おいどんブログ

和歌・短歌を紹介します!

露と落ち露と消えにしわが身かななにはのことも夢のまた夢

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和歌原文

 露と落ち 露と消えにし わが身かな なには(浪速)のことも 夢のまた夢

 

つゆとおち つゆときえにし わがみかな なにはのことも ゆめのまたゆめ

 

豊臣 秀吉

現代語訳

露のように生まれ、露のように死んでいく、私の人生であったなあ。色々なこと(大阪で過ごしたこと)もまるで夢の中のことのようだ

文法

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鑑賞のポイント

太閤さん

日本の偉人で「さん」を付けて呼ばれる人物を挙げるとしたら、
みなさんは誰を思い浮かべるでしょうか?
「西郷さん」「太閤さん」
私はこれくらいしか思い浮かばなかった。
〇〇さんは尊敬されながらも愛嬌ある人物にしかつかない呼称なのである。
尊敬と愛嬌を持ち合わせることは難しいのだろう。

 

今回の短歌は「太閤さん」つまり豊臣秀吉の辞世の句と呼ばれる短歌である。
低い身分から織田信長に仕え、その中で出世を重ね、
信長亡き後は天下を握ることとなった。
日本の歴史上類を見ない成り上がりの人物である。
一方「サルと呼ばれていた」「人たらしで天下をとった」
とどこか愛嬌を感じさせる人物評が現代まで伝わっている。
多くの苦難を愛嬌を振りまきながら乗り越えていく秀吉には、
スマートさはないかもしれないが、それが人間らしく、
我々一般人にも受け入れやすいのかもしれない。

さて、その秀吉が、誰もが避けられない死を前に何を思ったのであろうか。
その心をのぞくことができるという意味でも、
この短歌は非常に興味深いものである。

 

今に生きる

「露のように生を受け、露のように死んでいく我が人生」
と秀吉は自分の人生をあらわしている。
みなさんもこの感覚は分かると思う。
今の年齢になった時の自分はもっと大人のはずだったと思わないだろうか。
もっとたくさんの経験をして、全く違う考え方をしていて・・・。
なんて想像していたが、実際は生まれた時から大きく変わらない自分がいる。
生まれてから今までがそうであるならば、
自分が死を迎える時もそうであろう。
これだけ毎日多くの時間を生きているけれども、
過ぎ去った過去は一瞬であり、
断片的な思い出を心に抱えているだけの自分がいる。

秀吉ほどの人生となると、さぞ抱えきれない思い出があるだろう。
と想像するのだが、大して変わらないのかもしれない。
「いろいろなことも夢の中の出来事のようだ」
と秀吉が言うように、過ぎ去った人生は振り返ってみても
現実感を持って思い出すことはできず、
夢の中の出来事のようなものものなのかもしれない。

そう考えると、「今に生きる」これが生きるということなんだなあ
と感じさせられる。

所詮は一粒の露のような儚い人生と思うと、
くだらないことに悩まず、目一杯生きてやろう!
なんてことを私は考えてしまった。

憂いはいつまでも続く

天下人となった秀吉は、それまで苦労したかいもあり、
幸せに暮らし、命を全うした。
ということであれば絵本の物語のようであるが、
現実の人生はそうはいかない。
天下を意のままに動かせる秀吉であっても、憂いがあった。
それは・・・
後継者 秀頼 のことであった。
57歳の時に秀吉は待望の世継ぎとなる男子を授かるととなる。秀頼である。
高齢での子供ということもあり、非常にかわいがった。
しかしこの幸せは憂いと表裏一体であった。
「自分が死んだ後、今臣下の体で仕えている者たちはどう動くだろうか」
この憂いが秀吉の晩年についてまわる。
秀吉は何度も諸大名を集め、秀頼への忠誠を誓う血判記請文を求めた。
たかが1枚の紙きれなのかもしれないが、
この紙きれに頼るしか、死に行くものにできることはないのである。


「かへすがへす秀頼事頼み申候」
と諸大名に遺言し、慶長三年(1598年)八月十八日、京都伏見城薨去した。
62歳であった。

 

その後は、よく知られているように徳川家康が豊臣家を滅ぼした。
秀吉の想いは果たされることなく、日本は江戸時代と呼ばれる、
徳川家を中心とした政治体制に入る。その江戸時代も約260年後に終わりを迎える。

 

人生も、歴史も露のようであり、夢のようであるなあ。

そんなことを考えさせられる秀吉の歌でした。

 

心に短歌を!

ここまで読んで頂き、ありがとうございます!

願はくは花のしたにて春死なむその如月の望月の頃

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 和歌原文

ねがはくは はなのしたにて はるしなむ そのきさらぎの もちづきのころ

願はくは花のしたにて春死なむその如月の望月の頃

西行 『山家集』『続古今和歌集

現代語訳

願うことなら桜の花の下、春に死にたいなあ。陰暦2月15日、満月の頃に。

(陰暦2月15日=お釈迦様入滅の日)

文法

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鑑賞のポイント

人間がコントロールできないことがある。それは命の長さです。過去どれだけ権力を持った人物もどれだけお金を持った人物も自分の命の長さをコントロールすることはできませんでした。

 

西行は文治六(1190)年二月十六日に、73歳で亡くなりました。人々はその報を聞き非常に驚いたのでした。それは、生前西行が自分の命を終える日を詠った今回の短歌の日と実際に命を終えた日が「たったの1日違い」だったからなのです。

では短歌ではいつと詠っていたのか。

【如月の望月の頃】 = 太陰暦二月の満月の頃 = お釈迦様入滅の日(二月十五日)

西行は出家する身として、お釈迦様の亡くなった頃に自分の命も終えたいと考えたのでした。そして実際は・・・二月十六日に亡くなりました。(最期の地は河内国弘川寺。現在の大阪府富田林市)

どれだけ権力を行使し、お金を積んでもコントロールできない死というものは、心の修行をされた方にはコントロールできるものなのかもと思ってしまいます。(昔の偉いお坊さんで自分死を予言して本当にその日に亡くなった。というような話を聞いたことがありませんか?)

ちなみに、この陰暦二月十六日というのは、現在でいう三月中~下旬頃です。つまり花は「桜の花」です。(桜の花でも品種はヤマザクラです)

 

「願うことなら春に桜の下で自分の死を全うしないなあ。もっと具体的には、尊敬するお釈迦様と同じ頃に自分の死を全うしたいものだ」

死は人生を象徴するものです。心を探求し、旅と歌の中で人生を全うした西行らしい、

人生の最期を感じられますね。

自分の最期はどのようなものでしょうか?それは今の人生の延長にあるものでしょうか?「願わくは・・・」をイメージすることは自分の人生を考える上でもとても大切かもしれませんね。

 

心に和歌を!!!

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

 

 

 

 

古畑のそばの立つ木にゐる鳩の友呼ぶ声のすごき夕暮れ

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和歌原文

ふるはたの そばのたつきに ゐるはとの ともよぶこゑの すごきゆうぐれ

 

古畑のそばの立つ木にゐる鳩の友呼ぶ声のすごき夕暮れ

 

西行 『新古今和歌集』巻第十七 雑歌

現代語訳

荒れ果てた畑の、崖の高い木にとまっている、鳩が仲間たちを呼ぶ鳴き声の、ひどく寂しい夕暮れのことよ。

文法

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鑑賞のポイント

全体的に非常に寂しい印象を受ける歌ですね。「古畑」「そば」「すごき」「夕暮れ」と寂しい単語が続きます。

また、「鳩の声」もあらためて聴いてみると、寂しい気持ちに拍車がかかります。

鳩の声(YouTubeより)

https://www.youtube.com/watch?v=Y3dd3f9Dn74

 

前回のブログでも書きましたが西行は、あらゆる場所に草庵を作りながら旅をした僧侶であり歌人でした。つまり生活は基本一人。寂しい気持ちがこみ上げてくる時があったのでしょう。

 

季節は秋~冬頃だろうか。荒れ果てた畑。崖となっているところに立つ高い木。あたりは薄暗くなってきた夕暮れ時。その荒涼とした風景から聞こえる鳩の鳴き声。

あたりは静かで、ただこの鳩の鳴き声だけが聞こえてくる。

その空間に西行一人がたたずんでいる。寂しさが伝わってきます。

また「ともよぶ声」から、友のある鳩をうらやましく思う気持ち。もしくは、自分の心を鳩に託して友を呼びたい気持ち。が伝わってくるようです。

 

いい短歌は、感動の深さが大切です。

感動という単語が網羅する感覚はとても幅広いですね。

この「寂しさ」も心に迫るものがあります。

瞬発的な感動ではなく、心にじわりと迫るようなそんな感覚になります。

 

うれしい、楽しい、悲しい、哀しい、寂しい、侘しい・・・

毎日どれだけ深い感動ができたか。

そのことを確認する為にも、短歌を詠んでみてはいかがでしょうか?

 

 

心に和歌を!

