集』はすごい歌集

 さて『万葉集』という歌集が日本にはあった。と言われても「ふ~ん」で終わってしまうのではないでしょうか。どういう部分がすごいのか!2点紹介いたします。

 

①身分に関係なく掲載されている

まずすごいことは、身分に関係なく掲載されていることです。和歌と聞くとどうしても「貴族が楽しんだものでしょ」という印象があるかもしれませんが、実は身分に関係なく日本人は和歌を詠んだのです。例えば防人の歌や農民の歌。誰が詠んだが分からない歌。東国の歌。天皇や貴族から一般の人たちまで、幅広い層からの歌を集めているのが『万葉集』です。つまり、日本人全体が歌を詠み、歌の世界は身分も関係ない平等の世界だった。ということです。

このような歌集が日本最古の歌集であるという事実は誇りに思ってよいと思います。

 

②想いを文字に「万葉仮名」という努力

万葉集』の原文は全て漢字で書かれています。「うわ~こりゃ読めない」と思うのですが、実は漢字の音だけを借りて記述されているのです。例えば、最古の万葉仮名をよんでみましょう。

「皮留久佐乃皮斯米之刀斯」さあこれはどうよむでしょうか?

 

「はるくさのはじめのとし」です。

つまり、皮=は 留=る と漢字の音だけを使って意味をあらわしているのです。
万葉仮名と付くように、現代の仮名文字の原型です。
仮名文字も漢字が崩れてできあがったのでしたよね。(以→い のように)

これが何がすごいかというと、自分達が普段使っている言葉のを忠実に残そうとした。ということです。

音を伝える為の苦心の策が万葉仮名です。

この万葉仮名によって、奈良時代の人々と現代の私達の間で言語の分断がなく、想いを共有できるのです。

よく考えればすごくないですか?『万葉集』の時代の人の想いが、今そのままの音で聞いても分かるってこと。

 

他国を見てみては、英語やスペイン語ポルトガル語を使っているアフリカや南米の国々は言語の分断が起きてますね。また、英語もルーツを探っていくと日本ほど遡れません。言語の継承とは想いの継承であり、文化継承にとって一番重要なことです。私達は日本語で考え、想い、意思疎通をしているのですから。

 

例えば以前紹介した『万葉集』防人の短歌。

↓ 

oidon5.hatenablog.com

今でも意味が分かるし、その想いも伝わりますね。 

終わりに

いざ自分で短歌を作ろうと思うと、どうもネタが枯渇する。
仕事が忙しくなると「辛さも人生のうちだ!」「怒るな!」みたいな、短歌として決して美しくない心の叫びのような歌ばかりになる。

それはそれで味があるのですが、万葉集』に掲載されているような、自然を愛でる環境から遠ざかっている自分に気が付きます。

そもそも自然が目の前にない。
目の前にある自然を味わう時間的余裕や心の落ち着きがない。
ということが原因に挙げられますが、とはいえ日常の中には必ず風や光、木々に鳥や虫の声があるはずです。それをキャッチできない自分の心のアンテナを磨く為にも『万葉集』に目を通してみませんか?

 

以上、お読みいただき、ありがとうございます!

心に和歌を!

 

 

 

 

「令和」初春の令き月、気淑く風和み、梅は鏡の前の粉を披き、蘭は珮の後の香を薫らす。(1/2)

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 「令和」の出典

初春(しょしゅん)の(よ)き月、気(き)淑(よ)く風(かぜ)(なご)み、梅は鏡の前の粉(こ)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮(はい)の後の香(こう)を薫(かお)らす。

万葉集』 巻五 「梅花の歌三十二首并に序」

 「令和」を知ろう

四月一日に新元号が公表されました。

  令和

日本古典からの引用は初めてで、
645年「大化」以降、248番目の元号となりました。

今回のブログでは「令和」の出典元の文章や『万葉集』について、
お伝えしようと思います。

 

序文の文章を読もう

「令和」の出典元となる一文の紹介はたくさん見ますが、
そもそもの序文全体はどのようなことが書かれているのか気になりませんか?
紹介しちゃいます!

 

書き下し文

まずは書き下し文。音のリズムを感じてください。

 

梅花の歌三十二首并に序

天平二年正月十三日、帥(そち)の老の宅(いへ)に萃(あつ)まりて、宴會(えんかい)を申(ひら)く。時に初春(しょしゅん)の(よ)き月、気(き)淑(よ)く風(かぜ)(なご)み、梅は鏡の前の粉(こ)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮(はい)の後の香(こう)を薫(かお)らす。加以(しかのみならず)、曙の嶺に雲移りては、松、蘿(うすもの)を掛けて蓋(きぬがさ)を傾け、夕の岫(くき)に霧結びては、鳥、縠(となみ?うすもの?)に封(こ)めらえて林に迷ふ。庭には新しき蝶舞ひ、空には故(もと)つ鴈(かり)歸(かえ)る。ここに天を蓋(きぬがさ)にし、地を座(しきゐ)にし、膝を促(ちかづ)け觴(さかづき)を飛ばす。言を一室の裏に忘れ、襟を煙霞(えんか)の外に開き、淡然(たんぜん)として自ら放(ほしきまま)に、快然(かいぜん)として自ら足りぬ。若(も)し翰苑(かんえん)にあらずは、何を以ちてか情を攄(の)べむ。詩に落梅の篇を紀(しる)せり。古と今とそれ何ぞ異ならむ。宜しく園の梅を詠みて聊(いささ)か短詠を成すべし。

 

 【単語の意味】

天平二年→730年。奈良時代奈良の大仏を造った聖武天皇の時代。

・正月→太陰暦の春の最初の月。立春の頃。現代の暦で2月初旬頃。

・帥の老→大伴旅人 帥=太宰帥=大宰府の長官のこと

・宴會を申(ひら)く→宴会をひらく

き月→よい月

気淑く→大気・空気が良く

・鏡の前の粉を披き→鏡の前の白粉(おしろい)のように

珮→古代の装飾具。貴族の飾り袋?