最後までお読み頂き、ありがとうございます。

 

 

つくづくと軒のしずくをながめつつ日をのみ暮らす五月雨の頃

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 和歌原文

つくづくとのきのしずくをながめつつひをのみくらすさみだれのころ

つくづくと軒のしずくをながめつつ日をのみ暮らす五月雨の頃

西行山家集

現代語訳

しみじみと軒から滴る雨のしずくを眺めながら、ただただ暮らしている五月雨の頃。

文法

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鑑賞のポイント

雨が降り、じめじめして、梅雨は好きでない方が多いのではないでしょうか?

一人草庵に暮らした西行さんにとって梅雨はどう映ったのかが分かる歌です。

やはり、雨が降ると外出を控えます。

そうなると家の中から見える景色に意識が向かいます。

「つくづくと」「しずく」というところから、激しい雨というようりは、

しとしとと降り続く雨が浮かんできます。昨日も雨、そして今日も雨。ここ最近ずっと雨だなあと。思いながら、軒から落ちる雨のしずくを眺めながら、「日をのみ暮らす」。つまりただただ毎日を送る。それが五月雨。梅雨であるよ。

ということです。

 

この景色もまた風流ですな~。なのか、

とはいっても雨はあまり好きではない。なのか、

五月雨とはそういうものである。ただそういうものなのだ。という達観か。

 

詠む人の雨への気持ちによって、捉え方も色々ですね。

 

私は、空は青い!まぶしい!くらいの晴れが好きです。

まだまだ梅雨を味わえる心ができていないなあ。

 

心に和歌を!

さあ、梅雨を味わいましょう!

 

最後までお読み頂き、ありがとうございました。

 

なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる

 

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 原文

なにごとの おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる

 

西行 『西行法師歌集』

 

現代語訳

どういう方がいらっしゃるかは知らないけれども、恐れ多く、そしてありがたい気持ちで一杯になり涙がこぼれてくるよ

 

文法

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鑑賞のポイント

西行ってどんな人物?

元永元年(1118年)~文治6年2月16日

つまり平安時代末期~鎌倉時代初期に生きた歌人であり僧侶です。

もともとは、藤原氏の流れを汲む北面の武士(京都の上皇が住む館の北側を守る武士)だったが、23歳で出家しました。

友人の突然の死や失恋が原因だったと言われております。

その後、鞍馬山(京都)、奥羽(東北)、高野山(和歌山)、讃岐(香川)、伊勢(三重)、河内(大阪)などあらゆるところに草庵を営みながら人生を過ごしました。

奥羽に行く途中には源頼朝と面会し、歌は多くの歌集に撰出される有名人でありました。

没後15年に成立した勅撰集『新古今和歌集』では個人最高の94首が撰出されています。

また、松尾芭蕉西行に憧れており、

『おくのほそ道』は西行500回忌にあたる年芭蕉が江戸を発ち、奥州・北陸を旅した作品でした。

自由に生きながらも、世の中に斬新なアートを発表していく!ってどこか憧れますよね。才能があったからこそできる生き方です。

西行は、当時から有名な「さすらいの歌人」だったと思ってもらえたらいいです。

 

歌を味わう

明確にいつ詠まれたかは分かっておりませんが、西行が伊勢にいた頃、伊勢神宮に参拝した際に詠まれた歌です。

「この歌は日本人の宗教感をあらわしている」と言われます。西行にそのつもりがあったわけではないですが)

まず、真言宗(仏教)の僧侶だった西行ですが、神社(神道)で感動した歌を詠んでいるという点です。

宗派を超え、仏教も神道もごちゃまぜで大切にしてしまう宗教感

よく言われるように日本人は、教会で結婚式を挙げ、正月は神社に初詣に行き、先祖供養にはお寺でお経をよむ。宗教感ごちゃまぜな民族です。

私はこれは誇ってもいいことだと思います。

他宗を認めないことよりも、全て受け入れちゃう方がいわゆる「神」のおもいに近い気がします。

ちなみに日本人の宗教感を現代特有のことのように捉えがちですが、昔から変わっていません。

出典を忘れてしまいましたが、江戸時代末期、開国により日本に入ってきた外国人がこう苦言を呈していました。

「日本人は神社で参拝する時、その前後で笑いながらおしゃべりしている」

「現世利益を求めてお参りしている」 

「宗教感がない民族だ!」

 この外国人達の目に映った江戸時代の人々は、やはり我々の先祖だなあと感じませんか?生活の延長に神様がいる。これが日本人の宗教感であると思います。

 

さて、もう一つの日本人の宗教感はこちら。

八百万の神々(何もかもが神である)を信仰する宗教感

「なにごとのおはしますかしらねども」て、

外国の人からしたらありえない話ですよね。これが一神教多神教の違いというやつです。

日本人にとっての神様はふわっとしてます。

「なにごとのおはしますかはしらねども」「かたじけなさに なみだこぼるる」のです。

何か分からないけれど、かたじけなく(厳かでありがたく)、涙が出てしまう。この感覚分かりませんか?

神社に行くと、何か厳かであり、感謝の気持ちを伝えたくなる。けれどその実態を深く考えたりしない。それが日本人にとっての神様であり宗教なのです。

 

もう一度味わいましょう。

なにごとの おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる

 

自分ごときが分かるようなものでない、しかし非常に高貴な存在を認めつつ、

自分の理解を超えたこの何か大きな存在を肌で感じた西行は、ただ涙がこぼれるのでした。

その理由は言葉であらわすと「かたじけなさ」

 畏れと感謝の入り混じったような複雑な気持ちでした。

この「かたじけなさ」は神社などで感じられる「あの感覚」です。

 

率直な日本人の気持ちを詠った歌。

我々の意志を超えた何か分からないかたじけない存在。

今日もその存在に手を合わせましょう!

 

最後までお読み頂き、ありとうございます!

心に和歌を!

 

 

 

 

憶良は今は罷らむ子泣くらむそれ彼の母も吾を待つらむぞ

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 和歌原文

憶良は今は罷らむ子泣くらむそれ彼の母も吾を待つらむぞ

おくらはいまはまからむこなくらむそれかのははもわをまつらむぞ

                   山上憶良 万葉集』三三七

現代語訳

憶良は今帰ります。子供が泣いているでしょう。その母(妻)も私を待っているでしょうか。

 

文法

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鑑賞のポイント

 万葉集』「山上憶良臣、宴を罷る歌一首」として掲載されている短歌です。ある宴をおいとまする時に憶良が参加している方々に詠んだ歌です。この宴は太宰帥(大宰府長官)大伴旅人主催のものでした。大伴旅人と言えば・・・元号「令和」のもととなった『万葉集』「梅花の歌三十三首幷に序」の宴を主催していた人物ですね。憶良が筑前守(福岡辺りの長官)として赴任した頃、大宰府長官は旅人だったんです。

 宴会の途中でおいとましようとする憶良。場を白けさせず、その場を立ち去る時の気の利いた一言。そこで詠んだ子を思う歌でした。この歌には「憶良」「子」「彼の母」と登場人物が出てきます。これは「子」を中心として、その父を「憶良」その母を「彼の母」と呼んでいるのです。つまり「子」に焦点を当てて、子供の気持ちを中心とした歌なのです。ここでも子煩悩の憶良が垣間見えますね。

 また、この短歌は一首三文の歌です。「短歌をつくろう」のブログでも書きましたが、短歌は基本的に「一首一文」であることが大切です。それは感動を一首に込める時に、最初から最後まで精神が通っていることが大切だからです。しかし、この短歌は

「憶良は今は罷らむ。子泣くらむ。それ彼の母も吾を待つらむ。」と3つに切れている一首三文の歌なのです。「む・・・む・・・む」という音の繰り返しや、子供を中心とした登場人物のあらわし方で、一首三文でありながら統一感ある短歌となっているんですね。

 この宴の反応はどんな感じだったんでしょうかね。「憶良、また家族か~!」といじりながらも、憶良を送る雰囲気が目に浮かびます。家族想いをストレートに表現する憶良がかっこいいですね~。

 

心に短歌を!

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 

参考文献

『短歌のすすめ』夜久正雄、山田輝彦著 国文研叢書

 

 

 

銀も金も玉も何せむに勝れる宝子に如かめやも

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 和歌原文

銀も金も玉も何せむに勝れる宝子に如かめやも

しろがねもくがねもたまもなにせむにまされるたからこにしかめやも

 

                    山上憶良 『万葉集』八〇三

現代語訳

銀も金も宝石もどうして子供という宝に勝るものがありましょうか。

いやそんなものはない。

 

文法

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鑑賞のポイント

 前回ブログで紹介した「瓜食めば・・・」の長歌に対しての反歌となります。反歌とは、長歌の最後に添える短歌で、その要約の様な役割を果たします。『万葉集』では「子等を思ふ歌一首幷(ならび)に序」ということで一つの塊として掲載されています。

 

 この歌は有名な歌なので、習ったことがある方も多いのではないでしょうか。意味は詠んで字の如く「世の中の色々な宝物に及ばない宝物・・・それは子供だ!」ということですね。一見するとそりゃそうだ。ということですが、これだけストレートに子供が宝と表現できるか。と考えると、やはり後世に残る短歌ですね。「子供は大切だ」という思いを抱いていても、それを文字に表現することには一種の恥ずかしさがありませんでしょうか。しかし憶良は「世の中の宝と比較しても、子供に勝るものはない」と表現してしまう。このストレートに思いを歌にしたことが心を打つのですね。また、その前の長歌で日常での子供への思いを具体的に詠んでいる為、反歌では少し抽象的にまとめています。「色々食べている時も子供を思うし、寝る時も子供がちらつく。もう子供は世の中のどんな宝も及ばない宝だよ!こんちくしょう!」て感じですね。

 目の前にあると宝であることを気づけないものですが、この短歌を詠んで、あらためて自分の子供たちが宝であることを実感しましょう。

 

 

心に短歌を!

ここまで読んでいたあき、ありがとうございます!

 

 

瓜食めば 子ども思ほゆ 粟食めば まして偲はゆ 何処より 来りしものぞ 眼交に もとな懸りて 安寝しなさぬ

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和歌原文

瓜食めば 子ども思ほゆ 粟食めば まして偲はゆ 何処より 来りしものぞ 眼交に もとな懸りて 安寝しなさぬ

 

うりはめば こどもおもほゆ くりはめば ましてしぬはゆ いづくより きたりしものぞ まなかひに もとなかかりて やすいしなさぬ

 

               『万葉集』八〇二 山上憶良(やまのうえのおくら)

現代語訳

瓜を食べては子供たちのことを思い。栗を食べてはまして子供たちのことが偲ばれる。子供たちはどこからやってきたのだろうか。夜に目先にしきりにちらついて、なかなか眠れないものだ。

 

文法

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鑑賞のポイント

 山上憶良奈良時代初期の貴族・歌人です。今回の歌も掲載されている『万葉集』には自然や愛など色々な歌掲載されていますが、とりわけ山上憶良貧困や家族についての歌を多く残しております。「貧窮問答歌」など聞いたことありませんか?。それだけ現実の生活に根差して生きた人物であったことが想像できますね。貴族というとどうしても、自然や愛の歌を想像してしまいますが、憶良の歌は貴族の中では異色の歌人でありました。

 この歌は神亀三年(七二六)、筑前守(ちくぜんのかみ)として大宰府に赴任した頃の歌です。筑前守とは福岡あたりの長官で、後に豊臣秀吉筑前守の頃がありましたね。この頃の憶良は既に60代後半で、実子の歌ではなく、一般的な子への思いの歌ではないのか?とも言われておりますが、歌から伝わる切実さから、自分の子への思いを詠った歌であると私は思います。更に想像ですが、筑前守は単身赴任だったのでは。と勝手に想像してしまいます。(後に宴会から立ち去る際に「妻と子が待っているから」と伝える歌もあるため、単身赴任→途中から妻子と同居パターンでは)。私も単身赴任なのでよくわかりますが、会えない時ほど子供のことをよく思うようになります。

同年代くらいの子供がよく目にとまります。そして不思議なのが、いざ子供たちに会うと一人が恋しくもなります(笑)

 瓜や栗を食べる時。いつでも頭に子供が浮かんでくる。そして「何処より来りしものぞ」とその存在の不思議さまで考えてしまう。お母さんのお腹に宿った小さな赤ちゃんがどんどん大きくなり、歩き、言葉を話す。本当にふと不思議に思う瞬間があります。ずっと子供と一緒の方は「少し離れたい」と思うかもしれませんが、子供と少し離れてみると憶良の歌が身に沁みて心に迫ってきます。

 

最後に

  この歌は「五七五七五七五七七」という長歌となります。長歌の後には反歌と呼ばれる短歌がひっつきます。有名な短歌なので次回はこの反歌を紹介します。

 

こころに和歌を!

ここまで読んでいただき、ありがとうございます!

 

 

短歌をつくろう2

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  前回、短歌ってここがすごい。ということをお伝えしました。今回は実際短歌をつくる際に気を付けることをお伝えします。といっても、そんな短歌のプロでもないので、『短歌のすすめ』 夜久正雄・山田輝彦著 国民文化研究会 の内容を整理したもの。をお伝え致します。詳しくは、この本を是非お読みください!!!

 

一首一文一息でよめるものをつくろう

 基本的に文章の切れ目となる「。」が歌の最後にくるようにする。これが一首一文の意味です。

 

一首一文の例↓

さしのぼる朝日のごとくさわやかにもたまほしきは心なりけり 明治天皇

(さしのぼる朝日のようにさわやかに持ちないものは心だなあ)

 

 

一首二文の例↓

年の内に春はきにけりひととせをこぞとやいはむ、ことしとやいはむ 在原元方

(年内に立春の日が来てしまったよ。今日からの年は暦の上では旧年内だが立春が来たからには新年になるので、去年と言ったらよかろうか、今年と言ったらよかろうか)

 

どうでしょうか。一首二文の方が、どうも伝わりづらくないでしょうか。たった三十一文字の中に思いを詰めなければならない中、二文になるということは、そこに技巧が入り、ストレートに伝わらなくなるのです。もちろん万葉集の歌の中には一首二文以上の名歌もありますが、基本的には歌は一文ですっとつながっていた方がよいのです。

 また、どうしても「五七五/七七」と切ってしまったり、二行で書いたりしてしまいますが、本来は一文で書かれるべきものなのです。この、はじめから最後まで同じ精神が貫かれているものを「調べ」というのです。

 

内容は自分の体験とする

 自分が体験したこと。自分が感動したこと。を短歌にしましょう。伝わる短歌は、実感がこもっているものです。正岡子規はこう言っております「理屈を詠むな」。そう、理屈は詠んではいけないのです。こねくり回さず、感動をストレートに表現するから、その短歌は人の心を打つのです。これがなかなか難しい!

 

題材はなんでもよい

 題材は何でもOKです。但し本当の自分の心から湧き上がるものをそのままストレートに題材にすることが一番よいです。

 

言葉は口語?文語?

 口語(日常語)に近く、うすっぺらくならないような言葉を使う。ということが大切です。感動を伝えるのに、普段口にする言葉をそのまま使ってしまうと感動が薄っぺらくなってしまいます。かといって意味を辞書で引かなければならないような万葉の言葉を使っても、これまた伝わりません。口語に近く、うすっぺらくならないようにです。

 

深い感動をよもう

 とにかく深い感動を短歌にすること。この感動の深さが短歌の良し悪しに直結します。短歌は技巧が難しそうと思われがちですが、実は「深く感動できるか」が一番大切なのです。だから、老若男女、身分など関係ない平等な世界なのです。例えば、身分が高いと深い感動があるわけではないですよね。

 

連作短歌にしよう

 ある感動を短歌にしようと思うと、渾身の一首をつくろうと思ってしまい感動が抽象的な表現になってしまうことがあります。そのような場合は、一首で完結させようとせず、溢れてくるがままに、感動を何首にも分ければよいのです。

 

 

 いかがですか?短歌をつくってみようかなと思いませんか。何度も繰り返しますが「深い感動」ができるかどうかが一番大切です。となると自分の毎日の充実度がどうなのかということに帰結します。「やったーうれしい!!」「悲しい・・・」「さみしい・・・」「楽しい!!」「感動~~」「きれいだ~」「くそー!」こういう気持ちに満たされた毎日を自分はしているだろうか。短歌を通じて感じられれば最高です。

 

心に短歌を!

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 

↓内容は下記を整理したものです!

『短歌のすすめ』 夜久正雄・山田輝彦著 国民文化研究会

 

短歌をつくろう1

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今まで短歌を紹介してきましたが、ここで一度「短歌」とはどういうものだろうか。

どうつくればよいのかについてまとめました。短歌を作ってみよう!と少しでも思っていただければ幸いです。

 

「短歌」はすごい! 

そもそも短歌とは何か

短歌や和歌、俳句など日本にはあらゆる「歌」がありますので、整理しました。

 

和歌:短歌(57577)・長歌(57 57・・・577)・施頭歌(577 577)の総称だが、

   主に短歌を指す。

短歌:和歌と同じ57577の31文字構成。和歌(57577)にあったルールを明治以降

            否定した新しい和歌。

狂歌:57577の31文字構成。社会風刺などを詠んだもの。

俳句:575の17文字構成。

川柳:575の17文字構成だが、俳句の季語や切れなどのルールがない。

 

短歌の前ではみな平等である

 短歌は先にあるように五七五七七の三十一文字というルールの中に自分の感情や想いをのせていくものです。あるのはこのルールのみ。あとはなにを詠もうが、誰が詠もうが自由なのです。そして、そのルールのもとに日本では昔から、あらゆる人が短歌を詠んできたのです。それは、老いも若きも。男性も女性も。学問のある人も、ない人も。天皇陛下も武士も貴族も国民も。あらゆる年齢や地位などを超えて平等な世界の中で詠まれてきたのです。例えば、貴族の歌が国民の歌よりいい!ということはなく、

短歌の前では、皆が平等で「心」だけが評価されてきた。のです。

 「心」だけが評価のもととなる、時間を超えて多くの人が参加している短歌と考えると自分もその中に参加したくなりませんか。スポーツや文化でも誰もが参加できて、昔の人ともっと言うと未来の見知らぬ日本人とも同一ルールのもとで共有できるものはないのではないでしょうか。

 

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短歌は心の写真

 自分で短歌を詠んでみると1つ気が付くことがあります。それは色々と言葉を巡らせながら完成させた短歌は、後で詠み返すとその時の情景や気持ちが鮮明に甦ってきます。昔よく聴いていた歌をあらためて聴くと当時の情景が浮かび「なつかしい」と思う、あの感覚に似ているかもしれません。そう短歌は心の写真だ。と私は思っております。例えば、春の空の清々しさに感動して短歌をつくるとします。「空が青いから『空青き』かな・・・いや青さというより太陽の明るさが気持ちいから『明るき空の』かな・・・いや気持ちいいというこの感覚を強調したいから・・・」というように自分が何に感動したかを言葉に変換しようとします。その過程で心に情景や感動が刻まれていくのです。これは実際体験してみないと分からないことなので、是非みなさんにも体験してほしいです!