曙の嶺→ほのぼのと夜が明ける頃の山の頂上付近

蘿(うすもの)→うすい織物

蓋(きぬがさ)→笠。絹を貼った、柄の長い傘。

・夕の岫(くき)→夕方の山のくぼみ

鳥、縠に封めらえて→縠「となみ(鳥網)?薄い織物?」。鳥は霧にとじこめられ

故つ鴈歸る→去年やってきた雁が帰っていく

觴(さかづき)を飛ばす→盃を交わす

言を一室の裏に忘れ→(楽しさのあまり)座の一同は言葉を忘れ

襟を煙霞(えんか)の外に開き→襟をかすむ景色に開き

淡然として→さっぱりとした気持ちで

快然として→心地よい気持ちで

翰苑→文章

・詩→『詩経』?

聊(いささ)か→ほんのすこし

短詠を成すべし→短歌を作ろう

 現代語訳

梅の花の歌32首の序文

天平二年正月十三日。大宰府長官大伴旅人の邸宅に集まって宴会を開いた。
時は初春の良い月で、空気は良く、風は和み、梅は鏡の前のおしろいのように白く花ひらき、蘭は飾り袋の香りのように匂っている。
それだけでなく明け方の山の頂上に雲がかかり、松が薄い絹をかかげ笠を傾けており、夕方の山の窪みに霧がたちこめて、鳥が閉じ込められ、林に迷い込んでいる。
庭には新しい蝶が舞い、空には去年やってきた雁が帰っていく。
ここに天を笠にして、地面を座にして、膝を近づけて盃を交わそう。
楽しさのあまり座の一同は言葉を忘れ、襟を外のかすむ景色に開き、さっぱりした気持ちで心の赴くままに、心地よい気持ちで満ち足りている。
この気持ちを歌でなく、何であらわせようか。『詩経』に落梅の篇がある。
昔も今も同じである。さあ庭の梅を題材にして短歌を詠もうではないか。

 

補足

万葉集』について

万葉集』は7世紀後半~8世紀後半に編集された現存する日本最古の和歌集です。
編者は明確には分かっておらず、勅撰説(天皇上皇の命により編集される歌集)橘諸兄説、大伴家持説などがあります。
ただ、1人が全て編集したというよりは、巻によって編者が異なるものをまとめて編せられたといわれております。

巻は全部で二十巻あり、「令和」の本となった序文は巻五にあります。

また、『万葉集』の題号の意味も諸説あります。

何よりも『万葉集』のすごいところは、

庶民の歌から貴族の歌。四季の歌から愛の歌まで、四千五百余首の歌が平等に選ばれていることです。

つまり歌の世界では地位も身分も関係ないということを今に伝える貴重な和歌集なのです。

大伴旅人について

665年(天智天皇四年)~731年(天平三年)。飛鳥時代奈良時代の公卿であり歌人
大納言という左・右大臣の次席の役職に最終的には就いた身分の高い人物です。
六十歳を過ぎてから当時の外交の窓口である大宰府の長官に任命されました。

ちなみに当時の大宰府は、九州一帯の行政と朝鮮・中国外交と防衛を所管としており「遠の朝廷」と呼ばれるほどの権力がありました。

旅人は「酒を讃(ほ)むるの歌十三首」を詠んでおり、酒を愛した歌人として知られている。

 

花といえば「梅」!?

今回の序文は花見について書かれています。私達は花見と聞くと「桜」を思い浮かべますが、

奈良時代まで花と言えば「梅」だったのです。

例えば『万葉集』の「梅」の歌は110首。「桜」の歌は43首しかありませんでした。それが平安時代初期に編纂された『古今和歌集』では

「梅」の歌が18首に対して、
「桜」の歌が70首。

平安時代には花=「桜」となり、以後現代に至っております。

梅の花を見て歌を詠むということは当時中国で盛んでありました。この時代の日本は遣唐使全盛期。特に大宰府は貿易の最前線の為、旅人は当時最先端のイベントを催したのでした。

しかし、平安時代に入り徐々に唐風文化は廃れ、国風文化に変遷し、それに伴い

花=「桜」となるのでした。  

春や花と聞くとどうしても4月頃をイメージしてしまいますが、
この序文の時期は「立春の梅の時期」。
つまり今の2月なんですね。そうなるとイメージする景色もまた変わってきませんか?

 

まとめ

「令和」の出典とその背景について今回は取り上げました。「令(よ)き」「和(なごむ」時代がこれからやってきます!

安倍首相が「厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、日本人が明日への希望とともにそれぞれの花を大きく咲かせることができる日本でありたい、との願いを込めた」と語っております。

まさに力強く、そして良き香りを辺りに薫らせる自分であり国であることを目指す時代に入りました。非常に楽しみですね!

 

心に和歌を!

次回は、和歌ブログらしく三十二首の歌の抜粋紹介と『万葉集』がなぜすごいのか!についてです!

 

 

参考文献

『新訓 万葉集』佐々木信綱編 岩波文庫

産経新聞4月2日号

 

「令和」2/2はこちら↓

oidon5.hatenablog.com

 

↓『万葉集』関連記事はこちら

oidon5.hatenablog.com

 

↓ 大和心とは?記事はこちら

oidon5.hatenablog.com