短歌は脳の筋トレ

短歌は感動を言葉にする行為であるのですが、この感動と言葉の往復というのは、右脳(感動)左脳(言葉)の往復とも言い換えられます。

感動や直感(右脳)を言葉や論理(左脳)にしていくことは、AIが発展する現代にますます重要になります。なぜならAIは左脳力で人間を凌駕するからです。人間は右脳力を生かし、その発想を左脳に転換することで人間としての面目が保てる時代に入りつつあります。そこで右脳力(直感力)を研ぎ澄ますこと。直感を論理にできること。が求められるのですが、なんと!短歌をつくることはまさにこの右脳⇔左脳を行う行為。つまり短歌は脳の筋トレ(脳トレ)なのです。短歌は古い?いえ、短歌はこれからの時代に求められる最高最新の脳トレです。

 

感動に敏感になる

 実際短歌をつくってみようと意識して生活すると、自分の感動に敏感になります。そして、ふと気が付きます「今日一日で全然感動していない!」と。短歌をつくろうと思う時は、心に引っかかるものがあるからなのです。しかし感動がないと引っかかりがないまま一日は終わってしまいます。隙間時間にスマホを見て、時間に追われ、あれこれ先のことを考える。そうしていると感動という感情が湧き上がらないのです。いつも通っている道でも心に余裕を持ち、他のことに心をとらわれずに歩くと、軒先に新しい花が咲いていることを発見したり、視線をいつもより少し上げてみるとレトロな看板を発見したり。たくさんの発見と感動が転がっています。「短歌を詠もう」という姿勢だけで、自分の心に目がいくようになります。そして毎日を味わい尽くすことができます。

 

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さあ、短歌ってなんかすごいかも。ということをお伝えして、次回は短歌のつくり方についお伝え致します!

 

 

心に和歌を! とこれまで締めくくってきましたが

心に短歌を! に変えます(笑)

 

 

参考にした本は、

『短歌のすすめ』夜久正雄・山田輝彦 著  国民文化研究会

 

 

 

 

「令和」初春の令き月、気淑く風和み、梅は鏡の前の粉を披き、蘭は珮の後の香を薫らす。(2/2)

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はじめに

前回のブログで「令和」の原典となった序文についてご紹介いたしました。今回はその序文の後に続く三十二首にはどのような短歌があるか数首ピックアップしてご紹介いたします。また万葉集』がなぜ日本人にとって大切な歌集なのかもご紹介しますね!!

 

前回1/2はこちら↓

oidon5.hatenablog.com

 

梅花の歌、三十二首にはどのような短歌がある?

まずはこの花見の主人である大伴旅人

わが苑(その)に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも

私の苑に梅の花が散る。天から雪が流れきたのかもしれないなあ。

 

ひさかたの:「光」「天」「月」「日」「雨」「雪」など天に関係する語や「都」にかかる枕詞。

 

ここからはランダムに。まずは、笠沙彌氏

青柳梅との花を折りかざし飲みての後は散りぬともよし

青柳と梅の花を折り髪などに飾り酒を飲んだ後は散ってもよい。

何とも楽しそうです!今を楽しむという感じです。

 

薬師張氏福子

梅の花咲きて散りなば桜花継ぎて咲くべくなりにてあらずや

梅の花が咲いて散れば、桜の花が続いて咲きそうになっているではないか。

私達にとっての「花見」と言えば桜の花。この時代も桜の花もちゃんと意識されていたんですね。

 

少令史田氏肥人

梅の花いまさかりなり百鳥(ももどり)の声の恋しき春来るらし

梅ん花が今盛りだ。さまざまな鳥の声も恋しい春がやってくるようだ。

 

筑前掾門氏石足

鶯(うぐいす)の待ちかてにせし梅が花散らずありこそ思ふ子がため

鶯の待ちわびていた梅の花よ、散らずにいてくれ愛する人のために。

「思ふ子がため」この子は誰なのかな。と想像膨らみますね。 

 

と、いくつか紹介しました。季節と花と鳥と人。自然が溶け合う姿が目の前に浮かんできますね。自然の中に暮らす日本人を感じずにはいられません。

 

万葉集』はすごい歌集

 さて『万葉集』という歌集が日本にはあった。と言われても「ふ~ん」で終わってしまうのではないでしょうか。どういう部分がすごいのか!2点紹介いたします。

 

①身分に関係なく掲載されている

まずすごいことは、身分に関係なく掲載されていることです。和歌と聞くとどうしても「貴族が楽しんだものでしょ」という印象があるかもしれませんが、実は身分に関係なく日本人は和歌を詠んだのです。例えば防人の歌や農民の歌。誰が詠んだが分からない歌。東国の歌。天皇や貴族から一般の人たちまで、幅広い層からの歌を集めているのが『万葉集』です。つまり、日本人全体が歌を詠み、歌の世界は身分も関係ない平等の世界だった。ということです。

このような歌集が日本最古の歌集であるという事実は誇りに思ってよいと思います。

 

②想いを文字に「万葉仮名」という努力

万葉集』の原文は全て漢字で書かれています。「うわ~こりゃ読めない」と思うのですが、実は漢字の音だけを借りて記述されているのです。例えば、最古の万葉仮名をよんでみましょう。

「皮留久佐乃皮斯米之刀斯」さあこれはどうよむでしょうか?

 

「はるくさのはじめのとし」です。

つまり、皮=は 留=る と漢字の音だけを使って意味をあらわしているのです。
万葉仮名と付くように、現代の仮名文字の原型です。
仮名文字も漢字が崩れてできあがったのでしたよね。(以→い のように)

これが何がすごいかというと、自分達が普段使っている言葉のを忠実に残そうとした。ということです。

音を伝える為の苦心の策が万葉仮名です。

この万葉仮名によって、奈良時代の人々と現代の私達の間で言語の分断がなく、想いを共有できるのです。

よく考えればすごくないですか?『万葉集』の時代の人の想いが、今そのままの音で聞いても分かるってこと。

 

他国を見てみては、英語やスペイン語ポルトガル語を使っているアフリカや南米の国々は言語の分断が起きてますね。また、英語もルーツを探っていくと日本ほど遡れません。言語の継承とは想いの継承であり、文化継承にとって一番重要なことです。私達は日本語で考え、想い、意思疎通をしているのですから。

 

例えば以前紹介した『万葉集』防人の短歌。

↓ 

oidon5.hatenablog.com

今でも意味が分かるし、その想いも伝わりますね。 

終わりに

いざ自分で短歌を作ろうと思うと、どうもネタが枯渇する。
仕事が忙しくなると「辛さも人生のうちだ!」「怒るな!」みたいな、短歌として決して美しくない心の叫びのような歌ばかりになる。

それはそれで味があるのですが、万葉集』に掲載されているような、自然を愛でる環境から遠ざかっている自分に気が付きます。

そもそも自然が目の前にない。
目の前にある自然を味わう時間的余裕や心の落ち着きがない。
ということが原因に挙げられますが、とはいえ日常の中には必ず風や光、木々に鳥や虫の声があるはずです。それをキャッチできない自分の心のアンテナを磨く為にも『万葉集』に目を通してみませんか?

 

以上、お読みいただき、ありがとうございます!

心に和歌を!

 

 

 

 

「令和」初春の令き月、気淑く風和み、梅は鏡の前の粉を披き、蘭は珮の後の香を薫らす。(1/2)

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 「令和」の出典

初春(しょしゅん)の(よ)き月、気(き)淑(よ)く風(かぜ)(なご)み、梅は鏡の前の粉(こ)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮(はい)の後の香(こう)を薫(かお)らす。

万葉集』 巻五 「梅花の歌三十二首并に序」

 「令和」を知ろう

四月一日に新元号が公表されました。

  令和

日本古典からの引用は初めてで、
645年「大化」以降、248番目の元号となりました。

今回のブログでは「令和」の出典元の文章や『万葉集』について、
お伝えしようと思います。

 

序文の文章を読もう

「令和」の出典元となる一文の紹介はたくさん見ますが、
そもそもの序文全体はどのようなことが書かれているのか気になりませんか?
紹介しちゃいます!

 

書き下し文

まずは書き下し文。音のリズムを感じてください。

 

梅花の歌三十二首并に序

天平二年正月十三日、帥(そち)の老の宅(いへ)に萃(あつ)まりて、宴會(えんかい)を申(ひら)く。時に初春(しょしゅん)の(よ)き月、気(き)淑(よ)く風(かぜ)(なご)み、梅は鏡の前の粉(こ)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮(はい)の後の香(こう)を薫(かお)らす。加以(しかのみならず)、曙の嶺に雲移りては、松、蘿(うすもの)を掛けて蓋(きぬがさ)を傾け、夕の岫(くき)に霧結びては、鳥、縠(となみ?うすもの?)に封(こ)めらえて林に迷ふ。庭には新しき蝶舞ひ、空には故(もと)つ鴈(かり)歸(かえ)る。ここに天を蓋(きぬがさ)にし、地を座(しきゐ)にし、膝を促(ちかづ)け觴(さかづき)を飛ばす。言を一室の裏に忘れ、襟を煙霞(えんか)の外に開き、淡然(たんぜん)として自ら放(ほしきまま)に、快然(かいぜん)として自ら足りぬ。若(も)し翰苑(かんえん)にあらずは、何を以ちてか情を攄(の)べむ。詩に落梅の篇を紀(しる)せり。古と今とそれ何ぞ異ならむ。宜しく園の梅を詠みて聊(いささ)か短詠を成すべし。

 

 【単語の意味】

天平二年→730年。奈良時代奈良の大仏を造った聖武天皇の時代。

・正月→太陰暦の春の最初の月。立春の頃。現代の暦で2月初旬頃。

・帥の老→大伴旅人 帥=太宰帥=大宰府の長官のこと

・宴會を申(ひら)く→宴会をひらく

き月→よい月

気淑く→大気・空気が良く

・鏡の前の粉を披き→鏡の前の白粉(おしろい)のように

珮→古代の装飾具。貴族の飾り袋?

曙の嶺→ほのぼのと夜が明ける頃の山の頂上付近

蘿(うすもの)→うすい織物

蓋(きぬがさ)→笠。絹を貼った、柄の長い傘。

・夕の岫(くき)→夕方の山のくぼみ

鳥、縠に封めらえて→縠「となみ(鳥網)?薄い織物?」。鳥は霧にとじこめられ

故つ鴈歸る→去年やってきた雁が帰っていく

觴(さかづき)を飛ばす→盃を交わす

言を一室の裏に忘れ→(楽しさのあまり)座の一同は言葉を忘れ

襟を煙霞(えんか)の外に開き→襟をかすむ景色に開き

淡然として→さっぱりとした気持ちで

快然として→心地よい気持ちで

翰苑→文章

・詩→『詩経』?

聊(いささ)か→ほんのすこし

短詠を成すべし→短歌を作ろう

 現代語訳

梅の花の歌32首の序文

天平二年正月十三日。大宰府長官大伴旅人の邸宅に集まって宴会を開いた。
時は初春の良い月で、空気は良く、風は和み、梅は鏡の前のおしろいのように白く花ひらき、蘭は飾り袋の香りのように匂っている。
それだけでなく明け方の山の頂上に雲がかかり、松が薄い絹をかかげ笠を傾けており、夕方の山の窪みに霧がたちこめて、鳥が閉じ込められ、林に迷い込んでいる。
庭には新しい蝶が舞い、空には去年やってきた雁が帰っていく。
ここに天を笠にして、地面を座にして、膝を近づけて盃を交わそう。
楽しさのあまり座の一同は言葉を忘れ、襟を外のかすむ景色に開き、さっぱりした気持ちで心の赴くままに、心地よい気持ちで満ち足りている。
この気持ちを歌でなく、何であらわせようか。『詩経』に落梅の篇がある。
昔も今も同じである。さあ庭の梅を題材にして短歌を詠もうではないか。

 

補足

万葉集』について

万葉集』は7世紀後半~8世紀後半に編集された現存する日本最古の和歌集です。
編者は明確には分かっておらず、勅撰説(天皇上皇の命により編集される歌集)橘諸兄説、大伴家持説などがあります。
ただ、1人が全て編集したというよりは、巻によって編者が異なるものをまとめて編せられたといわれております。

巻は全部で二十巻あり、「令和」の本となった序文は巻五にあります。

また、『万葉集』の題号の意味も諸説あります。

何よりも『万葉集』のすごいところは、

庶民の歌から貴族の歌。四季の歌から愛の歌まで、四千五百余首の歌が平等に選ばれていることです。

つまり歌の世界では地位も身分も関係ないということを今に伝える貴重な和歌集なのです。

大伴旅人について

665年(天智天皇四年)~731年(天平三年)。飛鳥時代奈良時代の公卿であり歌人
大納言という左・右大臣の次席の役職に最終的には就いた身分の高い人物です。
六十歳を過ぎてから当時の外交の窓口である大宰府の長官に任命されました。

ちなみに当時の大宰府は、九州一帯の行政と朝鮮・中国外交と防衛を所管としており「遠の朝廷」と呼ばれるほどの権力がありました。

旅人は「酒を讃(ほ)むるの歌十三首」を詠んでおり、酒を愛した歌人として知られている。

 

花といえば「梅」!?

今回の序文は花見について書かれています。私達は花見と聞くと「桜」を思い浮かべますが、

奈良時代まで花と言えば「梅」だったのです。

例えば『万葉集』の「梅」の歌は110首。「桜」の歌は43首しかありませんでした。それが平安時代初期に編纂された『古今和歌集』では

「梅」の歌が18首に対して、
「桜」の歌が70首。

平安時代には花=「桜」となり、以後現代に至っております。

梅の花を見て歌を詠むということは当時中国で盛んでありました。この時代の日本は遣唐使全盛期。特に大宰府は貿易の最前線の為、旅人は当時最先端のイベントを催したのでした。

しかし、平安時代に入り徐々に唐風文化は廃れ、国風文化に変遷し、それに伴い

花=「桜」となるのでした。  

春や花と聞くとどうしても4月頃をイメージしてしまいますが、
この序文の時期は「立春の梅の時期」。
つまり今の2月なんですね。そうなるとイメージする景色もまた変わってきませんか?

 

まとめ

「令和」の出典とその背景について今回は取り上げました。「令(よ)き」「和(なごむ」時代がこれからやってきます!

安倍首相が「厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、日本人が明日への希望とともにそれぞれの花を大きく咲かせることができる日本でありたい、との願いを込めた」と語っております。

まさに力強く、そして良き香りを辺りに薫らせる自分であり国であることを目指す時代に入りました。非常に楽しみですね!

 

心に和歌を!

次回は、和歌ブログらしく三十二首の歌の抜粋紹介と『万葉集』がなぜすごいのか!についてです!

 

 

参考文献

『新訓 万葉集』佐々木信綱編 岩波文庫

産経新聞4月2日号

 

「令和」2/2はこちら↓

oidon5.hatenablog.com

 

↓『万葉集』関連記事はこちら

oidon5.hatenablog.com

 

↓ 大和心とは?記事はこちら

oidon5.hatenablog.com

 

 

 

 

身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂

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和歌原文

みはたとひ むさしののべに くちぬとも とどめおかまし やまとたましひ

身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂

 

吉田松陰留魂録

 

現代語訳

私の身が武蔵の地で朽ちてしまおうとも、大和魂だけは留めておきたいものだ

 

文法

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鑑賞のポイント

ふんどしが繋いだ「松陰の遺書」

 今回の和歌は松陰の遺書である『留魂録(りゅうこんろく)』の一番冒頭に記された歌。つまり松陰の辞世の句です。『留魂録』は処刑される安政六年十月二十七日直前の二十五日~二十六日にかけて松陰が書いたものです。松陰は弟子に確実に届くよう同じ内容の文章を二通作りました。そのうちの一通は江戸にいた弟子の飯田正伯から高杉晋作久坂玄瑞などの弟子に伝わり、回し読みされました。しかし、この原本は現在残っておりません。

 もう一通の手紙は、明治九年。神奈川県令(県知事)野村靖のもとに謎の人物から突然届けられました。この人物、名は沼崎吉五郎といい、なんと松陰が入っていた牢の名主(牢の中で一番偉い)。松陰は沼崎の人柄を信用し『留魂録』を託したのでした。後に沼崎は遠島の刑となり獄を出る時、ふんどしに『留魂録』を隠し、その後も大切に保管しました。時は経ち、明治の世になってから沼崎は長州藩士である野村靖が神奈川県令になったことを知り、松陰に託された『留魂録』を届け出たのでした。この一通は現在松陰神社に展示されています。松陰直筆の遺書はふんどしに隠され、後世の私達までつながれたのです。

 

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留魂録』冒頭  吉田松陰.comよりhttp://www.yoshida-shoin.com/torajirou/ryukonroku.html

生きるとは何か。『留魂録』が教えてくれること

 では『留魂録』にはどのようなことが書かれているのでしょうか。死を翌日に控えた松陰が何を考えたか。そこに「生きるとは何か」を考えるヒントがあります。

 

私は江戸送りになる時1枚の布を求め孟子「至誠にして動かざる者、いまだ是れあらざるなり」の一句を書き、手ぬぐいに縫い付けて持ってきた。そして評定所の中に留めおいた。これは私の志をあらわすものである。もし天が私の誠を汲んでくれれば想いは幕府の役人にも伝わるであろうと志を立てたのである。しかし、私の誠は幕府役人に伝わらず、今日に至った。これは私の徳が薄く天を動かすことができなかったと思うと、誰も責めることはできない。

今日死を覚悟しているのに心が平安なのは春夏秋冬の四季の循環から得られたことがあるからだ。稲作のことを考えると、春に種を蒔き、夏に苗を植え、秋に刈り、冬に貯蔵する。秋冬には収穫を喜び、酒をつくり、甘酒をつくり、村々に歓声がみちる。いまだかつて収穫時期に、労働が終わることを悲しむということを聞いたことがない。 私は今年で三十歳になった。まだ一つの事も成すことができず死ぬのは、花を咲かせず、実がならないようで、惜しいことのようにみえる。しかし、私については花が咲き、実がなったのだ。だから悲しむことはない。なぜなら、人間の寿命に定まりはなく、穀物のように四季を経るのとは違う。十歳にして死ぬ者には、十年の中に四季があり。二十歳にして死ぬ者には、二十年の中に四季がある。三十歳にして死ぬ者には、その三十年の中に四季がある。五十歳、百歳。それぞれにもその中に四季がある。十歳をもって短すぎるというのは、夏の蝉を長い間生きている椿にしようとするようなものである。逆に百歳をもって長すぎるというのは、この椿を夏の蝉のようにしようとするようなものだ。どちらも天命に沿っていない。 

私は三十歳、四季はすでに備わっている。また花咲き、実を結んでいる。その実がよく熟しているかどうかは、私の知るところではない。もし同志の中でこの私の心を憐み、受け継いでくれる人がいるならば、種子が絶えることなく、次から次へと循環していくことと同じである。同志の皆さん、よくこのことを考えてください。

 ご紹介した松陰の言葉について二点補足致します。

①天という存在 

 松陰の言葉には「天」がよく出てきます。「天」とは何か。それは人智を超えた存在。なるべくしてなるように世の中を運行させる存在。といった感じでしょうか。正しいことは正しい結果となり、間違ったことは間違った結果となる。誠を尽くせば天に通じそれなりの結果となり、誠を尽くさなければ天に通じず結果もでない。そういう自分の力の及ばない宇宙の法則を「天」と呼びました。(松陰の言葉で「天」を説明する文章を見つけましたら追記します)。天が下す結果は絶対的に正しい。それは自分にとって好ましくない結果であろうと、天から見た結果としては正しい。なので松陰は誠をどれだけ尽くすかにこだわり、結果は天の意向として受け入れ、結果の原因は自分に求めたのです。つまり結果は他人のせいではなく、自分のせい。そのジャッジは天なのです。

②人生の中の四季

 四季は365日という時間の中で巡っていきます。つまり、春に植えた種が夏に収穫はできないのです。時間を経て秋が来ないと収穫ができない。なので四季は365日という時間の中で成立しています。しかし、人間は違う。時間で測れない存在ということです。「やっぱり70年くらい生きないと人生の醍醐味を味わい尽くせない」ということではなく、10歳には10年の中に人生の醍醐味が凝縮されており、100歳には100年の中に人生の醍醐味が凝縮されている。我々の四季、人生の醍醐味は生まれてから死ぬまでの時間の長さに関係ない。そういうことを松陰は死を目前にして感じていたのです。

「身はたとひ・・・」の和歌をよむ

 これらを踏まえて、あらためて今回の和歌をよんでみましょう。自分の身(肉体)は明日死ぬ(朽ちる)。しかし、魂は残していきたい。これは時間を超越している考え方です。身は時間に制限されるものです。年齢を経れば身長は伸び、そしてある年齢になると死が必ず待っています。しかし、魂・想いというものは時間に制限されるものではない。時間を超えて残り続けるものです。その残り方には、魂というものが残る。と考えるか、その想いが他人に伝わり残っていく。と考えるかは色々な考え方があると思いますが、少なくとも松陰は身は朽ちるとも、魂は残す。と考えました。

 またこの和歌は強い決心を詠んでいるいるように思われますが「留め置かまし」の「まし」は「実際そうならないと分かっていながらの希望、仮定」の意味なので、強い意味ではありません。そこに死という未知の世界を真正面から捉えている松陰を私は感じます。死んでしまうと未知の世界の為どうなるか分からないが、今私は「大和魂を留めておく」と考えている。ということです。自分の強い想いがありながら天の計らいをわきまえている、強い意志と謙虚さを感じられます。

最後に

 激烈な行動家である松陰は30年で生涯を閉じるのですが、その想いは弟子達に受け継がれ明治維新の原動力となりました。しかし、捕まる前の松陰の過激な言動に弟子達も距離を置く時期があったことをご存知でしょうか。弟子達さえも松陰の真っ直ぐな言動に

ついていけないと感じたのです。その松陰は『留魂録』を残し、突然この世からいなくなってしまいます。すると、あれだけ松陰の言動を諌めていた弟子達は、英国大使館を焼き討ちしたり、京に火を付ける策謀を巡らし新選組に襲われたり、果ては奇兵隊を立ち上げ幕府と戦うことになる。まるで松陰をなぞるような激烈な行動を起こしていきます。結果的には時代の変わり目の先頭を松陰が走り、弟子達が追いかけ、そして時代の流れもそれらに引っ張られるかのように明治に向かって進んでいきました。

 安定の行き先に破綻を見通した場合、安定を壊してでも破綻を免れることが必要な時代の変わり目というものがあります。その変わり目を確信を持って捉えられる人物は稀であります。明治維新は誰もが最初から最後まで同じ考えのもと行動した結果ではありません。あらゆる考えや行動が浮かんでは失敗し、徐々に「考え(理想)」と「現実」の妥協点が見えてくることで成ったものなのです。徳川慶喜を待望したり、外国と戦ってみたり、天皇家と幕府を結びつけてみたり、雄藩(強い藩)の連合政治を試みてみたり。

 今の時代も「時代の変わり目」と言われますが、そのど真ん中にいる自分達には当たり前ですが未来を見通せません。多くの想いと行動の積み重ねの先に成るべくして成る未来がやってくるのです。その行動には松陰の時代ですと「死」を伴う可能性が常にありました。一方、今の時代はよっぽどの事がない限り「死」はありません。だからこそ自分の頭にある理想を小さな一歩の行動に変えていきましょう。日本人みんなの先輩、松陰先生を胸に抱いて。

 

最後まで読んで頂き、ありがとうございます!

心に和歌を!

 

 

何事もならぬといふはなきものを ならぬといふはなさぬなりけり

 

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吉田松陰久坂玄瑞

和歌原文

なにごとも ならぬといふは なきものを ならぬといふは なさぬなりけり

 

何事もならぬといふはなきものを ならぬといふは なさぬなりけり

 

吉田松陰 嘉永四年八月十七日「江戸留学中、父叔父宛てに書いた手紙より」

現代語訳

どんなこともできないことはないのに、「できない」というのはやらないからである。

 鑑賞のポイント 

①行動家 吉田松陰の片鱗をみせる和歌

 この和歌が登場するのは嘉永四年(1851年)八月「父と叔父に宛てた手紙」の中です。同年の三月に松陰は藩主に従って江戸に初めての留学をしました。この時に前回の和歌ブログでも登場した佐久間象山や宮部鼎三らと出逢います。自分の人脈・学問の幅が一気に広がる松陰22歳の時でした。そのような江戸での日々の出来事を郷里の父や叔父に手紙で伝える中にこの和歌はありました。それは『武士訓』という武士の日常の心構えを書いた本を読んで松陰の心に残った1つの和歌でした。

 最初は「松陰のよんだ歌」と思い調べてみたのですが、該当の手紙には「昨夜武士訓を読む 其内歌多き中に一首・・・」という文章に続けて今回の歌があるので『武士訓』の引用と思われます。(『武士訓』を読み、今回の和歌を見つけましたらあらためて報告します!)

 とはいえ 行動家 吉田松陰 ができあがる過程にはこのような言葉との出逢いが無数にあったのでありました。この歌を紹介した同年の12月に松陰は有名な 東北脱藩旅行 を断行します。友達と交わした東北旅行の約束を果たす為に藩の許可を待たずに脱藩してしまう行動です。これも行動力なのかはさておき・・・。

 

久坂玄瑞との手紙にみる「行動」の意味

 話は変わりますが 久坂玄瑞(くさかげんずい) という人物をご存知でしょうか? 松下村塾のエースとして高杉晋作と共に挙げられる人物です。松陰からも信頼が厚く松陰の妹と結婚したのが、この久坂玄瑞です。後に長州藩尊王攘夷派の中心として活躍しますが、禁門の変に参加し自害してしまいます。詳しくはこちら↓

ja.wikipedia.org

 この玄瑞が松下村塾に入る前に松陰と手紙のやりとりをしています。この手紙がすごく激しい!そして「行動」について考えさせられます!そこで、二人の手紙のやり取りから「行動」について考えたいと思います。(ちなみにこの頃の松陰は密航の失敗から入れられていた獄より出獄し家にいた時でした。)

松陰です

久坂です

 

今の時代はどうなっているんですか!日本らしさ、武士らしさは緩み、西洋にやられっぱなしではないですか。元寇の頃に元の使者を斬ったように、今も西洋の者を斬るべきだ!

議論が軽薄で、思慮が浅い。誠の心が沸き起こって書かれた言葉でない。世間の慷慨を装って実は利益や名声を求めるのと同じだ。僕はこのような文章を嫌うし、この種の人物も憎む。なぜこう考えるか説明するので、よく考えよ! ①北条時宗元寇の時の鎌倉幕府の執権)を例に挙げることがずれている。 ②使者を斬る時期は既に逸している。これが思慮が浅い部分だ。 ③ことを論ずるには、まさに自己の立っている地点、置かれている身より考えて論を進めるべきだ。君は医者だ。それなら医者の立場から考えよ。利害を心から断ち、死生を念頭に置かず、国、主君、父のことのみ思うべきだ。家を身を忘れ、家族を友人を郷党の人々を巻き込み、上は主君に認められ、下は人民に信頼される。こうしてから事は行われるべきだ。誰でもできることだ。こういうことを考えず一人おごり高ぶって天下に対しての計画を発言することは意味がないことだ。これが議論が軽薄と言った部分だ。あなたの役割はなんだ?弓馬か?刀槍か?舟か?鉄砲か?それとも大将なのか?使者なのか?自分の周りにあなたの為に死ねる人は何人いるんだ?あなたの為に力を貸そうという人は何人いる?資金を出してくれる人は何人いる?すごい人というのは議論ではなく、成したことがすごいのだ。あれこれ言う前にまずは誠を積み重ね蓄えることに専念しなさい。

先生の手紙を読み憤激しました。一言言わせてください。今の日本に欠けているのは勇気であり決断ではないか。日本人の魂を奮い立たせる為に使者を斬るべきと言ったのです。先生は医者は医者の立場で物を言えと言われますが、一医者が天下を論じることがいかに分を越えたことかは先生の言葉がなくても十分理解しているつもりです。じっとしていられぬからこう申し上げたのです。先生ならばきっと分かって頂ける。そう思ってお手紙をさし上げたのに、このような手紙を受け取ったのは非常に残念です。先生がおっしゃることにはどうしても納得できなません。これが先生の本心であれば、先生を紹介くださった※宮部さんが先生を誉めたこと。自分が先生を豪傑と思ったことは全て誤りだったと言わねばなりません。  ※宮部鼎三のこと

 

君は僕の批判は自分が地位を越えて天下を論じたことと思い込んでいるが、僕が君に望みをもっているのはまさにこの「越えられる」ということである。そのことを理解せず、あえて越えようとせず、いたずらに坐して空論をするだけ。これが大いに残念だ。君は雄弁に語っているが一事として自らの実践から出たものではなく全て空論だ。僕は君から空論の病を取り去り、自ら実践する場に戻したいと思っている。一身より興して家に達し、一国より天下に達する。一身より子に伝え、孫に伝え、曾孫、玄孫に伝え、遠い子孫に伝える。広まらない、達しないところがないようにせねばならない。遠くまで達するかは行為の厚い薄いを示し、広く伝わるかは志の深い浅いを示す。心を天地の間に立て、一命を人民の間に立て、古の偉人のあとを継ぎ、万世に開くのです。

先生は私を口先だけだと言う。私はそれを否定しようとは思わない。もしかしたらそうかもしれない。しかしそれでも言わないではおられないのだから言うのです。

君の説明を聞いて僕が間違っていたことがやっと分かりました。どうか決心し、今から計画し外国の使節を斬ることを任務としなさい。僕は以前使節をこらしめようと考えたが、才能も策略もなく何もできませんでした。その後は密航を試みましたが失敗しました。君が僕に賛成しないのは、自分の才略をもって成功させられると自信をもっているからでしょう。本当に僕は及びません。もし君が実行すれば天下万世にその名声は広まり、後世に名を残すでしょう。しかし・・・もし口だけで実行しないのであれば僕はもっと君の空虚で口だけなことを責めるでしょう。まだ反論しますか?どうですか?

 

いかがでしょうか?この手紙のやりとり。当時松陰27歳。玄瑞17歳。松陰は17歳の青年に全力でぶつかっていきます。そして玄瑞も全力でぶつかっていきます。この魂のぶつかり合いには圧倒されるしかありません。後に久坂は松下村塾に入塾し、松陰の元で直に学び、志士として活躍していきます。明治維新とはこういう人物達の想いと行動の積み重ねで達成されたものということを強く感じる手紙のやりとりです。

最後に

 松陰と玄瑞の手紙の中で「行動」について大切なことを学ぶことができます。それは「自己の立っている地点、置かれている身から考え行動せよ」「まず自分自身のみでできることから行動。そこから家族、地域、国と広がっていくものだ」ということです。「国はもっとこういう施策をすべきだ」「会社のここがだめだ」「家族がこうであれば」という言葉を口にした時は自分の心の中の松陰がこう言います。「それにむかって自分ができる範囲で何をしているの?」と。

 

何事も「成らぬと」いふはなきものを「ならぬ」と言ふは為さぬなりけり

 

小さなことでも、些細なことでも。1mmでも前に歩む行動をすると自分自身と約束をしてみませんか?高すぎる目標を立てる必要もありません。1mmでいいのです。言葉にしたことを実現するためにできる1mmの行動を。

 

心に和歌を!

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

 ↓今回の参考文献1

『日本の名著(31)吉田松陰中央公論社

 

↓今回の参考文献2

『日本への回帰 第七集』国民文化研究会

 

 

吉田松陰の他の和歌はこちら↓

oidon5.hatenablog.com

 

かくすればかくなるものと知りながら已むに已まれぬ大和魂 2/2

 

「かくすればかくなるものと知りながら已むに已まれぬ大和魂吉田松陰

 

 今回は、前回紹介したこの和歌を松陰がよむに至った経緯についてもう一度細かく追っていこうと思います。

 

松陰が黒船に乗り込むまでの動向や想い。

乗り込んだ後のやりとり。

なぜ失敗したのか。

これらを後に松陰の書いた『幽囚録』『回顧録』という本をもとに追っていきます。

この和歌が更に胸に迫ってくると思いますよ!

 

※ちなみに全て松陰目線で書いております。

 

黒船に乗船するまで

志の発端

 嘉永六年(1853年)浦賀にペリーが来航。師匠である佐久間象山は、幕府がオランダに軍艦建造を注文したことを喜び「すぐれた人材を選び、海外に出して一緒に色々学ばすのはどうか?」と密かに幕府に意見書を提出した。しかし、人材を送ることは断交されなかった。これを知った私はこの時に「海外渡航」の志を固めた。

佐久間象山 - Wikipedia

 

江戸を発つ

安政元年(1855年)3月3日

 友人と花見に行き、楽しむ中でその気持ちがふと悲しみに変わった。

胸に秘めた計画が実現して、海外に行くことになり、そこで一生を終えればもうこの江戸の桜をみることはないだろう。という感慨と外国船が近くの沖に碇泊しているというのに女、子供は国家の大患も知らないように花に浮かれている。この有様への慨嘆が心中を去来した。

 

3月4日

 以前から自分の狂暴な行動を心配してくれていた兄を訪れ「鎌倉で静かにしようと思う」と嘘をつく。アメリカと戦うなら戦う。戦わないなら海外に出て学ぶ。そう決めている自分の言動を人は狂暴と思うのは当然であろう。兄の厚意ある忠告にだから背くのだ。

 

3月5日

 友人たち(坪井・宮部・永鳥・松田・佐々・白井・来原・赤川)と酒楼に登り、自分の海外渡航計画を打ち明け意見を求めた。※この友人達については下部に補足。

 永鳥だけが最初から理解を示してくれたが、他は皆反対だった。しかし、徐々に同調してくれた。ただ宮部だけは「危険な計画だ」と断固反対であった。

 

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来原と宮部が議論をはじめた

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永鳥が口を開いた

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 こうして宮部も自分に思いとどまる気がないことを知り、賛同した。その後、佐々が涙を流しながら自分に聞いた。

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私は涙ながらに訴えた。

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 一同大きくうなずく。そして別れた。

 

 宿に戻り荷物を整理する。持ち物はたった一つの包みだけ。中身は本のみである。

 

 また友人たちがやってきてくれた。佐々は涙の跡を残したまま自分の着物を抜いでかけてくれ、そのまま立ち去った。宮部は自分の刀と私の刀を交換して持たせてくれ、また一首よんだ

 

皇神(すめらみこ)の真(まこと)のみちを畏みて思ひつつ行け思ひつつ行け

 

 皆と途中まで歩き、そして別れていった。最後に残ったのは自分と自分の門人の渋木(金子重之助 松陰より1歳年下)。そして二人で保土谷(ほどがや)に投宿した。

 

〈友人たち〉

↓松陰の言葉通りに自分達の役目を果たしているんです。

※坪井竹槌 長州藩士 維新後国事に奔走。

宮部鼎蔵 肥後藩士 新選組が突入した池田屋事件で討死

※永鳥三平 肥後藩士 八月十八日の政変で投獄。獄中で病死

※松田重介 肥後藩士 池田屋事件で捕縛されるが脱走。見廻りの会津藩士に殺される

※佐々淳次郎 肥後藩士 後に明治天皇の養育係に。「一番こわかったのは淳次郎、そして一番ためになったのは淳次郎」と言われたという。

※白井小助 長州藩士 松陰が捕縛された時に金品送付などの役をする。後に戊辰戦争にも参加し、郷里で私塾を営んだ。

※来原良蔵 長州藩士 伊藤博文松下村塾に入れた人物。長州藩論の一変により自害

※赤川淡水(佐久間佐兵衛)長州藩士 藩内の俗論党のために処刑される。

       

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江戸周辺地図

失敗また失敗

 

3月6日

「投夷書」(アメリカ人に渡す為の手紙)を作った。

 偶然に師匠の佐久間象山の従僕に出会う。漁師を口説いて外国船に近づく方法がないか尋ねるとちょうど師匠も同じことを考えているとのこと。これ幸いと象山のところにいく。

 

3月7日

 漁師を口説き、酒を飲ませ、外国船に近づくことを了承させる。いよいよ夜になりお金を渡して、いざ外国船にという段になって漁師は尻込みし始め、結局行けなかった。

 

3月9日

 アメリカ人が横浜に上陸したと聞き、急遽かけつける。しかし着いた時には去った後だった。

「もうこの上は危険を避けていては成功しない。今夜は舟を盗んででも直接あのアメリカ船に漕ぎつけましょう!幸い今日は天気もいいし、波もおだやかです」と渋木は言った。そして昼のうちに舟を探しておいて夜その場所に向かった。

 しかし、夜になると舟はなく、波は山のよう。更に村の犬が群がってきてさかんに吠える。「なるほど泥棒もむずかしい」と思わず苦笑いをした。そして宿に戻った。宿にいた者から「またしくじったか」と言われた為、私は

しくじればしくじるほど志はいよいよ固まるばかりだ。これは天の試練だろうから、少しもへこたれない」と言った。

 

3月13日

 アメリカ艦が出帆。下田へ向かった為、自分も下田へ向かう。

 

3月18日

下田着

 

3月21日

ペリーの艦隊が入港。夕方から夜にかけて偵察。

 

3月26日

 今夜決行しよう!と夕方から渋木と海岸をぶらつき状況偵察。夜中2時になり、下田で小舟を盗み川を下って海へ向かう。途中番船がいることに気づき、二人の胸の動悸が早まるが見つからず、そのまま海に出る。

 しかし、波が高くうまく進まず失敗。舟を乗り捨て岸にのぼり、次の機会を待つ。

 

3月27日

 上陸中の1人のアメリカ人と出会う。そこで「投夷書」を渡す。今夜決行だ!

 

いよいよ黒船に乗船

 夕方渋木と海岸を見まわると漁舟2隻が浮かんでいる。それを確認した後、宿に戻り風呂に入り御飯を済ませ、再び海岸に戻る。20時過ぎまで海岸で横になる。漁船を見に行くと砂の上なので、潮が満ちるのを待って寝る。

 夜中2時。舟を見に行くと海に浮かんでいる。「よし今が決行の時」と舟にのると「櫓ぐいがない!」

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櫓杭(ろぐい)

 やむなく櫂をふんどしで縛り舟の両側にくくりつけ漕ぎだす。ふんどしは擦り切れ、帯でしばり舟を漕ぐ。そしてミシシッピー号にたどりつく。舟を横付けすると艦上では怪しんで明かりを降ろしてきた。

「我々はアメリカに行きたい。君がこのことを長官に請うてくれればありがたい。」

 と漢字で書きそれを手にもって艦に上がった。書を渡すと「ポーハタン号へ行け」と手真似でしていた。「連れて行ってくれ」と伝えるが「自分の舟で行け」とのことで、しぶしぶ元の舟でポーハタン号に向かった。

 舟はポーハタン号に辿りつくが、波が寄せる度にポーハタン号に舟が激突する。その音に気付いてアメリカ人は上から見ていたが、やがて腹を立てて木の棒をもって梯子を降りてきて、舟を突き出そうとした。突き出されてはたまらないと私はとっさに艦の梯子に飛び乗り「そのともづなを早く!」と渋木に叫んだ。しかし舟はまた突き出されようとし、渋木はともづなを捨て艦にとびのった。そして舟は押し出されてしまった。舟には刀や色々なものが残されていた・・・

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 梯子を上がるとアメリカ人は見物に来たと勘違いしたのか羅針盤などを指し示した。私は筆を指さし「それを貸してくれ」と手真似をするも全く伝わらない。そこに日本語の分かるウィリヤムスという者が出てきた。

 

アメリカに行きたい」松陰(漢字で書く)

「どこの国の字だ?」ウィリヤムス

「日本の字だ」松陰

「ああ漢字か」「名を書け」ウィリヤムス

昼間に上陸したアメリカ人に渡した「投夷書」の偽名を書くとウィリヤムスは一度部屋に戻り、その時の書を持ってきた。

「このことは長官と私だけが知っている。けれども横浜でアメリカの長官と林大学頭とは条約を取り決めた。だからこの条約を破って君の願いを聞く訳にはいかない。もう少し待てば遠からず両国の行き来は一国内のように道が開けるだろう。その時に是非来てほしい。それに我々はすぐ帰国するわけでなく3か月ここにいる」ウィリヤムス

「3か月とは今月から?来月から?」松陰

「来月からだ」ウィリヤムス

「僕らが夜に乗じてきたのは国禁を犯してのことだ。今帰れば必ず罰せられる。もう戻るわけにはいかない」松陰

「夜が明けないうちに帰れば日本の者は誰も気づかないだろうから早く戻ったほうがいい。下田の役人の黒川は承知しているのか?もし黒川が許可すれば長官も君らの同行を認めようが、黒川が許さぬとあらば長官もつれていけないのだ」ウィリヤムス

「では我々はこの艦中に留まっているから長官から黒川に掛け合ってほしい」松陰

「それはできない」ウィリヤムス

 

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我々は事の誤算に気づくとともに乗り捨てた舟が気になり、とうとう帰る決心をした。

 

舟を探してくれる。ということだったが、アメリカの小舟はまっすぐ海岸に乗りつけ自分達を上陸させてしまった。舟を探すあてもなく困っている間に夜が明けた。「こうなったらどうしようもない。捕らえられるのも見苦しい」と自首を決意する。

 

それにしてもウィリヤムスは間違えずに早口で日本語を話したが、こちらの言うことはいまいち理解できてないようだったが、あれはわざとだったのであろうか・・・。

 

後悔

 ちゃんと持ち物をもって艦にあがれていたら、心残りなく艦に留まり朝を迎え、昼は帰れないことを理由にもう1日留まり、その間に打ち解けて計画は成功したのに。

 失敗の原因は「櫓くいがなかった」ことささいなことが失敗につながるのだ。そしてこの結果は恥ではなく、天命を得られなかっただけだ。

 

~牢獄の中で~

 世界の情勢をよく観察し、対策を考え、あれこれ対処しなければならないのだが、机上の空論に走り、口先だけで論議する者たちはもちろんこのことにあずかることはできない。僕は身分が低いが皇国の民である。理のあることろ。勢いの赴くところを知る以上、一身一家を顧み、黙って座視していることはできない。僕が下田で米艦へ密航を企てたこともやむにやまれぬことだったのだ。

 今この計画に失敗した。現在の立場はあたかも空理空論を弄ぶ者と同じようなものでこの上なく恥ずかしいと思う。かつて自分は歴史書を読み、その中の人物に心を寄せ思わず泣いてしまったことがある。後世、私の一文を読む人が、胸をときめかせ、あるいはいたみ悲しむこと、かならずや僕が歴史書で抱いた気持ちと同じでないとは、誰が言えるだろうか。

 

最後に

かくすればかくなるものと知りながら已むに已まれぬ大和魂

 

 この歌がよまれるまでの松陰の行動・想いを感じられましたか? 友人たちとの別れは本当に熱く美しいものがあります。そして、海岸を行き来して何度も失敗。ようやく乗船できたが拒否され、そして自首することになりました。

 

「黒船が日本にやってきた」という事象をもって

自分事と捉え→具体的な行動に落とし込み→実際行動に移す

今の自分に置き換えてできますか?

そう考えるだけでも松陰という人物のすごさを感じられます。

 ちなみに、松陰が獄中で読んでいた本があります。それが赤穂義士伝』

この歌がよまれたのが赤穂義士菩提寺の前を通る時だったことはこの本からつながっているのかもしれません。

 

五七五七七の文字には心がのっています。

松陰が実際に考え、行動したことを字面だけでも追体験することで、当時の松陰の心に少しでも近づけられればと思います。すると、より和歌が胸に迫ってきますね!

 

今回参考にしたのは『日本の名著31 吉田松陰中央公論社です。

全て現代語訳で吉田松陰の名著の数々が収録されています。

 

 

 

心に和歌を!

最後までお読みいただき、ありがとうございます! 

 

 

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